歴史のかけら
81「天下の静謐のため、徳川殿も我がほうに養子を送られてはどうか?」
秀吉は、石川数正を通じて家康へそう言い送ってきた。
人質を差し出すというのは、この国の慣習から言えば、その相手に臣従するということであ
る。 徳川家では、この秀吉の要求に対して轟々たる非難と怒りの声があがった。 「戦に勝って、人質を送るなどという話は、聞いたこともないわ!」 当然であったであろう。なんといっても、家康は戦闘では勝っているのである。 家康は、秀吉相手に一度の敗戦も喫することなく、局地戦とはいえ「羽黒」においても「長 久手」においても勝利者になった。今回のことを家康の側から見れば、同盟軍である信雄が無断 で秀吉と講和したというだけのことで、別に家康が秀吉に敗れたわけではないのである。 しかし―― (秀吉に、臣従するか・・・・) 家康は、このことについては悩み抜いた。
情理の上では、まったく話にならないであろう。かつての信長でさえ、家康は同盟者ではあっ
たがその臣下ではなかったのである。まして秀吉などは元を辿れば信長の奴婢に過ぎず、家康が
頭を下げねばならぬいわれはどこにもない。 戦って勝てるか――といえば、これはまったく見込みがない。信雄をも抱き込んだ秀吉軍の 総兵力は20万以上――遠征軍だけでも軽く10万を越えるに違いない。これに対して家康の野戦用 の決戦兵力はせいぜい2万である。敵の侵攻を何度か跳ね返し、大いに悩ませることはできるか もしれないが、際限もなく繰り出される天下の兵を相手にしては、どれだけ粘ったところで最後 には滅亡せざるを得ないであろう。
家中の意見、ということで言えば、平八郎を含めてほとんどすべての家臣たちが秀吉に臣従す
ることに大反対していた。徳川家はどこまでも独立の大名であるべきである、というのが彼らの
意思であり、矜持であった。 「大いなるものには、従った振りをしておくほかない」 というのがその意見であり、天下統一に向けて昇竜のように勢いづいている秀吉に抗うことの 非を説いた。 (数正の言うておることが正しい・・・) 感情論はともかく、家康は内心ではそう思っている。
家康ほどの政略感覚を持った男である。戦って勝ち目のない相手に無謀に抗い、徳川家を潰し
てしまっては元も子もないことくらいはとうに解っており、信雄との共同戦線が崩れてしまった
以上、よほどのアクシデンタルな事態が起こって秀吉の政権が瓦解でもしてしまわない限り、い
ずれは秀吉が天下を握るであろうことも、徳川家がその傘下に入らざるを得なくなるということ
も、諦念と共に家康は見通していた。
家康は、三河者たちの主である。 家康は、非常に難しい選択を迫られた。
「よこせと言うなら人質はくれてやる。しかし、秀吉に臣従はせぬ」
家康は、次男の於義丸を秀吉の元へと送り、送ったまま沈黙した。
本来なら、家康自身が人質を連れて大阪へと上り、秀吉に拝謁して頭を下げ、人質を預けなけ
ればならない。そのことによって秀吉と家康との間に隷属関係が成立し、臣従したということが
内外に示されるのである。
家康のこの選択がいかに犀利な妙手であったかというのは、一方で秀吉は家康から
人質を受け取っているということであった。 (虚勢を張ってはいるが、どうにか外交で丸め込むことができるのではないか)
という希望を秀吉に与えることにもなった。
秀吉は、誰よりも政略感覚に優れた男である。 (脈がある) という直感を持った。
秀吉は、でき得るならば家康と戦うことはしたくない。 守戦に強く、執拗なほどに粘着性に富んだ家康と戦を始めてしまえば、勝つことは間違いがな いにせよ、それを滅ぼすのにどれほどの時間が掛かるかしれたものではない。それが 解っているからこそ、秀吉は家康に対しては最初から下手に出たし、信雄と戦うことが避けられ なくなってからでさえ、家康を敵に回さないようにでき得る限りの外交上の努力をし続けてきた。信雄との対決は不幸にも家康との戦いに発展し、結果として半年以上にわたって弓矢を交えてし まいはしたが、家康が戦うことなく自分の傘下に入ってくれるのならば、秀吉としてもそれが 最上なのである。
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