歴史のかけら
合戦師
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天正12年(1584)3月17日に尾張 羽黒村で行われた局地戦を、後世の人は「羽黒の陣」と呼
ぶ。
この敗戦は、秀吉軍の諸将の心理に大きな影響を与えた。
(あの“鬼武蔵”が負けるとは・・・)
(家康と三河の連中は、どうも一筋縄ではいかぬ・・・)
(いかに天下の大軍といえど、油断しておると痛い目を見るぞ・・・)
こういう感想を、誰もが持ったわけである。
諸将はさすがに慎重になり、抜け駆けをしようとする者もそれ以来なくなった。
10日間が、何事もなく過ぎた。
この間、家康は、士卒を総動員して小牧山を基点とした野戦要塞の構築作業を急いでいる。
3月26日、秀吉がようやく岐阜へと到着した。翌27日には全軍を尾張へと前進させ、自身は
犬山城へと入った。
これらの情報は、各地にばら撒いてある伊賀者や甲賀者たちによってすべて家康へと報告さ
れているのだが、これはあらためて言うまでもないであろう。
家康は、秀吉到着の報に接するや、清洲城を出、本営を小牧山に据えた。
後に天下を獲った両雄が、ついに濃尾平野で相対したのである。
尾張に入った秀吉は、さっそく手回りの者だけを連れ、敵情を視察に出た。
この「小牧・長久手の合戦」における秀吉は、唐冠の兜をかぶり、孔雀の羽で作られた極彩
色の陣羽織を着ていたと古記にある。その輝くばかりのいでたちで犬山城から東南に8kmほど進
み、小牧山を一望できる二ノ宮山という山に登った。
「・・・・・・・・・これは・・・」
南西をはるかに見渡した秀吉は声を呑んだ。家康が築いた野戦要塞が、小牧山を基点に数km、
長城のように延々と東へ伸びていたのである。
「・・・家康めは、わしを武田勝頼に見立てる気かよ」
すぐさま気を取り直した秀吉は、そういって左右に笑いかけ、余裕のあるところを見せはし
たが、内心は暗澹たる気分になっていた。
秀吉は、敵陣を見た瞬間、家康の意図をすべて見抜いた。
家康は、あの野戦陣地に篭り、自分からは決して手を出さず、秀吉軍が攻撃してきたときのみ
飛び道具をもって応戦し、秀吉を泥沼の長期戦に引きずり込むつもりなのであろう。これに対し、
秀吉には有効な対応策がない。
秀吉にすれば、家康の野戦要塞に対して猛攻主義を取り、これを力攻めに攻めるというのは論
外であった。
野戦陣地の構築という信長が編み出したこの戦術は、かつて「長篠の合戦」において最強を誇
った武田勢をわずか半日で壊滅させたという恐るべき実績を持つものであり、そのことは、この
濃尾平野にいる多くの武将たちが実体験を通して知っている。これに正面から攻めかけよなどと
命じれば味方にどれだけの被害が出るか知れたものではなく、秀吉の元に「稼ぎに来ている」諸
将にとってそれが面白かろうはずがない。
秀吉が率いる軍勢というのは、もともと秀吉にとって織田家の同僚たちに過ぎず、家来ではな
いということはこれまでも何度か述べてきた。
人の心に誰よりも通じている秀吉は、自分の足下にいる者たちが内心で自分を尊敬せず、それ
どころかかえって軽んじ、出世や功名のために自分を利用しようとしているだけだということを
良く知っている。彼らは自分の利益のために戦いに赴いたのであり、秀吉のために大怪我を覚悟
してまで働いてやろうというような気概を持った者は1人もいないのである。
秀吉はそういう事情を熟知した上で、それらの人間との関係を巧緻な積み木のように組み上げ、
彼らの盟主に収まることでなし崩し的に天下を得ようとしているのだが、それだけに秀吉は、揮
下の軍勢に死を強いるような無理な命令は断じて出せないのである。
秀吉の天下というのは、“常勝将軍”と呼ばれた秀吉個人の器量に対する声望と、
「この男についておれば、間違いなく儲かる」
という人々の信望――それぞれの自己の欲望――によって支えられているわけであり、ひとた
び彼らの期待を裏切り、この信望を失ってしまえば、手に入れかけている天下はたちどころに掌
をすり抜けてしまうであろう。
そういう内情を一時おくにしても、純軍事的に見て、小牧山の陣地を正攻法で攻めるのは難し
い。
確かに秀吉は8万という並外れた大軍を率いており、その軍勢の規模から見れば小牧山など
はほんの小城に過ぎないのだが、小牧山の陣地の後方には清洲城があり、そこには信雄の軍勢
が予備兵力として多数控えている。正攻法をもって小牧山を攻めれば、この清洲城の予備兵力と
小牧山の家康の軍団が呼応して動き出すに違いなく、これに巧緻な連携作戦を取られれば、烏合
の衆である秀吉軍は確実に撹乱されるであろう。そういう混乱のさなかに、功に逸った諸将が勝
手自儘な動きを始めれば、そうでなくとも統制が難しい秀吉軍はバラバラになってしまうかもし
れず、敵に良いように翻弄されてしまうかもしれない。
いずれにせよ、秀吉自身に強い統帥権がないこの状況では、必勝を期すことは難しいと言わざ
るを得ないのである。
秀吉は、万が一にも負けるわけにはいかない。
秀吉にとって、「今」は天下取りのための瀬戸際であった。ここで負けてしまえばこれまでの
苦労がすべて水泡に帰してしまう可能性さえあり、危険な橋を渡るわけには断じていかなかっ
たのである。
しかし、だからといって敵を攻めないわけにもいかない。
秀吉が天下の兵を握りながら一地方の覇者に過ぎない家康を攻めあぐねれば、そのこと自体が
秀吉の声望を大きく傷つけることになり、秀吉の将器に対して人々が疑問を持つことは間違いが
ないであろう。
秀吉とすれば、戦う以上は華々しく勝たねばならず、しかもそれはできる限り短期間で綺麗
に終結させねばならないのだが、それをするには敵手の家康という男は呆れるほどに頑固で粘着
性に富み、三河軍団は精強で守戦に強く、いかにも相性が悪い。
(しくじった・・・・)
今更ながら、家康を敵に回したことを後悔せざるを得ない。
(わしが、このようなハメに合うたことが、かつてあるか・・・!)
秀吉は、思ったであろう。
秀吉という男の最大の能力は、神のごときその「先見の明」であった。
卓越した観察力と直観力、並外れた想像力と悪魔のような計算能力を持つ秀吉という男は、信
長の草履取りに過ぎない頃から常に信長の思考の先を読み、信長が欲しているものを察して周到
な準備を巡らし、信長を驚かせ、また喜ばせた。戦をするときには相手を研究し、調略を巡ら
し、謀略を駆使して相手を弱体化させ、その打つであろうあらゆる手をシミュレートして常に相
手の2手先、3手先を読み、確実にその先手を打つことによって必ず勝てるという算段を持って
戦に望み、これまで百戦百勝の履歴を作ってきた。
それほどの秀吉が、この「小牧・長久手の合戦」の場合のみ、守勢に立った。
いや、立たざるを得なかった。
信雄を後援するであろう家康の意図を見抜きながらも、織田家簒奪という大魔術のために秀
吉自身が忙し過ぎたのである。結果として秀吉の打つ手はすべて後手に回り、戦場に到着
したときにはすでに緒戦で敗北を喫し、家康に決戦場の地勢を完全に掌握され、強固な防戦態勢
を築かれてしまっていた。
こんな不快なことは、これまであったためしがない。
しかし、秀吉の凄まじさは、その内心の不快さを微塵も外には表さなかったことであった。
この時期の秀吉というのは、自分を未曾有の英雄であると周囲に思い込ませることで諸将の心を
得ようとしており、そのため史上のどういう名優も及ばないほどの演技力を発揮して余裕綽々の態
度をとり続けていた。秀吉は、大阪でもこの尾張の戦場でも常に陽気な笑顔を絶やさず、今度の家
康との戦いについても「自分にとってはほんの遊びに過ぎない」と公言していたのである。
だから秀吉は、家康の野戦要塞を目の当たりにしたときでさえ、まったく動じた様子を見せな
かった。
「我が方も、あれ以上の陣城を築く!」
すぐさま大声で宣言したのである。
「本邦の歴史に残るほどの巨大なる陣城を築き、三河の田舎者たちを仰天させてやるのじゃ」
秀吉は目前に広がる濃尾の広やかな野を指差しながら、熱っぽくその壮大な構想を語った。
それは、播州三木城を柵で囲い込んで長期包囲し、備中高松城を水攻めにし、鳥取城を飢え殺し
にした秀吉がもっとも得意とする大土木工事であった。この土木工事こそが、秀吉の戦の最大の
特徴であると言っていい。
(これしかない・・・)
秀吉は思った。
こちらが大怪我を覚悟できない以上、無策な力攻めはあくまで避けねばならないだろう。
この上は、事態の長期化はやむを得ぬものと覚悟し、どっかりと腰を据えて見せ、敵を圧倒する
ほどの巨大な陣地を構築して敵の戦意を萎縮させ、位押しに相手の心を押しつぶしてゆく以外、家
康と三河軍団を屈服させる手はない。
秀吉は、揮下の8万の人間たちに、すぐさま空堀を掘り、土塁をかき上げ、材木を調達して柵
を植え、強固な野戦陣地を構築するよう命じた。
両雄が、がっぷりと四つに組んでの相撲を始めようとしている。
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