歴史のかけら


合戦師

74

 秀吉が、取り返しのつかないミスを犯そうとしている。

 池田恒興が提案した「中入れ」作戦は、秀吉の感覚から言えば愚の骨頂で、わざわざ敵に巨大 なチャンスを与えるようなものであった。秀吉にはそれが痛いほど解っているのだが、しかし、 ついに断わりかねた。統帥権と絶対的な政治力を持たないということが、この時期の秀吉という 男の泣き所だったのである。

 秀吉は、この「中入れ」作戦に対する不安を、作戦に投入する兵力を増強することで補おうと したらしい。池田恒興隊 6千、森長可隊 3千に加え、合戦巧者の堀秀政隊 3千、さらに甥の 秀次に8千の兵を与えてこの作戦に参加させることにした。このため三河奇襲部隊は総勢2万に ものぼる大所帯となった。

「決して油断をなされるな。構えて深入りせず、作戦に齟齬が出たときは速やかに引き返され よ」

 秀吉は、諸将にくどいほど訓戒した。
 しかし、訓戒しながらも、この勘の良い男は前途に対する不安で胃液がこみ上げてくるほどの 不快さを感じ続けていた。この不快さを払拭するには「中入れ」作戦そのものをやめてしまうほ かないということまで秀吉には解っているのだが、いかんせんそれをするだけの力が今の秀吉には ない。

 天正12年(1584)4月6日の深夜、数万の味方に見送られながら、池田恒興率いる奇襲部隊は粛 々と秀吉軍の野戦陣地を出発していった。


 奇襲部隊の行軍は、難渋を極めた。
 彼らは馬をいななかせぬために枚(ばい)を噛ませ、鎧の草擦りを縄で縛り、先頭をゆく者以外は 無灯火という隠密行動をしつつ、街道を避け、山林を縫うようにして南西の方角に進んでいった。 家康の防衛ラインの西側を大きく迂回して通り抜けるためである。
 しかし、奇襲部隊は2万という大部隊であった。闇の中での隠密行動という最悪のコンディシ ョンである上、獣道のような山間の道を進んでゆくために行軍は一列縦隊にならざるを得ない。 結果として全体の移動速度は極めて鈍く、1km進むのに1時間以上かかってしまうような有り様で あった。

 この「中入れ」作戦は、隠密行動と迅速な移動こそが要諦であると言っていい。「不意に 三河に敵が出現する」からこそ、家康を仰天させることができ、敵を奇襲することができるので ある。しかし、その肝心な一点を、池田恒興という男はよく理解していなかったらしい。
 池田恒興は、出発した翌日には、すでに隠密行動を諦めていた。

(これでは、どうにもならぬ・・・)

 こんな速度で進んでいては、三河に辿り着くのに何日掛かるか知れたものではないであろう。 池田恒興という男の性格を考えても、そういう我慢を伴う行動は好みに合わないし、何より味方の 大兵力に油断し切っていた。

(猿の本隊が家康と睨み合っている以上、家康が我らに気付いたところでどうにもできまい)

 という読みが、池田恒興にはある。
 家康が自分の防御陣地を守りつつこの奇襲部隊に対して派遣できる迎撃部隊はせいぜい数千で あるはずだし、その程度の敵なら、手持ちの2万の軍勢だけで十分に勝利を得ることができるで あろう。たとえ家康にこの三河奇襲の意図を気付かれてしまったとしても、なんとでもなると高を くくっていたのである。

 行軍途中、丹羽氏次という男が守る岩崎城という徳川方の小城があった。
 池田恒興は、三河奇襲という作戦の本意とはまったく関係ないこの岩崎城に攻撃を仕掛け、攻 略した。徳川方の城兵三百は奮戦し、ことごとく討ち死にするまで戦って敵に時間を浪費させ、 敵の軍容や規模を家康へと伝えた。
 この時点ですでに、秀吉軍の奇襲作戦は奇襲でなくなってしまっているのだが、池田恒興は まったく気にする様子もなく、そのままのろのろと三河への進軍を続けていった。
 慢心というのは、人をどこまでも愚かにするものらしい。


 家康の元にこの敵の奇襲部隊の情報が入ったのは、翌日の夕刻――4月7日の午後4時ごろの ことだった。第一報はあらかじめ懐柔しておいた地元の百姓たちからの注進であり、その後、ばら 撒いてある諜者や岩崎城の守備兵からも陸続と情報がもたらされた。
 家康は、ただちにおびただしい数の斥候や諜者を放って情報の真偽を探ると共に、諸将を集め て軍議を開いた。

 話を聞いた平八郎は、仰天した。

(・・・そういうことが、あるものか・・・?)

 と思った。
 両軍が強固な野戦陣地に篭って睨み合いを始めてしまっているこの合戦というのは、先に動い た側が極めて不利であり、お互いが、相手が仕掛けてくるのを待っているようなものであった。 敵の大将である秀吉もそのことはよく解っているはずなのだが、この状況でわざわざ危険な「中 入れ」という策を選択するであろうか――?

 秀吉というのは不敗で知られた“常勝将軍”である。「中国大返し」や柴田勝家退治で見せた 神速としか言いようのない用兵は平八郎をも仰天させるものであったし、その戦術・戦略能力は 当代屈指と言うべきであろう。それほどの秀吉が、こんな愚かな作戦を本気でやろうとするとは とても思えない。

(・・・当方を誘き出すための罠ではないのか・・・?)

 という疑問が、頭をよぎった。
 数で圧倒する秀吉軍とすれば、徳川軍を野戦陣地から引きずり出すことさえできれば、確実に 勝利をものにできるであろう。敵の奇襲作戦自体が、徳川軍を誘い出すための欺瞞作戦であると 考えた方が筋が通るし、説得力もある。

 しかし、この敵の奇襲部隊が本気で三河へ移動していこうというのであれば、これは全力をも って叩き伏せなければならない。三河はいま空き家になっているも同然であり、2万もの軍勢で 攻められてはひとたまりもないのである。これを邀撃するには、どうしても敵に伍するだ けの軍勢を野戦陣地から出さねばならないであろう。

(・・・しかし、いざ軍勢を出せば、手薄になった陣地に敵の本隊が大挙して押し寄せてくるか もしれぬ・・・)

 という恐怖も、同時にある。
 たとえ敵の機動部隊を叩きのめすことに成功したとしても、小牧山の陣地が壊滅してはどうに もならない。徳川軍は敵を防ぐ術を失い、尾張の山野で貝を割られたヤドカリのような 哀れな姿をさらすことになるのである。

(これは、難題じゃ・・・)

 チャンスと言えば、千載一遇のチャンスであった。
 しかし同時に、巨大なリスクをも抱え込むことになる。

(危険な賭けだが、しかし、やるしかあるまい・・・)

 いずれにせよ、この状況を放置することはできない。ここは大兵力をもって一気に敵の部隊を 急襲、殲滅し、すぐさま軍を返して陣地へと撤収する以外ないであろう。これが秀吉の罠だと言 うならば、秀吉の予想をも上回るほどの速度で敵を打ち破り、罠を逆利用するだけである。

 軍議の席で、平八郎はそのように主張した。


 家康が出した結論は、平八郎のそれと同じであった。

(この機を逃すわけにはいかぬ・・・)

 家康は、決断の遅い男であった。常に思考が慎重で、果断な即決をすることがない。しかし家 康は、断じて優柔不断な男であるわけではなかった。ひとたび決断すれば、日ごろのこの男の 風貌からは想像もつかないほどの素早さで行動を起こし、断固としてそれをやり通す意志の強さ がある。
 このときも、そうであった。

 4月8日、派遣した諜者や斥候が続々と戻ってきて敵の様子がいよいよ明らかになった。敵は、 やはり三河を目指して進軍してゆくらしい。
 一方で、秀吉軍の主力は野戦陣地の本営である楽田に兵力を集中し、これ見よがしに示威行動 をしていた。これは機動部隊の作戦を眩まし、家康の目を引きつけるために秀吉がやらせていた のだが、これを見た家康は逆に敵の意図を悟った。

(敵の三河奇襲の意図は本物であり、しかも秀吉は、そのことに我らが気付いておらぬと思う ておるらしい・・・)

 家康は、敵の機動部隊の殲滅のために自ら主力を率いて出撃することを決断した。

「先鋒は小平太(榊原康政)に任せる。夜陰に紛れて陣を抜け、速やかに小幡城まで進め。わし自 らが主力を率い、その後を追う」

 4月8日の夕刻、家康は諸将を集めて部署と作戦を打ち合わせた。
 大将である家康自らが馬を出すと聞き、徳川軍の士卒は勇み立ったであろう。


 こうして、「長久手の合戦」とよばれる一連の戦いが始まった。




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