歴史のかけら


合戦師

79

 秀吉の人生で、この天正12年(1584)4月10日の朝ほど、そのプライドを傷つけられたこ とはかつてなかったであろう。

「敵が、小幡城から消えておりまする!」

 という報告を受けたとき、秀吉ほどの男が、呆けたような表情で一瞬言葉を失った。

(・・・・やられた!)

 脳裏を占めたのは、悔恨だけであった。

 秀吉は家康を捕らえ損ね、「長久手」の負けを挽回する機会を永久に失った。それどころか、 天下人を自負する秀吉が、一地方の覇者に過ぎない家康に鼻面を引き回され、嘲弄されたも同然 であった。
 家康は、「羽黒の陣」に続いて得たこの戦勝を、世間に対して誇大に宣伝するであろう。
 秀吉の生涯において、ここまで見事に他人に出し抜かれたことはあったためしがない。

 秀吉は、竜泉寺城の本営でその報告を聞いた。
 しかし、秀吉の凄まじさは、その次の瞬間、天井が抜けてしまうような大声で高々と笑った ことであった。

「見たか、者ども!」

 秀吉は上機嫌の体(てい)で大笑いをし、左右に控えていた諸将の度肝を抜いた。

「これが、徳川殿の武略じゃ! これほどの秀吉が追おうにも足及ばず、罠でもとりもちでも捕 らえることができぬ。敵ながら、見事と言うほかないわ! まこと、古今にも稀な名将!」

 諸将は、呆気にとられた。敵将を褒めるような大将がどこにいるであろう。

 秀吉は、家康を褒めねばならなかった。この敗戦の屈辱から身を救い出し、諸将からの評価 を下げぬようにするには、敵である家康を褒めるしか手がなかった。そして、そのことによって 「家康との戦いなどは自分にとってはほんの遊びにすぎない」という絶対的な余裕を諸将に 見せ、陣中の気分を明るくし、敗戦のムードを薄めてしまおうとしたのであろう。

「・・・が、見ておれよ」

 秀吉はさらに笑顔で言葉を継いだ。

「それほどの徳川殿を、いずれこの秀吉が長袴を履かせ、上洛させるであろう。その方策も、 すでに我が胸中にあり!」

 それでもいずれ、家康は自分に対して臣下の礼を取ることになる、と秀吉は宣言した。自分の 大度量をアピールするために、敗戦までもをとっさに利用するあたり、秀吉も転んでただで起き る男ではない。
 さらに秀吉は、これまでに捕らえておいた徳川方の間者を解き放ってやり、この言葉を家康の 耳にさえ入れるようにした。「自分は家康を殺す気はない」ということを家康へ伝えるためであ り、この合戦に対する絶体絶命という気分を和らげ、徳川勢の戦意をすこしでも鈍らせる ためであった。

 武将の一挙手一投足、言葉の端々までが、すべて政治に直結しているということを、秀吉ほど 熟知している人間もいないと言うべきであろう。


 家康は、「羽黒の陣」に続き、「長久手」でも勝者になった。
 家康が小牧の陣地へ帰ってしまった以上、秀吉としても楽田の本営へ帰陣せざるを得ない。
 両軍が再び陣地に篭り、また持久戦の形になった。

 それから実に20日以上、戦闘は一切行われず、互いに対峙を続けるのみであった。

(家康の相手は、するだけ無駄じゃ・・・)

 5月を待つまでもなく、秀吉はそう思うようになっていた。
 考えてみればこの合戦は、信雄から領土を取り上げ、信長が創った「織田家」というものを 世間から消してしまうことがそもそもの目的であった。家康が信雄を後援したために図らずも 「秀吉 対 家康」という対決の構図が出来上がってしまったが、秀吉の側には家康と戦わねば ならない理由は一つもないのである。

 家康の側には、その理由があった。
 家康は、信長の後を受けた秀吉という男とその政権を怖れた。これを放置すれば、やがて天下を 掴むほどの勢いを得、自分の領国へ攻め寄せてくるであろうと予測し、だからこそその地盤が 脆弱なうちにこれを叩き、秀吉の政権を瓦解させてしまわねばならないと思ったのである。滅 亡の危険を冒してまで天下の秀吉軍を戦争に引きずり込んだのは、むしろ家康の側の都合と言っ ていい。

 このときの家康の主題というのは、あくまで「自分の領国を守るために秀吉と戦う」というこ とであった。
 しかし、秀吉の主題はそうではない。
 今の秀吉には、史上の誰もが為し得なかった壮大な主題がある。

「天下統一」

 ということである。
 この輝かしい主題のために、秀吉は脇目も振らずに働き続けている。

(時が惜しい・・・)

 秀吉は思った。
 このまま家康と対峙を続けても、なんら得るところはないであろう。大阪では秀吉の裁可を 待つ政務が今も山のように残っており、尾張のこんな片田舎で家康などと泥仕合をしているよ うなヒマは、そもそもないのである。

(家康と戦っても怪我をするだけじゃ・・・)

 という想いもある。
 三河軍団の精強さと守戦の強さ、そしてそれを率いる家康という男の実力を、秀吉は若干の恐 怖をもって値踏みし始めている。これと正面から戦うほど馬鹿げたことはないであろう。

(この上は・・・)

 秀吉は、方針を大転換することに決めた。
 家康と戦うのではなく、同盟軍の信雄を立ち枯れに枯れさせてやるのである。不覚人と呼ばれ た信雄ならば、いずれ耐え切れずに泣き出すに違いない。その機を捉えて信雄を抱き込めば、 家康は孤軍になる。
 百万石の同盟者を失ってしまえば、家康としても戦い続けることを躊躇するに違いない。

 戦闘で勝つよりも、政略で勝つ――!

 これこそが、秀吉の真骨頂と言うべきであろう。
 秀吉の闘志に再び火が灯った。


 秀吉は、大軍勢を尾張の野戦陣地に置いたまま、別働隊を伊賀、伊勢へと送り、信雄の城を 次々と攻撃、攻略させた。
 家康にしろ信雄にしろ、尾張の戦線を維持するのが精一杯で、とても伊賀や伊勢まで援軍を 送るような余裕はない。指をくわえて見ているほかどうしようもなく、5月のうちに信雄の所領 は尾張を除いてあらかた片付けられてしまった。

 これは、信雄にとっては悲痛であった。信雄がいかに戦争を継続しようとしても、その戦費 をまかなってくれる領地を根こそぎ持っていかれてはどうにもならない。
 たとえば、信雄が座っている清洲の町でさえそうであった。清洲というのは、信長が精力を傾け て築いた大商業都市なのだが、木曽川や伊勢湾を秀吉によって封じられたために肝心の荷の大半 が動かなくなり、商売はまったく火が消えたようになった。信雄の将来に見切りをつけた商人た ちは早々と夜逃げしてゆく始末で、町に住む人々からは、領主に対する不満の声が轟々と上がり 始めた。
 こればかりは、いかに家康といえど、どうしてやることもできない。

 秀吉は、信雄の所領を片付けると、

「こちらから敵に手を出すこと、まかりならぬ」

 と諸将に厳命し、陣地の守備を任せて自身は大阪に帰ってしまった。

 家康は、戦う相手を失った。




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