歴史のかけら
76「あの無能者めが・・・・!」 秀吉は、その場にいない秀次に対して凄まじい怒声を放ったが、その思考は一瞬後にはまった く別の天地を飛翔していた。 (この負けを、勝ちを得るための転機にする!) ということである。
この時期の秀吉という男は、神のごとき「先見の明」を持っている。
成功を収める秘訣とは、災いを、福へと転じる好機と捉えることであり、かつその好機
を確実に生かすということであろう。 「馬ひけぇぇいっ!!」 “天下三声”と言われた凄まじいその大声が、魔猿の咆哮のように秀吉軍の本陣を鳴動させ た。
秀吉がこのとき発した鋭気がいかに凄まじかったというのは、敗報に接した次の瞬間には本営
を飛び出し、直属軍の2万を直ちに動かしたことでも解る。秀吉自らが馬を駆り、兵を置き去り
にするほどの勢いで出陣した。 (とにかく、急ぐことだ・・・)
と秀吉は思った。
秀吉には、この時点で、2つの選択肢があった。 (この機に家康を決戦に引きずり込み、野戦で一気に勝敗をつける!)
小牧山の陣地攻めは、秀吉にとって面白みが薄かった。強固な陣地に篭る屈強な三河軍団を
攻撃すれば味方にどれほどの損害がでるか解ったものではない上、この陣地攻めに1日、2日と
手間取れば、その間に家康が清洲城まで撤収してしまうであろうことは間違いがない。そうな
れば家康の主力部隊と信雄の連合軍が小牧山を攻める秀吉軍の後方を脅かすに違いなく、陣地
攻め自体の成功さえ覚束なくなってしまうだろう。
秀吉には、自信があった。 家康とて、その例外ではないであろう。
裸の野戦をする場合、常識として倍以上の敵とは戦えない。まして家康が率いるのは早 朝からの合戦で疲労した1万にも満たない兵であり、秀吉が率いるのは無傷の兵6万である。ひ とたび戦端が開いてしまえば、これは勝負にさえならないであろう。 (・・・殿が危ない!!)
平八郎は、すぐさま馬を飛ばして酒井忠次の陣屋へと駆け込んだ。とにかくも、この一大事を
他のニ将と協議すべきであった。 「羽柴が動き申したぞ!」 「そんなことは、見れば解る!」 石川数正が不愉快そうに唸った。 「殿さまを、救援にゆきましょう!」 平八郎は、すでに血相が変わってしまっている。 「少し落ち着け、平八郎!」 徳川家の二人の家老が、声を揃えて怒鳴り返した。 「殿さまを救いにゆくほどの兵力が、一体どこにある!?」
平八郎は、口を噤まざるを得ない。 「我らには、この陣地を守る責務がある。ここは、様子を見るほかない」
酒井忠次が言った。 もし平八郎たちが小牧陣地を放棄して全軍で家康の救援に向かうようなことをすれば、秀吉は 喜んでこの陣地を拾ってしまうであろう。そうなれば家康は帰る場所を失い、つまるところ強大 な秀吉軍に野戦で捻り潰されてしまわざるを得ない。小牧陣地の維持というのは全軍の崩壊を防 ぐための絶対条件であり、それが解っているからこそ家康は、もっとも信頼する男たちに陣地の 守備を任せたのである。 しかし―― 「殿が生きておわせばこその陣地でござろう! 殿が死んで陣地だけを守っておって何になり ましょうや!」
平八郎には、それ以外のいかなる思案も浮かばなかった。
家康のために働き、家康のために死ぬ――それが、平八郎のすべてであった。 「いい加減にせよ、平八郎! まだ殿が死ぬと決まったわけではないわ! 殿が羽柴の軍勢から 逃れたとき、この小牧の陣地がなくなっておれば、どうなる!」 「たとえ我らが全軍を率いて殿の加勢に向こうたとて、敵はあの雲霞のような大軍じゃ。わずか 5千やそこらの兵でどうこうできるものではない。ここは、動けぬ!」
二人の家老は、頑として譲らなかった。 平八郎は、議論の無駄を悟った。 「されば!」 決然と言った。 「ご両所は、この陣をお守りくだされ。わしは、手勢のみを率いてゆく」
二人の家老も、さすがに言葉を失った。 「・・・それで、何ができると言うのだ。ゆくだけ無駄ではないか」 石川数正が、呆然とした表情で尋ねた。 「我が手勢、ことごとく討ち死にするまで戦って敵の足を止め、わずかでも時を稼ぐことがで きれば、それで良いのです」 平八郎は、静かに答えた。 「戦うにせよ、逃ぐるせよ、その時間で殿の働きがいくぶんなりと楽になりましょう。さすれ ば、無駄ではない」 これ以外に、平八郎が家康のためにできることはない。 侍には、自らの死に場所を決める権利がある。こう言われてしまえば、二人の家老といえど も平八郎を止めることはできなかった。 「・・・好きにせい」 酒井忠次が言った。武士の決意に、もはや口出しは不要であろう。
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