歴史のかけら
8今川領に近い三河の東部には、反徳川の姿勢をとる在地領主が多い。かつての三河の守護 であった吉良氏を筆頭に、今川家の被官(家来)になっている豪族や独立姿勢を貫く国人ら は、まだたくさんいたのである。 家康は、それらを次々と撃破し、あるいは外交で味方に引き込み、どんどん徳川家に吸収 していった。 今川家も、もちろん黙ってはいない。さかんに三河に兵を出し、今川方の勢力を保持しよ うと躍起になった。しかし国を挙げて大攻勢をするというほどの気概は今川氏真になく、 小出し小出しに出してくる兵力では徳川方を圧倒することなどできるはずもなかった。
この頃 平八郎は、15歳にして初めて殺人を経験している。 (そろそろ鍋も一人前じゃ。ここらで手柄を樹てさせてやろう)
そう思って山道を駆け進んでいると、ちょうど手ごろな1隊と出くわした。 「平八郎!!」
と叫んだ。平八郎には常に、自分について走るよう諭してある。 「平八郎!! まずは、この首討って手柄にせよ!!」 しかし、忠真の背後にいた平八郎は、この忠真の振る舞いに、かえって激昂した。 「わしは殿さまのために働いておるのじゃ! 『もらい首』など、なんの手柄ぞ!!」 一声叫ぶや飛鳥のごとく別の敵影に向かって駆け出し、瞬く間に槍で突き伏せ、相手の首 を掻き獲ってしまった。 (鍋もなかなか・・・“漢”になりおったわ!)
このことがよほどに嬉しかったのか、忠真は論功行賞のとき、家康にそっくりその通りの報
告をした。 「鍋はいよいよ三河者じゃ」
人の武功を盗もうとせず、自らの手柄は自らの手で樹てようとするその真っ正直さが良い、
というのである。
少し後の話になるが、家康には「素手で刃物を取る馬鹿」という有名なエピソードがあ
る。 「その手の者、当家には不要である」
と不機嫌そうに言ったまま、男になんの褒美も与えなかった。 「刃物を持った相手に対しては、相応の道具を用意し、人数を用意し、それらをきちんと部署 したうえで相手を取り押さえるのが分別のある者のすることである。素手で1人で立ち向かう などというのは自分誇りの人間のすることで、こういう人間に人数を与え、戦に使うと、必ず 功名に逸って抜け駆けなどをし、結局そういう自儘な行動が元で全軍を危機に陥れたりする。 そういう自分誇りの人間は、わしの家来である必要はない」
家康が愛したのは、朴訥に、正直に、主のために働くことができる人間であった。
ある日、家康は岡崎城の小庭に平八郎を呼んだ。 「鍋、その槍、こなせるか?」
と、笑顔で聞いた。 「藤原正真の逸品じゃ。羽根を休めるためにその刃にとまった蜻蛉(トンボ)が、真っ二つに なって落ちたという話があってな。銘、“蜻蛉切”という」 「素晴らしい槍でございますなぁ」 平八郎はうっとりと“蜻蛉切”を眺めた。一丈三尺(3.9m)の柄には青貝が擂り込まれてお り、吸い付くように平八郎の指に馴染んでくる。 「初めて首級を挙げた祝いじゃ。くれてやる」 「・・・こ、この槍を下さるのでございますか?」 「おぉ、そうじゃ。鍋よ、その“蜻蛉切”に恥じぬ男になれ」 「・・あ・・有難き幸せにござりまする!! この平八郎、必ず殿さまのお役に立てる男になり まする!!」 この話は、たちまち岡崎中に広まった。
「三河一向一揆」という事件がそれであった。
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