歴史のかけら


合戦師

75

 主力を率いて出撃してゆくことを決めた家康の不安は、兵力が極端に不足することになる小牧 山の野戦陣地であった。

 秀吉が採用した三河奇襲の「中入れ」作戦は、家康にとって巨大なチャンスであると同時に 諸刃の剣であることはすでに述べた。
 家康が首尾よく敵の機動部隊を叩きのめすことに成功したとしても、その隙に小牧山の陣地が 秀吉の本隊に攻撃されては一大事である。もしこの陣地が壊滅し、敵に占領されてしまうような ことになれば、徳川勢は身を守る術を失い、自軍の数倍という圧倒的な秀吉の軍勢を相手に裸の 野戦をせねばならなくなる。そうなれば勝負にさえならず、家康以下すべ ての三河者たちが尾張の山野で無残な屍を曝すしか仕方がなくなるであろう。

 小牧山の野戦陣地の守備というのは、だからこの場合、非常に難しい役割ということになる。 徳川軍の主力が陣地から消えてしまっていることを敵に悟られないようにせねばならず、家康が 不在の状況で敵のいかなる動きにも柔軟に対応して適切な処置をとることが求められる上、いざ という時には寡兵で圧倒的な大軍である秀吉の本隊から陣地を死守せねばならないのである。

 家康は、徳川家で最高の戦術・戦略能力を持ち、かつ最強の戦闘指揮官と信じる三将に5千余の 兵を預け、野戦陣地の守備を任せることにした。
 家康が選んだのは、徳川家のただ二人の家老である酒井忠次、石川数正と、他ならぬ平八郎で あった。

(この男どもならば、いかなる事態が起ころうと、なんとか絵を描くであろう)

 という期待を、家康は持っている。
 小牧山の野戦陣地の維持というのは、徳川家の命運を握ると言っていい。この男たちにならば、 安心して命を預けることができる。


 平八郎は、家康の部署割りが不満であった。

「殿さまには、小牧山のご本陣にあっていただかねばなりませぬ!」

 噛み付くようにして家康に詰め寄った。

 平八郎にとって、家康がこの小牧山の陣地から出てしまうことほど不安なことはなかった。 なぜなら、家康が安全でいられる場所というのは、尾張では小牧山の陣地の中と清洲城の他にはな いのである。野に出てしまえばいかなる不測の事態が起こるかもしれず、秀吉がどんな罠を構え ているかさえも解りはしない。たとえば秀吉の本隊が、陣地から出た機動部隊に食いついてくる ことも十分に予想できるのである。その機動部隊を全軍の総大将である家康が率いるとなれば、 いかに小牧山の陣地を守っていたところでしょうがないであろう。家康の死というのは、そのま ま徳川家の滅亡に直結してしまうのだから。

「拙者に、その大将をお命じくだされよ。必ずや殿さまのご期待に副うてみせまする!」

 平八郎は必死に家康の翻意を促した。

「いや、わしがゆく」

 家康は、このことばかりは譲らなかった。
 家康は、自ら陣頭に立たねばならない。乾坤一擲の勝負である以上、絶対的な指揮権を 持つ人間こそが采を振るべきであったし、総大将の家康が攻撃部隊にいるといないとでは士卒の 士気も、敵に与える心理的影響もまったく違ったものになるであろう。
 全力をもって、必勝を期すべきであった。
 家康は、この勝負に賭けていたのである。


 榊原康政らに率いられた4千余の先発部隊と、家康率いる9千余の主力部隊(内2千は信雄から の援軍)は、4月8日の夜陰に紛れて密かに小牧山の陣地を抜け出し、3時間の夜行軍の末、小 牧山から10kmほど南方の小幡城へと移動した。

 敵の三河奇襲部隊(秀吉の甥の秀次が総大将になっているので今後は「秀次軍」と呼ぶことにす る)は、4月8日の昼間は休息と軍勢の集結にあて、日が没するや再び三河を目指して夜行軍を 再開していた。
 秀次軍の総数は2万。先鋒が池田恒興隊の6千。中軍に森長可隊が3千、堀秀政隊3千と続き、 秀次率いる8千の部隊を最後尾に2列縦隊で延々と行軍してゆく。ほとんど信じられないことだ が、彼らは敵地のど真ん中を横切って行こうとしているにも関わらず、周辺の警戒をまったくお ざなりにしていたらしい。徳川勢が後方から魔物のように忍び寄ってきていることを、襲われる その時までついに気付かなかった。

 家康は、おびただしい諜者を放って秀次軍の動きをつぶさに監視させ、上空から蟻の行列でも 俯瞰するが如くに敵の行動を知り尽くしていた。秀次軍の諸将は、この徳川勢の動きを一切知ら ない。

 襲う側と、襲われる側――立場がまったく逆になったわけである。

 そして――
 秀次軍の将士にとっての悪夢は、4月9日の夜明けと共に始まった。

 秀次本軍は、夜を徹した行軍を終え、白山林という台地のふもとで大休止の体勢を取っていた。 士卒はことごとく休息しており、多くの者が薪を集めに走ったり炉を作ったりしながら炊事の用 意をしているところであった。しかもこの部隊はまったくの無警状態であり、周辺に見張りの番 兵を哨戒させることさえしていなかった。
 この宿営地に向かって、榊原康政らに率いられた4千余の先発部隊が、背後から襲い掛かった のである。千挺の鉄砲が一斉に火を噴き、轟雷のような銃声が空気を切り裂いた。
 夜が明けたとはいえ台地のふもとの林間のことであり、朝霧に閉ざされたあたりはまだ数m先 の人間の姿さえ判然としない。そういう状況で、まったく予期せぬ襲撃を受けたのだからたまら ない。秀次軍の将士にとって、霧の中から攻撃してくる敵というのはほとんど無数に思われた であろう。硝煙の中から徳川勢が狂ったように敵陣に突撃し始めると、彼らは完全な恐慌状態に 陥った。
 そして、一方的な殺戮が始まった。
 徳川勢は逃げ惑う敵兵を思うままに切り散らし、秀次隊は防戦どころか身一つで逃げるのが 精一杯で、総大将である秀次自身が馬さえも失い、側近に助けられながら徒歩立ちで命からが ら逃げた。
 勝敗は、ほとんど一瞬で決したと言っていい。

 4千余の先発隊は、8千の秀次隊を完全に壊乱させ、そのまま敵を追ってどこまでも追撃した。
 欲を出した、と言うべきであろう。
 勝利に勢いづいた兵というのは、そう簡単には止まらない。彼らは次の敵を求めて追いに追い、 ついに5km以上にわたって突き進んだが、そこには後方の異変に気付いた堀秀政隊3千が、高 地に銃陣を敷いて待ち構えていた。
 堀隊が擁していた2千挺の鉄砲による強力な一斉射撃で徳川軍の先発隊は凄まじい被害を受け、 5百人以上の死者とその数倍の重軽傷者を出し、事実上 戦闘不能状態に陥った。徳川方の追撃は そこで止まらざるを得なくなったのだが、孤立を恐れた堀隊も戦場を離脱したため、この方面で の戦闘はそれで終結した。


 秀次軍の先鋒隊である池田恒興は、後方の秀次隊がすでに壊滅し、堀隊が戦場を離脱してし まっていることにまったく気が付かなかった。
 呆れるほどの無用心さと言わねばならないであろう。
 森長可隊と共にのろのろと前進を続けるうちに、味方の伝令によってようやく事態を把握し た。

(なんということだ・・・!)

 いつの間にか後方部隊が煙のように消え、自分たちの部隊だけが敵地で孤立してしまってい たのである。
 この事態は、池田恒興の想像力ではまったく考えられないことであった。しかし事実である 以上、もはや三河へ進軍するどころの騒ぎではない。敵の哨戒を掻い潜り、どうにかして秀吉 の野戦陣地まで逃げ帰るほか手はないであろう。
 池田恒興は全軍を北へと転進させ、長久手方面へと進んだ。

 家康は、敵の動きを完全に読んでいた。
 背後から急襲された秀次軍が慌てふためいて進路を北に取るであろうことを見越し、あらかじ め長久手方面に進出、主力を高地に展開させて秀次軍を待ち構えていたのである。
 秀次軍の将士にとって、この徳川勢との遭遇は、悪魔との邂逅にも等しかったであろう。

 秀次軍の将士をもっとも驚愕させたのは、長久手の富士ヶ根という高地に、敵の総大将である 家康の“金扇”の馬標が朝日を受けて燦然と輝いていたことであった。

(まさか、家康自身が出馬してきておるのか・・・・!)

 ということほど彼らを驚かせ、動揺させたものはない。彼らの常識からす れば、こんな局地戦に敵が主力を投入してこようとは思いもよらなかったし、まして総大将であ る家康自身が出馬してくるなどは考えられないことであった。
 秀次軍の将士というのは元はほとんどが織田家の者であり、共に戦った経験から家康という男 の野戦の上手さと家康が率いる三河軍団の恐ろしさ、戦場での苛烈さというものを知り尽くして いる。それに家康自ら出馬してきているということは、敵の兵力が巨大であるということのこれ 以上ない証拠であろう。後方部隊が消滅し、背後にも敵を受けてしまっている 今、敵地で孤軍で戦わねばならない彼らにあるのは、絶望だけであったと言っていい。
 秀次軍の士気は、戦う前から萎縮し切っていた。

 家康率いる徳川勢は9千余。
 先鋒は、井伊直政が指揮する「赤備え」であった。信玄以来の武田軍法で鍛えぬかれた甲州人た ちによって編成されたこの部隊は、戦国最強と呼ばれた武田軍団にちなんで軍装が真紅で統一 されている。他国にまで響いた徳川最強部隊であり、これほど敵に恐怖心を与えるものもなかった であろう。

 射撃戦の後、両軍はすぐさま激突した。
 長久手の狭隘部ですさまじい白兵戦が展開されたが、秀次軍は戦う前から完全に浮き足 立っており、勝敗は最初から決まっていたと言うべきであった。徳川勢の怒涛のような波状攻撃 で森長可がまず討ち死にし、森隊3千が壊乱すると、秀次軍は総崩れになり、戦場に取り残され た池田恒興も首を獲られて死んだ。

 家康の、完勝であった。


 家康は、この「長久手」で、その長い生涯においても類を見ないほどの痛烈な勝ちを得た。
 秀吉の三河奇襲部隊は文字通り壊滅し、家康はこの瞬間、史上でただ一人、「秀吉に勝った 男」という栄光を持つことになった。




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