歴史のかけら


合戦師

71

 天正12年(1584)3月16日、“鬼武蔵”こと森長可は、3千の軍勢を率い、予定通り尾張羽黒村へ と赴いた。
 しかし、どうしたわけか待てど暮らせど池田恒興の軍勢が姿を現さない。

(舅殿は、なんぞ手間を取っておるのか・・・・)

 森長可としては、わずか3千の手勢のみで敵地に深く入り込むことはできない。待つほか 選択肢がないのだが、待つにしてもこう見通しの良い場所に軍勢をそのまま置いておくわけにも いかない。尾張の犬山城以南はすでに敵地であり、自軍の行動というのは敵から秘匿するのが 当然なのである。
 森長可はやむを得ず、近くの林に軍勢を収容した。しかし、何時間待ってもやはり池田恒興は 現れない。そうこうするうちに、ついに日までが暮れてきた。

(・・・致し方ない。今夜はここで夜明かしをするか・・・)

 長可は、揮下の将士にその準備をさせた。

 そのころ池田恒興は、大垣城での軍勢の集結が遅れ、まだ犬山城までさえ到着していない状態 だったのだが、その遅延の情報は、ついに森長可まで伝わることはなかった。この二人の親密さ がその程度であったというよりは、両者の性格がよほど粗雑にできていたらしい。

 もし森長可が、慎重な男か、あるいは臆病な男であったなら、敵地で宿営するような危険 を冒さず、さしあたって5km後方の犬山城まで軍勢を引き返させ、そこで池田恒興と合流しよう としたであろう。しかし、この男は織田家でも豪勇で鳴らした“鬼武蔵”であった。自分が敵に 後れを取るわけがないという根拠のない自信があり、また敵将の家康という男に対してもさした る恐怖感を持ってはいない。
 長可は、ほとんど無警戒の状態で羽黒村の林に陣取り、そのまま宿営した。
 恐るべき危機感の欠如と言うしかない。

 家康は、その日の夕刻にはこの森長可隊の突出を諜報していた。
 伊賀者らを大量に派遣して慎重にその周囲を探らせたところ、連携する部隊がどこにも見当た らない。どういうわけか、わずか3千ばかりの敵勢が、まったくの孤軍で林に宿営しているので ある。

(・・・・・これだ!)

 家康は、踊り出したいほどの気分であった。すぐさま大軍勢を派遣し、敵を完膚なきまでに叩 きのめしてやるべきであろう。今の家康にとって、このわずか3千ほどの敵を蹴散らすことは 赤子の手を捻るよりも容易であった。相手が赤子でない以上、良心に呵責を感じる必要さえ ないのである。

 家康は、敵の倍にあたる6千の攻撃部隊を組織した。この6千は、酒井忠次を主将に、榊原康 政、奥平信昌、大須賀康高、松平家忠ら、家康が最強と信じる生粋の三河武士のみによって 編成されている。
 部隊編成と出陣の用意を終えると、すでに深夜になっていた。家康は、すぐさま出陣を命じ た。つまり、夜襲である。

 大部隊による夜襲というのは、軍事作戦上もっとも至難であるとされている。暗闇の中での作 戦であるため予定通りの移動がまず困難であり、大部隊であればあるほど敵に気取られる可能性が 高くなり、音を使った合図が不可能であるため部隊の意志統一や連携行動が難しく、下手を すると同士討ちなどの不測の事態までが起こり得る。
 しかし、家康の元で20年以上にわたって戦い続けてきた三河武士たちというのは、あらゆる 戦闘行動に習熟し切っていた。
 酒井忠次に率いられた三河武士たちは、馬に枚(ばい)を噛ませ、縄で鎧の草摺りを縛って音を 消し、無灯火でひたひたと羽黒村へと近寄って行った。この敵の接近に、森長可とその揮下の将 兵たちはまったく気が付かない。

 17日の未明――夜が明ける直前に、三河武士たちは森隊が寝静まっている林のすぐ傍まで忍び 寄ることに成功した。酒井忠次は鉄砲隊に一斉射撃を命じると、すぐさま先鋒隊を敵陣に突撃さ せた。

 森隊は、完全に不意を衝かれた。すべての将兵が、戦う前から大混乱になった。
 それも、当然であったろう。
 場所は夜明け前の林であり、この薄暗闇の中では、動く人影に対してろくに敵味方の判断さえ つかない。大恐慌に陥っている彼らにとって、動くものというのは一切が恐るべき敵影であり、 あたりの草木までがすべて敵になってしまったような錯覚をさえ覚えたであろう。誰もが、我先 に逃げ出し始めた。
 三河武士たちは、逃げ惑う敵を思うままに切り散らした。その意味で、この羽黒村で行われた のは合戦ですらなく、ほとんど一方的な殺戮であったと言っていい。

 森長可は、雪崩れのように崩れる手勢と共に数百mにわたって逃げたが、そこで軍勢を再集結 させ、声を限りに味方を励ましてどうにか陣容を立て直し、反撃しようとした。さすがに“鬼武 蔵”と呼ばれた男であり、いったん恐怖にかられて崩れてしまった軍隊を立て直すあたり、その 指揮能力と統率力は尋常でない。
 しかし、酒井忠次にとってみれば、すでに勝利は確定的な状況であった。忠次は、本軍をその まま敵に突撃させ、自ら一隊を率いて敵に側面から襲い掛かかった。
 森隊はひとたまりもなく崩れ、ついに四散した。

「追え! ただし深追いはするな!」

 酒井忠次は、揮下の三河者たちに厳しく命じた。これは、家康から厳命されていたことであっ た。

 家康にとって、この勝利を勝利のまま完全な形で完結させることが何よりも重要であった。 背後に大部隊が控えているこの状況で調子に乗って敵を深追いし過ぎれば、いつなんどき敵から 手痛いしっぺ返しを喰らわぬとも限らない。家康に必要なのは「緒戦の完全な勝利」であり、数 万の敵軍の中の百や二百の敵兵を減らすことよりも、「完全な勝利」を完成させ、それを大いに 宣伝することの方が政略的には遥かに重要であり、有用なのである。
 三河者たちは、この大勝利に酔い痴れることもなく、当然のように大将の命令に黙然と従っ た。個人の功名出世に対する憧憬が巨大なエネルギーになっている戦国という時代にありなが ら、功利的な性格が極めて薄く、大将に対して犬のように忠実なこの三河軍団こそが、家康に とって最大の武器であり、財産であるとさえ言えるであろう。

 酒井忠次は素早く兵をまとめ、意気揚々と清洲城へと凱旋した。
 こうして、「緒戦の勝利」は完成したのである。

 この奇襲作戦の成功を聞いたときの家康の悦びようというのは、ほとんど滑稽なほどであっ たらしい。
 笑み崩れてしまうような相好をたたえた家康は、帰ってきた奇襲部隊の将士を自ら手を取る ようにして出迎え、いちいち声を掛けて労い、功のあった者にはすぐさま気前良く恩賞を沙汰し た。普段ケチで通った男であるだけに、その大盤振る舞いは三河者たちを気味悪がらせるほど であったという。
 「緒戦の勝利」は、家康にとってそれほど重要だったのである。

 家康は、諸方の勢力に早々と急使を発し、この戦勝を誇大に宣伝した。


 結局、森隊は、大将である森長可はどうにか戦場を離脱したものの、3百に上る死者と、その 数倍の重軽傷者を出して文字通り惨敗した。全軍の1割もの戦死者を出すというのは、この時代 の野戦の常識から考えればよほどの大敗北と言うべきで、このことはこの合戦の推移を見守る全 国の勢力に対して鮮烈な印象を与えることになった。
 そして、何よりも重要であったのは、

「あの“鬼武蔵”が、家康に手もなく破られた!」

 という事実であったろう。このことは、秀吉軍の諸将の心理に深刻なダメージを与えた。
 もともと織田家の武将たちというのは、家康と三河軍団の戦場での働きぶりを共に戦うことで 何度も目にしており、その苛烈なばかりの強さを知りすぎるほどに知っている。
 信長が生きていたころは、

「三河の連中などは、織田家の飼い犬のようなもの・・・」

 とあざ笑っていた者たちでさえ、その「三河の連中」の強さを認めていない者はなく、この羽 黒村での森長可の惨敗で、これを敵に回したときの厄介さと怖さが強烈に印象されること になった。

 家康の軍団の中では、これとまったく逆の心理的影響が起きている。
 三河者たちは古くから、尾張者と織田家の連中の戦場での弱さや粘りのなさ、主への忠誠心 の低さといったものを知り抜いている。この敵に対する恐怖心などは最初から持ち合わせておら ず、それがどれほどの大軍になろうが大したことはないと高を括ったところがあり、

「上方衆などは、戦場では女子供のようなもの・・・」

 と、あからさまに侮蔑していた。その雰囲気が、今度の戦勝でいよいよ濃厚になり、自軍の 強さに対する自信をさらに深めたわけである。


 この羽黒村での敗報は、大阪にいる秀吉をも仰天させた。

 秀吉の先見の明の凄まじさは、功に逸ったお調子者が必ず現れ、この手の失敗をやらかすであ ろうことをあらかじめ予見していたことであった。だからこそ懸命に諸将に自重を呼びかけてい たのだが、このまま自分が大阪に座っていたのでは、もはやどうにもならないであろう。

 秀吉はついに3万の直属軍を率い、尾張へと発つことにした。




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