歴史のかけら
71しかし、どうしたわけか待てど暮らせど池田恒興の軍勢が姿を現さない。 (舅殿は、なんぞ手間を取っておるのか・・・・)
森長可としては、わずか3千の手勢のみで敵地に深く入り込むことはできない。待つほか
選択肢がないのだが、待つにしてもこう見通しの良い場所に軍勢をそのまま置いておくわけにも
いかない。尾張の犬山城以南はすでに敵地であり、自軍の行動というのは敵から秘匿するのが
当然なのである。 (・・・致し方ない。今夜はここで夜明かしをするか・・・) 長可は、揮下の将士にその準備をさせた。 そのころ池田恒興は、大垣城での軍勢の集結が遅れ、まだ犬山城までさえ到着していない状態 だったのだが、その遅延の情報は、ついに森長可まで伝わることはなかった。この二人の親密さ がその程度であったというよりは、両者の性格がよほど粗雑にできていたらしい。
もし森長可が、慎重な男か、あるいは臆病な男であったなら、敵地で宿営するような危険
を冒さず、さしあたって5km後方の犬山城まで軍勢を引き返させ、そこで池田恒興と合流しよう
としたであろう。しかし、この男は織田家でも豪勇で鳴らした“鬼武蔵”であった。自分が敵に
後れを取るわけがないという根拠のない自信があり、また敵将の家康という男に対してもさした
る恐怖感を持ってはいない。
家康は、その日の夕刻にはこの森長可隊の突出を諜報していた。 (・・・・・これだ!) 家康は、踊り出したいほどの気分であった。すぐさま大軍勢を派遣し、敵を完膚なきまでに叩 きのめしてやるべきであろう。今の家康にとって、このわずか3千ほどの敵を蹴散らすことは 赤子の手を捻るよりも容易であった。相手が赤子でない以上、良心に呵責を感じる必要さえ ないのである。
家康は、敵の倍にあたる6千の攻撃部隊を組織した。この6千は、酒井忠次を主将に、榊原康
政、奥平信昌、大須賀康高、松平家忠ら、家康が最強と信じる生粋の三河武士のみによって
編成されている。
大部隊による夜襲というのは、軍事作戦上もっとも至難であるとされている。暗闇の中での作
戦であるため予定通りの移動がまず困難であり、大部隊であればあるほど敵に気取られる可能性が
高くなり、音を使った合図が不可能であるため部隊の意志統一や連携行動が難しく、下手を
すると同士討ちなどの不測の事態までが起こり得る。 17日の未明――夜が明ける直前に、三河武士たちは森隊が寝静まっている林のすぐ傍まで忍び 寄ることに成功した。酒井忠次は鉄砲隊に一斉射撃を命じると、すぐさま先鋒隊を敵陣に突撃さ せた。
森隊は、完全に不意を衝かれた。すべての将兵が、戦う前から大混乱になった。
森長可は、雪崩れのように崩れる手勢と共に数百mにわたって逃げたが、そこで軍勢を再集結
させ、声を限りに味方を励ましてどうにか陣容を立て直し、反撃しようとした。さすがに“鬼武
蔵”と呼ばれた男であり、いったん恐怖にかられて崩れてしまった軍隊を立て直すあたり、その
指揮能力と統率力は尋常でない。 「追え! ただし深追いはするな!」 酒井忠次は、揮下の三河者たちに厳しく命じた。これは、家康から厳命されていたことであっ た。
家康にとって、この勝利を勝利のまま完全な形で完結させることが何よりも重要であった。
背後に大部隊が控えているこの状況で調子に乗って敵を深追いし過ぎれば、いつなんどき敵から
手痛いしっぺ返しを喰らわぬとも限らない。家康に必要なのは「緒戦の完全な勝利」であり、数
万の敵軍の中の百や二百の敵兵を減らすことよりも、「完全な勝利」を完成させ、それを大いに
宣伝することの方が政略的には遥かに重要であり、有用なのである。
酒井忠次は素早く兵をまとめ、意気揚々と清洲城へと凱旋した。
この奇襲作戦の成功を聞いたときの家康の悦びようというのは、ほとんど滑稽なほどであっ
たらしい。 家康は、諸方の勢力に早々と急使を発し、この戦勝を誇大に宣伝した。
「あの“鬼武蔵”が、家康に手もなく破られた!」
という事実であったろう。このことは、秀吉軍の諸将の心理に深刻なダメージを与えた。 「三河の連中などは、織田家の飼い犬のようなもの・・・」 とあざ笑っていた者たちでさえ、その「三河の連中」の強さを認めていない者はなく、この羽 黒村での森長可の惨敗で、これを敵に回したときの厄介さと怖さが強烈に印象されること になった。
家康の軍団の中では、これとまったく逆の心理的影響が起きている。 「上方衆などは、戦場では女子供のようなもの・・・」 と、あからさまに侮蔑していた。その雰囲気が、今度の戦勝でいよいよ濃厚になり、自軍の 強さに対する自信をさらに深めたわけである。
秀吉の先見の明の凄まじさは、功に逸ったお調子者が必ず現れ、この手の失敗をやらかすであ ろうことをあらかじめ予見していたことであった。だからこそ懸命に諸将に自重を呼びかけてい たのだが、このまま自分が大阪に座っていたのでは、もはやどうにもならないであろう。 秀吉はついに3万の直属軍を率い、尾張へと発つことにした。
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