歴史のかけら


合戦師

78

 一方、その頃の家康である。

 長久手で快勝を得た家康は、すぐさまその場で首実検を行った。
 徳川勢が長久手で乱獲した首級は、実に2千5百を数えていた。略式にして急ぎに急いだが、 それでもすべての実検が終わったのは、4月9日の午後2時ごろであったらしい。

 家康は、ともかくも小牧の陣地へと帰らねばならない。無事に小牧陣地に帰陣してこそ、 この戦いの「勝利」が完成したと言えるのである。

 この時点で、家康には秀吉軍の情報は一切入っていなかった。しかし、家康ほどの男である。 秀吉が取るであろう行動は、当然ながら予想がついていた。

(わしが動けば、それを機に秀吉も動くに違いない)

 という読みが、家康にはある。

 長久手は小牧から南東に10数kmの地点で、小牧へ帰るには北上せねばならないはずなのだが、 家康は、この場面で全軍を西へ向けて駆けさせた。
 長久手から一直線に小牧陣地に向かえば、長久手へと南下しているかもしれない秀吉軍と鉢合 わせしてしまう可能性がある。実際問題として、この状況で秀吉の大軍に遭遇すれば、ほとんど 一瞬で壊滅させられてしまわざるを得ないわけで、それでは危険が大きすぎる。

(それよりは全軍を西へと向け、とりあえず小幡城まで引き返し、敵の動きを見極めた上でこち らの動きを決めるほうが良い)

 と、家康は考えたわけである。

 小幡城というのは庄内川の南岸に盛り上がった丘に築かれた要害で、北を流れる庄内川 を天然の堀にし、東西南三方には二重の空堀を巡らして防御力を強化してある。ほんの砦程度の 小城ではあるが、ここに逃げ込んでさえおけば、万一敵に囲まれるようなことがあったとしても 数日の防戦には十分耐えられるであろう。
 家康らしい、慎重で用心深い判断であった。

 家康のこの用心深さが、家康と平八郎の命を救ったと言っても決して大げさではない。


 平八郎は、長久手の合戦に参加しなかった両軍のすべての武将の中で、誰よりも早く家康の この動きを探知した。これは、平八郎隊の突出した機動性と、捜索活動に熟練した平八郎の揮下 の人々だからこそできた結果であって、「運」という言葉で片付けるべきものではない。

 平八郎は、家康が小幡城へ入ったという情報を受け、安堵した。

(殿は、さすがに慎重であられる)

 もし家康が長久手からそのまま北上をしていたら、平八郎は当初の予定通り秀吉軍に噛み付 いて敵を足止めし、手勢のことごとくが死に絶えるまで戦って家康のために時間を稼いだであろ う。
 しかし、状況は刻々と変化している。

(わしがいま、殿のためにすべきことは・・・)

 平八郎は、秀吉軍への攻撃をやめた。
 家康を小幡城から小牧の陣地へと無事に帰らせることこそが、平八郎の新しい使命と言うべき であろう。


 家康が小幡城へと入ったのは、4月9日の夕日が傾きかける頃であった。
 家康は、不眠不休で働き続けている揮下の軍勢を労わりながらも、防戦のための部署割りと準 備で忙殺されていた。

 秀吉の軍勢がどこにいるか――この正確な情報がない限り、家康は小幡城を動けない。小牧 陣地へ帰ろうにも、下手に動いて秀吉の軍勢と遭遇してしまえばそれまでだし、極論すればこ の瞬間にも小牧陣地が秀吉軍に攻撃されている可能性さえある。つまり、秀吉軍がどこにいるか が解らない限り、動くことができないばかりか今後の行動の指針さえ決めることができないの である。
 家康は、何よりも情報を欲していた。

 そのとき、平八郎から使い番が来た。

「秀吉の軍勢が長久手へと南下しております。その数、およそ6万!」

 というものを第一報に、その後、秀吉軍の陣容、移動経路などの情報が家康の元へ続々と届け られた。これによって家康は、小幡城にいながらにして秀吉軍の行動を手に取るように把握する ことができた。

(・・・さすがは平八郎!)

 家康は、小牧の陣地を出てからこのときまで平八郎と一言も言葉を交わしていない。しかし 平八郎は、何の指示も受けることなく家康が喉から手が出るほど欲している情報を次々ともた らしてくれているのである。
 家康にすれば、このときほど平八郎の存在を有難く思ったことはなかったであろう。

 実際このとき、秀吉の軍勢は長久手を経て小幡城へと急行しており、家康が下手に小幡城から 動けば、野外で補足されてしまう可能性があった。家康の軍勢は昨夜から不眠不休で働き続け ている上、負傷者も多く、とても軽快な速度で移動することなどはできないのである。

(この上は、小幡城で篭城するよりない)

 家康は覚悟を決めた。


 小幡城からわずか2kmほど北東に、竜泉寺山という小高い丘のような山がある。竜泉寺という 縁起の古い寺があることからそう呼ばれている山で、この山頂には竜泉寺城という信長の弟が 築いた小城があった。
 秀吉がその竜泉寺城に本陣を据えたのは、家康が小幡城へと逃げ込んでから2時間と経ってい ないその日の日没前であった。

「この上は、すぐさま平攻めに攻めて一気に攻め潰すべし!」

 秀吉は小幡城を見据えながら言った。
 しかし、取り巻きの諸将は声を揃えて反対した。

「夜の城攻めは、味方に不測の事態起こること多く、面白うござりませぬ」

「兵馬も疲れておりますれば、一晩お休めになられては如何か」

「明朝、夜明けと共に攻め懸けるが上策であろうと存じまする」

 そのどれもが正論である。
 秀吉としても、この原則論には抗し難かった。

「諸将がそう申されるなら、やむなし」

 家康を追い詰めたという安堵感もあったのであろう。秀吉は城攻めを明朝と決め、そのまま 自身は竜泉寺城で休息した。諸将も山上で宿営したり、麓の村々でそれぞれ軍勢を休ませた りした。

 こうして4月9日の太陽が、濃尾の野に徐々に沈んでいった。


 驚くべきことだが、この日の平八郎隊の活動はまだ終わらない。

(秀吉が、今夜動くかどうか――?)

 これが、平八郎の最大の懸念であった。
 秀吉がその大軍勢に任せて昼夜を問わず力攻めに小幡城を攻めれば、いかに家康が死力を振 るって防戦しようと何日も保つものではない。

(一刻も早く小牧へと落とし申すほか、殿をお救いする術はない)

 平八郎は、そう確信している。
 そして、家康を無事に小牧へと導くためには、まず今夜の秀吉軍の動きを知っておく必要が あるであろう。

 あたりに夜の帳が降りる頃、平八郎は、揮下の騎馬隊をすべて捜索部隊にし、秀吉軍の布陣の 様子をつぶさに調べさせると共に、自身も数騎を引き連れて敵情を偵察に出た。
 その方法も、尋常ではない。
 平八郎は、闇に紛れ、森林を縫うようにして秀吉軍の陣屋にひたひたと忍び寄ると、その鼻先 で数挺の鉄砲を轟然と放たせ、なんとそのままたった数騎で敵陣に突入したのである。

 まったく奇襲を予期していなかった秀吉軍の将士は、仰天した。城攻めが明朝と決まった彼ら は、すでに具足を脱ぎ、炊事をし、飯を食ったり横になったりしているところであった。たと え奇襲軍が少数といえど、抗戦できる状態ではない。

「敵の夜討ちじゃ!」

 という声がそこここで響き渡ると、混乱が陣中を波のように伝わり、大騒ぎになった。

 平八郎は、行きがけの駄賃に逃げ惑う敵を数人突き伏せ、夜陰に紛れてさっと兵を引いた。 戦闘が目的ではないから、それで十分であった。

(秀吉の心底、知れたり!)

 敵兵が具足を脱ぎ、兵糧を使っていることが何よりの証拠であろう。秀吉軍による城 攻めは、今夜はないに違いない。

 平八郎は兵をまとめ、ようやく小幡城へと入城した。


 竜泉寺山からその麓の村々にかけて布陣した秀吉の空前の大軍勢が、闇夜を焦がすほどのおび ただしい篝火をたいている。記録によると、秀吉は徳川勢の夜襲に備えるために、一夜で竜泉寺 城を要塞化する土木工事を行わしめたらしい。
 家康は、小幡城の櫓に登って、闇の中に山が浮かび上がる幽玄な景観を凝視していた。

(今夜、敵は動くか・・・・?)

 というのが、家康にとってもぎりぎりの関心であった。もし秀吉軍が昼夜を問わずに攻勢を 掛けてくれば、家康に為すすべはない。
 家康は、精神的にも追い詰められていた。

 そのとき、

「殿はいずれにおわすや!」

 という聞きなれた声が、遠くから近づいてきた。
 言うまでもなく、平八郎である。
 家康は、自分でも驚くほどの安堵感を覚えた。

 家康を探し当てた平八郎は、強行偵察で得た情報を残らず家康へと報告し、

「今宵、敵は動き申さず」

 と断言した。
 家康は元来ものにためらいの多い男なのだが、平八郎の合戦における勘だけは疑ったことが ない。

「平八郎の申すことならば・・・」

 と、すぐさま信じた。

「この城を抜け、小牧へとお帰りになるは、今夜をおいてございませぬ」

 平八郎が言った。
 家康は、救われたような気分になった。実際、この窮地を逃れる方法は他にないであろう。

「任せる」

 即答した。

「されば、お道をご案内つかまつる」

 平八郎は、このためにこそ秀吉軍の布陣の様子をつぶさに探り、周辺の敵状と地理を調査し尽 くしておいたのである。

 徳川勢は、この4月9日の夜半、わずかの守備兵を残して小幡城から忽然と姿を消した。
 秀吉ほどの男が、不覚にも翌朝までその事実に気付かなかった。


 家康は、秀吉からもぎ取った「勝利」を、こうして完成させた。
 秀吉から見れば、家康の用兵は、緩急自在、神出鬼没と言うしかなかったであろう。
 この徳川勢の見事というしかない行動は、秀吉の記憶に鮮明に焼き付けられた。そして、のち のちまで秀吉に、家康という男を畏怖させる最大の要因になった。




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