歴史のかけら
合戦師
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徳川家がまだ三河の小大名に過ぎなかった昔――平八郎が家康に将校として抜擢されたばか
りの頃から、平八郎の調練好きというのは三河では有名であった。暇さえあれば手勢を率いて山
野へ繰り出し、地を駆け、山を登り、あるいは川を渡河させ、あるいは模擬戦を繰り返して兵に
巧みな部隊運動を覚えこませ、兵の錬度を高め、平八郎の指揮の呼吸を染み込ませるよう務めて
いたのである。このため、合戦巧者の多い徳川家の中でも、平八郎隊ほど戦場行動が巧みな部隊
はなかった。
平八郎の訓練の最大の特徴は、手勢のすべての人間――足軽(歩卒)の端々にまで馬術の修練を
させていたことであった。このことは特に、
「本多の馬足軽」
と呼ばれて珍しがられたりしたのだが、これによって平八郎隊は、全員が乗馬で移動する
ことが可能になっていた。平八郎は、たとえば敵状偵察などの迅速な移動が必要な状況に応じて
それを活用し、ときに他の部隊では考えられない機動力を発揮してみせた。
近代以前のこの国の軍隊では、馬に乗る者とは将校であり、これに家来が足軽(歩卒)となって
従う形で小隊が作られていた。足軽とは本来が領民出身の者のことで、武士の階級には属さない
から、馬に乗る資格がないのである。つまり、構成員のすべてが馬に乗っている部隊というのは
考えられないものなのだが、平八郎はあえてその慣習を無視し、手勢のすべての人間に馬術の技
能を要求した。
機動力に特化したこういう特殊な部隊を作ったのは、本邦の長い歴史を見渡しても、あるい
は源義経と平八郎だけであったかもしれない。
小牧の陣地を出陣するにあたって、平八郎は手勢のすべてを馬に乗せた。家康の機動軍へと
急行している秀吉の軍勢に擦りかけるには、それを遥かに上回る軽快な移動速度が必要であり、
それができるのは平八郎隊をおいて他にはない。
平八郎は全軍を3隊に分け、さらに50人以上を敵の諜報と偵察、連絡のための要員として駆
け回らせ、状況の把握に務めた。家康の動きと秀吉の動きを同時に知り、さらに現状をつぶさに
家康へと報告することができなければ、家康の助けにはならないであろう。
秀吉の軍勢と平行に走るようにして全軍を南下させながら、平八郎は頭に叩き込んである尾
張の地理を反芻し、秀吉の行軍進路を読み、それに絡みついて足止めができる地点を探した。
秀吉の軍勢は、小牧の野戦陣地の東側を素通りしてほとんど一直線に長久手へと進軍してい
た。
野山を埋め尽くしてしまうような大軍である。
派手好みの秀吉の軍勢であるだけにその威容はまさに輝くばかりで、金銀の装束や諸道具が五
月晴れの陽光のなかに煌くさまは、天兵が地に舞い降りたような観さえあった。
濃尾平野には大小の川が網の目のように走って地を割っているのだが、小牧山の10kmほど南を、庄内川という大河が東西に流れている。
平八郎隊が駆けに駆けて秀吉の軍勢を補足したとき、秀吉らは庄内川の支流の土手を南下して
ゆくところであった。その行列は、数kmにわたって延々と伸びている。
秀吉その人の所在はすぐに解った。巨大な“金瓢”の馬標が、紅白の吹流しや旗を従えながら
行列の先頭付近で燦然と輝いていたからである。
「あれじゃ、敵の本隊へ擦りかけよ!」
平八郎は馬を懸命に駆けさせながら叫んだ。
平八郎隊は田のあぜを縫うように走り、野を横切り、小川を飛び渡って川向こうの秀吉軍へと
擦り寄っていった。
平八郎隊の接近は、当然ながら秀吉軍から非常によく見えた。
「なんじゃあれは?」
秀吉には独り言を声に出してしまう癖があるのだが、このときもついこれが出た。
「敵の物見にて候や」
左右の側近がすぐさま答えた。ほんの数百ばかりの小勢である。まさかあの程度の人数で
この6万の大軍に戦いを挑んでくるはずもないから、そう考えたのも無理はなかったであろう。
「物見ならば、打ち捨てておけ」
秀吉は即座に言った。今はともかく、戦機を失ってしまう前に長久手へと辿り着くことが急
務であった。渡河してまでわずか数百の敵を構ってやるようなヒマはない。
秀吉軍は、平八郎隊を無視して行軍を続けていった。
川を挟んで、秀吉の6万の大軍勢と平八郎率いる5百の騎馬隊が併進してゆく格好になった。
「鉄砲を撃ちかけよ!」
平八郎は命じた。
本多隊の諸士が馬から降り、馬に括りつけてあった鉄砲を取り出して射撃の準備をし、そここ
こに折り敷いて秀吉軍へと鉄砲を撃ちかけた。あたりの空気が硝煙で白むほどに射撃した。
この銃弾は、秀吉軍を多少驚かせた。
無論、被害などはない。どころか平八郎隊が射撃した弾丸は(距離があり過ぎたために)秀吉
軍に届いてさえいなかったのだが、このことによって敵に交戦の意志があるということが伝わっ
たわけである。
秀吉の左右の者が騒ぎ出した。
「一揉みに揉み潰してまいりましょう!」
などと言う者もあったが、
「捨て置け」
秀吉は厳命し、そのまま行軍を続けさせた。
平八郎は手勢を馬に乗せ、すぐさま秀吉の本軍を追尾し、また土手に折り敷かせて何度も射撃
を繰り返させた。
「秀吉一人を狙え!」
平八郎は叫んだ。
平八郎にすれば、別にこれが秀吉に当たろうが当たるまいが構わない。そのことで秀吉を挑発
し、激怒させ、自分に向かって襲い掛かってくるようにするか、あるいは射撃戦をするために敵
が足を止めてくれるだけでもいい。要は敵の足を少しでも鈍らせ、平八郎隊が全滅するまで時間
が稼げればそれでいいのである。
平八郎は、執拗にこの挑発を繰り返した。
(どうもおかしい・・・)
川の向こうから執拗に射撃を浴びせてくる敵を見ながら、秀吉は思った。
あの敵が本当に物見であるならば、こちらに向かって射撃をしたり、まして挑発をするよう真
似をするはずがないであろう。まったく奇妙な話だが、どうやら敵は、たったあれだけの人数で
あくまでも一戦を交えようとしているらしい。
(あんな小勢でどうするつもりじゃ・・・)
この6万という空前の大軍勢を相手にしては、一戦どころか一方的な殺戮が行われるだけにな
るであろうことは解りきっている。
秀吉は、敵の意図が解らず、判断に迷った。
「あの大将は誰か。名を調べよ!」
敵が純然とした戦闘部隊であるならば、必ず名のある大将に率いられているはずである。敵将
の名が解れば、あるいは敵の意図を読む手助けになるであろう。
目を細めて対岸を見やりながら、秀吉は左右に大声でそう命じた。
そのとき――
対岸の敵の部隊から、たった一人、騎馬のままで土手を駆け下って川辺へと下りた者があ
る。
長大な槍を携えた、鹿の大角の兜をかぶった漆黒の武者であった。
「あの黒具足に鹿の角の前立ての者こそ、敵の大将にござろう!」
「その装束ならば、徳川家に聞こえた本多平八郎に相違なし!」
秀吉の側近たちが騒ぎ出した。
その声を聞いた秀吉軍の足軽たちが、大慌てで鉄砲を取り出し、銃撃を開始した。本多平八
郎と言えば、徳川家きっての合戦上手として他国にまで名が響いた剛勇の士であり、徳川家の重
臣中の重臣である。これを撃ってとれば、莫大な恩賞にありつけることは間違いがないであろ
う。
土手の上から川辺までは、指呼の間と言っていい。射撃の名人と呼ばれたほどの者が、強薬を
込めて撃てば、十分に撃ち殺すことができる距離であった。
数十発の銃弾が空気を切り裂き、男のまわりの水を次々と跳ね上げた。
しかし、男はまったく動じない。悠然と馬から降り、川の水で馬の口をすすがせ始めたので
ある。
天下の大軍を前にして、これほど愚弄した態度もないであろう。
「・・・本多平八郎・・・」
秀吉は、その男を知っている。
かつて、信長が最大の苦戦を喫した「姉川の大会戦」のおり、1万の朝倉勢にたった1騎で
突撃し、全軍の崩壊を防ぐきっかけを作った男がいた。男は信長からその絶倫と言っていい武
勇を激賞され、諸将の前で盃を受けるという名誉を浴したのだが、そのとき、秀吉は織田家の
一将としてその男をほんの数mの距離で目にしていたのである。
(・・・・あの、本多平八郎か・・・)
そのとき、秀吉とその男が言葉を交わすことはなかった。しかし、1万の敵にただ1騎で突
撃したというその事実だけで、男がどういう人間であるかは十分に知ることができるであろ
う。
蒼天の下、葦の生い茂る川辺で、男がゆったりと馬に口をすすがせている。
その前後左右では、いたるところで次々と派手な水柱が立ち昇る。その一つ一つが、男の命を
一瞬で奪い去ってしまう恐るべき銃弾であるはずなのだが、男はまるで何事もないかのように馬
の平首を優しげに撫でてやっている。
秀吉は、ほとんど呆然としながらその光景を眺めた。
このとき、秀吉には、すべてが解っていた。
あの男は、自分を挑発して激怒させ、それによって戦端を開かせ、たった5百やそこらの手勢
でもって6万もの軍勢と本気で戦うつもりなのであろう。
絶対に、勝ち目はない。
それでもあの男は、いくばくかの時を稼ぎ、家康に時間的な余裕を与えるというただそれだ
けのために、手勢のことごとくが死に絶えるまで戦おうとしているのである。
あの「姉川」の男なら、そのくらいのことは平気でやるに違いない。
「射つのを止めさせよ!」
秀吉は怒鳴るように命じた。
「あの者は、すでに死を決しているのだ。わざわざ死なせることはない。それより、あの男振り
を見物せよ」
秀吉は、男として、そして武士として感動していた。
男の中の男とは、武士の中の武士とは、まさにあの男のことを指すのであろ
う。そして同時に、ここまで主を想って働こうとしている健気な、そして誰よりも優秀な家来を
持った家康という男に、秀吉は嫉妬を感じていた。
自分が動員できる10万以上の人間の中で、あの本多平八郎のように自分のために命を捨てて
も尽くそうとしてくれる者が、一体どれほどいるであろう――
この光景は、秀吉の生涯でも格別の印象をもって記憶されることになった。
このとき、さらに秀吉はこう言ったという。
「もしこの秀吉に利運あれば、あの本多平八郎ほどの者、たとえ五十人、百人居ようとも、つい
には我が配下に参じ来るであろう」
秀吉の軍勢が一時足を止め、粛然と見守る中、男は馬に水を飼わせ終えると再び土手を駆け登
り、秀吉の方に一瞥を送り、手勢を引き連れて対岸の林の中へと消えていった。
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