歴史のかけら


合戦師

 織田家との同盟を成立させた家康は、今川家との対決姿勢を鮮明にし、三河に残る敵対 勢力の一掃にとりかかった。
 今川領に近い三河の東部には、反徳川の姿勢をとる在地領主が多い。かつての三河の守護 であった吉良氏を筆頭に、今川家の被官(家来)になっている豪族や独立姿勢を貫く国人ら は、まだたくさんいたのである。
 家康は、それらを次々と撃破し、あるいは外交で味方に引き込み、どんどん徳川家に吸収 していった。
 今川家も、もちろん黙ってはいない。さかんに三河に兵を出し、今川方の勢力を保持しよ うと躍起になった。しかし国を挙げて大攻勢をするというほどの気概は今川氏真になく、 小出し小出しに出してくる兵力では徳川方を圧倒することなどできるはずもなかった。

 この頃 平八郎は、15歳にして初めて殺人を経験している。
 東三河の長沢というところに鳥屋根城という小城がある。今川方に属する豪族の城で、 家康がこの城を囲むと、今川方が後詰め(援軍)を派遣し、乱戦になった。
 このとき平八郎は、叔父の忠真が率いる本多隊に属していた。
 じっくりと時間を掛けて武将の心構えや戦の仕方などを平八郎に仕込んできた忠真は、 「戦」というものにすっかり馴染んで動じることがなくなってきた甥に、そろそろ武功を挙 げさせたい。

(そろそろ鍋も一人前じゃ。ここらで手柄を樹てさせてやろう)

 そう思って山道を駆け進んでいると、ちょうど手ごろな1隊と出くわした。
 雑兵を家臣たちに任せた忠真は、敵の物頭と渡り合い、槍を叩き落して組み付くと、男に 馬乗りになって、

「平八郎!!」

 と叫んだ。平八郎には常に、自分について走るよう諭してある。
 鎧通しを相手の具足の隙間にねじ込み、抵抗する力を完全に失わしめると、忠真は相手の 両腕を再び押さえ込みながら叫んだ。

「平八郎!! まずは、この首討って手柄にせよ!!」

 しかし、忠真の背後にいた平八郎は、この忠真の振る舞いに、かえって激昂した。

「わしは殿さまのために働いておるのじゃ! 『もらい首』など、なんの手柄ぞ!!」

 一声叫ぶや飛鳥のごとく別の敵影に向かって駆け出し、瞬く間に槍で突き伏せ、相手の首 を掻き獲ってしまった。

(鍋もなかなか・・・“漢”になりおったわ!)

 このことがよほどに嬉しかったのか、忠真は論功行賞のとき、家康にそっくりその通りの報 告をした。
 これを聞いた家康は、手を打って喜んだ。

「鍋はいよいよ三河者じゃ」

 人の武功を盗もうとせず、自らの手柄は自らの手で樹てようとするその真っ正直さが良い、 というのである。
 家康には、もともと功利的な男を嫌う傾向がある。たとえば実力も伴わないくせに名前ば かりを売ろうとするような軽薄者には、憎悪するほどの嫌悪感を感じてしまうのである。家康 は、売名するような人間を極端に嫌い、嫌うことで家臣にそういう自分の気分を植え付けよ うと意識していた。

 少し後の話になるが、家康には「素手で刃物を取る馬鹿」という有名なエピソードがあ る。
 あるとき、城で乱心する者がでた。その男は刀を抜いて暴れ回って、何人も怪我人がでて いた。しかし男の勢いが凄まじく、誰もこれを捕らえることができない。そのとき、兵法自 慢の男がたった1人、するすると進み出て、素手のままこの男を取り押さえてしまった。
 家中の者はみなこの兵法自慢の男を褒め、殿様から褒美が頂けるだろうと羨望したが、 家康はこの話を聞き、

「その手の者、当家には不要である」

 と不機嫌そうに言ったまま、男になんの褒美も与えなかった。
 このときの、家康の言い分はこうである。

「刃物を持った相手に対しては、相応の道具を用意し、人数を用意し、それらをきちんと部署 したうえで相手を取り押さえるのが分別のある者のすることである。素手で1人で立ち向かう などというのは自分誇りの人間のすることで、こういう人間に人数を与え、戦に使うと、必ず 功名に逸って抜け駆けなどをし、結局そういう自儘な行動が元で全軍を危機に陥れたりする。 そういう自分誇りの人間は、わしの家来である必要はない」

 家康が愛したのは、朴訥に、正直に、主のために働くことができる人間であった。
 家康は、自分の家臣団が、尾張者のような狡猾で利己的な集団になることを恐れた。また 駿河の今川家のような贅沢で軽薄な集団になることも恐れた。どこまでも質実に、頑固で律儀 で勇猛な田舎者であることこそが望ましかったのである。
 その意味で、中世的な武士の臭いを色濃く残している「三河者」という人間たちを、家康 ほど愛した人間はいなかった。
 侍というのは主人に好かれたいと思うものであり、主人が好む侍になろうとするものであ る。家康は、平八郎を褒めることで、「政治」をすることにした。

 ある日、家康は岡崎城の小庭に平八郎を呼んだ。
 地面に片膝をつき控える平八郎に、家康は4mを優に越す長大な槍を投げ与え、

「鍋、その槍、こなせるか?」

 と、笑顔で聞いた。
 平八郎はまだ少年ながら、上背があり膂力も並外れて優れている。家康に一礼し、少し飛 び下がって間合いを取ると、槍を頭上で轟々と旋回させ、気合を込めてりゅうりゅうと見事に しごいて見せた。

「藤原正真の逸品じゃ。羽根を休めるためにその刃にとまった蜻蛉(トンボ)が、真っ二つに なって落ちたという話があってな。銘、“蜻蛉切”という」

「素晴らしい槍でございますなぁ」

 平八郎はうっとりと“蜻蛉切”を眺めた。一丈三尺(3.9m)の柄には青貝が擂り込まれてお り、吸い付くように平八郎の指に馴染んでくる。

「初めて首級を挙げた祝いじゃ。くれてやる」

「・・・こ、この槍を下さるのでございますか?」

「おぉ、そうじゃ。鍋よ、その“蜻蛉切”に恥じぬ男になれ」

「・・あ・・有難き幸せにござりまする!! この平八郎、必ず殿さまのお役に立てる男になり まする!!」

 この話は、たちまち岡崎中に広まった。


 もともと「平八郎の“蜻蛉切”」という言葉は、家康が「三河ぶり」をいかに愛している か、ということの証拠の挿話として人々の口に登ったものであった。
 家康の吝嗇というのはこの頃すでに有名で、戦場で多少の働きをしたくらいでは、領地の 加増はおろか褒美さえも貰えないことが多かった。そのケチな家康が、名槍を与えるほどに 平八郎の「三河者気質」を喜んだ、というのである。
 しかしこの言葉は、すぐに「“蜻蛉切”の平八郎」に変わった。
 なぜならこの直後、三河に住む者たちはみな、“蜻蛉切”を片手に暴れまわる平八郎の 武勇を、骨の髄まで思い知らされることになるのである。

 「三河一向一揆」という事件がそれであった。




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