歴史のかけら


合戦師

73

 家康が築いた野戦陣地というのは、東西4kmにもわたる長大なものであった。
 地名で言うと、小牧山から始まって、東に蟹清水、北外山、宇田津、田楽となる。この4箇所 に強固な軍事拠点を築き、その拠点と拠点の間に柵を植え、空堀を掘り、その掘った土をかき上 げて土塁にし、堅固な防衛ラインを構築した。この様子を遠目に眺めれば、あたかも濃尾の野に 忽然と長城が現出したように見えたであろう。
 家康は、尾張南部で焦土作戦が展開できるよう各地に散らばる小城もそれぞれ改修整備させ、 なかでも本城になる清洲城と、小牧の前線への中間基地になる小幡城に大きな軍勢を篭めた。

 これに対し秀吉は、犬山城を後方基地にし、犬山城から家康の防衛ラインまでの間におびた だしい軍事拠点を築いてこの地域をそのまま要塞化しようとした。地名で言うと、二重堀、田中、 岩崎山、青塚、小口といった地点に強固な砦を設け、これを防衛ラインとして柵を植え、堀を掘 り、土塁をかき上げて防御力を強化し、さらにそのラインの後方の小松寺山、外久保、内久保、 楽田、羽黒といったあたりに砦を築き、広大な地域全体を強固な「防御陣地」に仕立てたのであ る。

「こんな戦は初めてじゃ・・・」

 秀吉軍の諸将は、敵に倍する戦力を持ちながら敵に攻め懸けることもなく、わざわざ防御陣地 を作ろうとする秀吉のやり方が不思議でならなかった。
 もともと秀吉の下に集まった男たちというのは、この合戦で功を挙げ、自分の領地を大稼ぎに 稼いでやろうという野心を抱いた者たちばかりである。彼らは隙あらば抜け駆けしてでも手柄を 立てようと狙っているわけであり、秀吉のこの慎重策はひどく不評だった。

「猿めは、臆病風に吹かれおったかよ」

 などと露骨に陰口を言う者もあり、この点、寄せ集めの雑軍である秀吉軍の統制はひどく難し い状態になっていた。


 小牧山の山頂からは、連日行われている秀吉軍の土木工事の様子を一望に見渡すことができ る。
 敵の目前で土木工事をするなどということは、いわば敵に向かって弱みをさらすということで あり、ありうべからざることなのだが、家康は、この好機をあえて黙殺し、軍を戒めて柵から一 歩も出さなかった。この敵前工事が、秀吉の誘いであるということを見抜いていたのである。

(ここで我らから手を出すわけにはいかぬ・・・)

 家康が攻め懸ければ、秀吉は得たりとばかりに家康を正面決戦に引きずり込み、総力戦で一気 に勝敗を決しようとするであろう。戦力差が隔絶している以上、そうなれば家康に勝ち目はな い。

「この戦、先に手を出した方の負けぞ!」

 家康は諸将に厳しく訓戒し、専守防衛の戦略を徹底させた。


 小牧山に詰めている平八郎の眼下で、秀吉揮下の数万の人間たちが、実に機能的に動き回って いる。
 平八朗は、秀吉軍の様子を眺めながら、

(・・・秀吉という男は、やはり稀代の仕事師かもしれぬ・・・)

 と、思ったりした。
 秀吉は、古くは墨俣に一夜で城を築いたという半ば伝説じみた逸話を持つ男であり、先年の中国 攻めでも巨大な土木工事をして次々に敵城を陥としている。そういった風聞は平八郎の耳にさえ達 しているほどで、土木工事とういうのはいわば秀吉のお家芸なのだが、それをこうして目の当たり に見ると、やはり驚嘆せざるを得ない。その手際の良さ、人間の配置の巧妙さ、働かせ方の上手さ というのは、平八郎の主君である家康の比ではないのである。
 事実、驚くべきことに、秀吉軍の土木工事はわずか4、5日の間で荒々ながら形ができあがり つつある。
 しかも、

(・・・食えぬ男だ・・・)

 と平八郎が思うのは、どうやら秀吉が、こちらの意図をすべて見抜いているらしいということ であった。
 秀吉が、その巨大な兵力に任せて力攻めに攻めてきてくれれば、平八郎たちは要塞の防御力を 頼みつつ防戦し、一方で別働隊と連携作戦を展開して敵を撹乱し、混乱させ、知略と死力を尽く して戦うことができたであろう。しかし、自軍に倍する兵力で防戦態勢を敷かれてしまえば、 もはやこちらから手を出すことはできない。

(しかし、対陣が長引くのは、こちらも望むところ・・・)

 もともと家康の作戦は、秀吉を泥沼の長期戦に引きずり込むことなのである。
 両軍が強固な野戦陣地に篭って睨み合いを始めるという状況になれば、これは先に手を出した 方が負けであり、そうそう動くことができなくなる。それは家康にとって、願ってもない展開であ ろう。
 秀吉の新政権はまだまだ基盤が脆弱であり、紀州や四国や九州に不安を抱えるいま、東海地方に 大兵力を釘付けにされる長期対陣などしたいはずがない。対陣が長引けば必ず焦りだすであろう し、功に逸って抜け駆けなどをする者も出てくるに違いない。

(だからこそ、勝ち目もある・・・)

 と、平八郎は確信している。
 家康は、秀吉と戦うこの一戦のために、ここ数年、入念な準備をしてきた。平八郎らの尽力で 「新徳川軍法」が完成し、士卒の訓練も十分にできていたし、農兵である徳川武士団の弱点を補 い、常に2万弱の軍勢を尾張に駐屯できるよう領国5ヶ国の武士団をローテーション制で徴用す るシステムも作り上げた。数年の交戦に耐えうるだけの糧食、武器弾薬も、まさにこの日のため に集積してあり、後方の不安をなくすために北条氏と婚姻を結び、強固な同盟関係も築いてある。
 たとえこの小牧の陣地で2年、3年と過ごすことになったとしても、家康は痛くも痒くもない のである。

 しかし、秀吉はそうはいかないであろう。


(この戦、うかつには動けぬ。先に動いた者の負けじゃ・・・)

 と思っているのは、秀吉も同じであった。
 秀吉と家康――両者の意図は、名人同士の棋譜でも見るようにまったく一致していた。

(どうにかして敵を陣地から引きずり出す。それしかない・・・)

 とお互いに思い、相手を挑発しようとし、怒らせようとした。
 矢文をもって相手を罵倒したり、陣地からわざと出て敵陣の前に軍勢を展開し、相手を誘き出 そうとしたりしたが、お互いが相手の意図を読んでいるのだから効果が薄い。結局、双方が動か ず、戦は局部の小競り合いにのみ終始し、対陣が無為に伸びていった。
 これは、家康にとって予定の展開であり、秀吉にとってもっとも面白くない展開であった。

 この展開を、

(つまらぬ・・・)

 と思っている男が、秀吉軍に中にいる。
 勝入斎――池田恒興であった。

 池田恒興が、「羽黒の陣」で散々な敗北を喫した“鬼武蔵”こと森長可の舅であるということは 先にも述べた。
 「羽黒の陣」の敗戦は、森長可の油断と戦場諜報の不備が直接の原因なのだが、池田恒興が合 流地点である羽黒村へ遅参したことが契機になったと言ってよく、「娘婿を見殺しにした」とい うことで恒興の評判はひどく悪いものになっていた。

(どうにかして華々しい戦功を挙げ、名誉を挽回せねばならぬ・・!)

 という焦りがこの男にはあり、知恵を絞って状況の打開策を考えていたのである。
 そして、

(家康が小牧山に張り付いておる間に、本拠の三河へ攻め込んでやれ)

 と、思いついた。
 たしかに徳川勢は尾張に大兵力を集中しており、三河を守備するために残された兵力はごく寡 少であった。いま三河を急襲できれば、家康は小牧山の陣地を放棄して大慌てで三河へ帰 らざるを得ず、秀吉軍は逃げる徳川勢を追撃するだけで大きな戦果を期待できるであろう。
 成功すれば、この状況を一気に打開する巨大な軍功であることに間違いはない。

 両者が互角の戦いを演じているときに、味方の兵の一部を割いて敵の側面や背後を奇襲する 作戦を、この当時の戦術用語で、

「中入れ」

 と呼ぶ。
 「中入れ」は成功したときに華々しく、もっとも華麗な戦術であり、いわばこの当時の流行で あったらしい。
 池田恒興は、この「中入れ」作戦を秀吉に直訴した。


(バカなことを言いやがる・・・!)

 秀吉は、怒鳴りつけたい気分であった。秀吉の感覚で言えば、「中入れ」ほど危険な戦術はな いのである。

 「中入れ」は、相撲で喩えれば、両者が四つに組んでいる状況で、下手をわざとまわしから 離し、その手で相手の足を払いにゆく――無双をきるような行為に相当するであろう。確かに成 功すればこれほど華麗な技もないが、力の平衡が崩れた瞬間に敵に乗ぜられる可能性が高く、こ れがために現実の相撲ではかえって負けてしまうことの方が多い。

(「中入れ」などしてみよ。すぐさま家康に乗ぜられ、痛い目を見るのがオチじゃ)

 と、秀吉は思った。
 別働隊をこの防御陣地から出せば、家康はすかさず大部隊をもってその別働隊を叩きにかかる に違いなく、そのことは秀吉は解りすぎるほどに解っていた。
 なぜなら、それこそが秀吉自身の意図だったからである。

 秀吉は、敵である家康に「中入れ」をやらせ、その隙に乗じて敵を殲滅しようと狙っていた。だ からこそこうして防御陣地を築き、敵をしきりに挑発して陣地から引きずり出そうと躍起になっ ているのである。
 この戦は、我慢できずに先に動いた側の負けであり、そのことは秀吉は最初から解っていた。

「せっかくのお申し越しながら、それはいささか考えが甘うござろう」

 秀吉は、やんわりと池田恒興の献策を否定し、思い直してもらうよう示唆した。

 秀吉の辛さは、諸将に「命令」ができないことであった。
 もし、池田恒興が秀吉の家来であったなら、秀吉は「ダメだ」と一言命じるだけでことが足り る。しかし、池田恒興は秀吉の同僚に過ぎず、それどころか信長の乳兄弟であるこの男は織田家 でいえば格別の敬意を受ける位置にあり、とてものこと秀吉を敬い、それに忠誠を尽くすという ような立場にはない。ここで秀吉が恒興を怒鳴りつけてしまえば、恒興は激怒して秀吉の元を去っ てしまうかもしれず、飛躍して敵の信雄-家康の勢力に寝返ってしまわぬとも限らないのであ る。
 秀吉とすれば、柔和な笑みを浮かべて恒興の機嫌を取り、その名誉も傷つけないようにしつつ、 「中入れ」策だけを引っ込めさせなければならなかった。

「いまは堅固に陣を構え、敵の様子をうかがっておるべきと存ずる」

「いや、是非ともお許しいただきたい!」

 恒興は凄まじい剣幕で自分の作戦の意図をまくし立て、その有用性を弁じ、それでも秀吉が 諾(うん)と言わないと見るや、

「この案が受け入れられぬようでは、拙者としても今後のことを考えねばならぬ・・・」

 と暗に寝返りをちらつかせて秀吉を脅し、丸二日かけて無理やりにこの作戦を認めさせてしま った。
 秀吉は、いわば恒興に根負けし、押し切られてしまったわけである。


 停滞していた戦局が、大きく動こうとしていた。




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