歴史のかけら


合戦師

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 「小牧・長久手の合戦」で、家康と信雄が清洲城を中心に集結させた軍勢は、約3万で あったと伝えられている。
 徳川勢が2万強。信雄の軍勢が1万弱である。

 これに対し、秀吉が美濃で集結させている軍勢は、公称なんと12万騎。実数はそれより少ない が、それでも8万を越える空前の大軍勢であった。日本列島でこれほどの大軍が動員されたの は、この時からほぼ20年前――永禄4年(1561)――関東管領に就任した越後の上杉謙信が、北条氏 康が篭る小田原城を包囲するために関東の武士を総動員して以来のことであろう。
 街道は、この長蛇の列によって文字通り埋め尽くさた。たとえば軍勢の先頭が関ヶ原あたりを 行軍しているとき、その荷駄隊はまだ琵琶湖にも達していない有様であったというから、 その凄まじい規模が想像できるであろう。近畿、北陸、中国筋から陸続と人馬が群れ集まって来 ており、あの「応仁の乱」以降、最大級の規模で人間の大移動が起こっていた。
 秀吉が集めた軍勢というのは、文字通りの雑軍であった。そのほとんどが織田家における秀吉 の同僚たちであり、秀吉の家来と言えるほどの者はおそらく全体の2割にも満たない。彼らはよ うするに秀吉が提供するであろう利に群れ集まった集団であり、「自分の利益」のために働こう としているだけの男たちであり、それだけにひどく活気とヤル気に溢れた集団になってはいるのだ が、この誰もが秀吉に対する尊敬や忠誠といったものは欠片も持ち合わせていなかった。それ が、この秀吉軍の最大の弱点であると言えるであろう。
 秀吉という男の史上類を見ないその天才とは、こういう集団を彼ただ1人の器量をもって統率 しているということなのだが、しかし、この瞬間だけに限って言えば、当の秀吉はまだ美濃から 遠く離れた大阪にいる。
 今の秀吉にできることと言えば、

「わしが到着いたすまで、決して戦を始めてはなりませぬぞ」

 と、諸将に手紙で通達することだけであり、諸将の元に派遣している戦目付け(軍監)に向かっ て「決して戦をさせてはならぬ」と命じることだけであった。
 しかし、主君というならともかく、同僚に過ぎない男からのそんな「文章指令」が、現場の武 将たちに対して大きな効果があるはずがない。
 実際のところは、多くの武将たちが、

(手柄さえ立ててしまえば、後でどうにでも言いつくろうことはできるわ)

 という気持ちでおり、大将不在の秀吉軍の統制はまったくとれていない状態であった。


 家康が、小牧山に強固な軍事拠点を築こうとしているということは、先にも触れた。
 小牧山というのは平坦な地勢が延々と続く広やかな濃尾平野の東部にこんもりと盛り上がった 丘のような山で、標高はわずか86m。尾張の中心部に位置する清洲城から見て、ほんの12kmほど 北に位置している。現在のところは修築途中で打ち捨てられた古城址に過ぎないが、濃尾平野で 戦争を行おうとする場合、この小牧山が持つ戦略的価値というのは巨大で、たとえば秀吉がこの前 線に到着していたなら、おそらく真っ先にこれに目をつけ、敵の防戦体制が整う前に軍勢を派遣 して占領しようとしていたであろう。

 当然と言えば当然なのだが、戦略眼を備えた者というのは、同じところに目が行くものらし い。この小牧山に目を付けた男が、秀吉不在の秀吉軍の中にもいた。
 “鬼武蔵”と呼ばれた森 武蔵守 長可(ながよし)という男である。

 森長可は、有名なあの森蘭丸の兄で、信長の長男 信忠に属し、これまでは主に武田氏と戦って きた。“鬼武蔵”という異名が示す通りの猛将で、伊勢長島で行った初陣からいきなり27の首級 を挙げ、信長を感嘆させたという。「この槍の前には人間の骨さえも無きに等しい」ということ から“人間無骨”と名づけられた和泉守兼定の十文字槍を携えて戦場を疾駆したというこの男は、個人の戦闘力においても統率力においても小部隊戦闘における戦術能力においても、織田家で屈 指の実力を持っていたらしい。
 性格は粗暴にして不羈。一面においては戦国の快男子と言えぬこともないのだが、人を 人とも思わぬ傲慢さがある上、異常なほどに功名心と嫉妬心が強く、手に負えぬほどに扱いづら い人物であった。同僚諸将と喧嘩沙汰を起こすことも多く、周囲からは決して好かれていないの だが、生前の信長は不思議なほどにこの奇矯な男を愛していたらしく、長可が何をやらかして も、

「“鬼”のやることよ、まぁ、許してやってくれ」

 と苦笑し、いつもこれを庇ってやっていたという。
 池田恒興の娘を妻にしており、父親を早くに亡くしたこともあってか、これだけ傲岸不遜な男 であるにも関わらず義父になった恒興にだけは奇妙になついていた。おそらく、馬が合ったので あろう。
 この天正12年で26歳になる男である。

 この森長可だが、彼には秀吉と信雄の今度の争いに関して、そもそも定見というものはなかっ たらしい。長可にとって主人といえばこの世で信長ただ1人であり、秀吉などという百姓あがり の男に屈する気持ちは欠片も持っていないし、信長の遺児に過ぎない信雄という暗愚な男に仕え る気もなければ義理立てする気もない。ようするに、どうでも良かったのである。
 ただ、舅である池田恒興が信雄方から秀吉方に鞍替えしたため、成り行きのような形で舅と道 を同じくすることにした。秀吉に花を持たせてやらねばならない理由はどこにもないのだが、 せっかくの大戦である。どうせやるならこの機会に大働きに働いて身代を稼ぎ、世間に武名を轟 かせてやるのも痛快であろう。

 そう思っているうちに、舅の池田恒興が、独力で犬山城を陥落させてしまった。
 この犬山城の戦いが「小牧・長久手の合戦」における最初の戦闘行為になるのだが、こ れは森長可の功名心と競争心を大いに刺激した。

(わしも、世間をあっと言わせるような手柄を立てたい・・・!)

 と思い、手ごろな標的を物色しているときに気がついたのが、小牧山であった。

(この際だ、小牧山でも取ってやれ)

 という気になった。
 小牧山というのは敵の本拠である清洲城からわずか12kmであり、両軍が睨み合った場合、この 小牧山あたりがまさに最前線になるであろう。ここにあらかじめ陣取っておけば、その後の手柄 は立て放題に違いない。
 しかし、独力でそれをするのは危険が大きすぎる。長可の手勢は3千ほどでしかなく、しかも 小牧山は敵地のど真ん中なのである。わずか3千の軍勢で敵地に深く入り込めば、家康がすかさ ず大軍勢を派遣して殲滅しようとするかもしれず、それではいかに長可が猛将でも負けざるを得 ないであろう。

(舅殿に合力を願おう)

 と、長可は思った。
 池田恒興は織田家の宿老であり、領地も大きくそれだけ動員力もでかい。軽く6千人は動かせ るであろう。たとえ家康と戦闘になったとしても、9千もの兵力があればそうやすやすと負ける ものではなく、背後に味方の大軍を背負っている以上、なんとでもなる。

 そのことを池田恒興に相談すると、

「よしよし、そういうことであれば、此度は婿殿に馳走してやろう」

 と、恒興も派手好みの男だけに大乗り気になった。

 これは、後方の大阪から穏忍自重を叫んでいる秀吉の指示を真っ向から無視する行為であり、 抜け駆けの軍令違反に違いないのだが、両軍の決戦に先んじて小牧山を軍事占領しておけば、 秀吉に対して大きな「貸し」を作ることになるであろう。それどころか、手柄という面で同僚諸 将を完全に置き去りにすることができ、しかもいざ決戦という場合には最高の場所に陣取ること ができるということになる。

(何をしようと、結果さえ良ければ、猿も文句は言うまい)

 という安易な気持ちが、この両人にある。
 秀吉という男の辛さは、こういう連中をなだめ透かして手綱を取っていかなければならないと いうことに尽きるであろう。


 家康は、こういう「お調子者」が出てきてくれることを、てぐすね引くような気持ちで待って いた。大将の秀吉が前線に到着する前の今こそが、諸将の気が緩み、自制心のたがが緩み、功名 手柄に逸った馬鹿者が突出してくる可能性がもっとも高いときであろう。
 抜け駆けの功に逸り、味方との連携もままならないような状態で突出してきた小部隊を討つこ とというのは、喩えるならば獅子が兎を討つようなものである。家康は、数倍の戦力でもって一 撃の元に敵を粉砕し、徳川勢の精強さと怖ろしさを世間に強烈に宣伝してやらねばならない。そ れこそが、寡兵で圧倒的な敵を迎え撃たねばならない家康にとって、何よりも必要なものであっ た。

 戦争において、緒戦の勝利ほど政略的に価値のある宣伝材料はないであろう。この合戦の推移 を見守る全国の勢力に対して、緒戦における痛烈な勝利ほど雄弁な物証はなく、家康と徳川 軍団の軍事的評価と政略的価値をこれほど重からしめてくれるものは他にない。また緒戦の勝利 は敵に恐怖心を与え、味方に勇気を与える。徳川軍の像は敵にとってより巨大になり、味方に とってより頼もしく写ることになるであろう。

 いつ訪れるかもしれず、ついに訪れることがないかもしれないのだが、家康は、そういう「敵 が作り出してくれる好機」を待っていた。その好機にすかさず付け入り、迅速かつ正確な用兵に よって敵にできる限りの被害を与え、秀吉から「華々しい緒戦の勝利」をもぎ獲ってやろうと 狙っていたのである。
 だから家康は、この時期、くどいほどに戦場諜報に気を配るよう配下の武将たちに訓戒し、 在地勢力や地元に住む人々を抱き込んであらゆる情報提供を呼びかけ、伊賀者、甲賀者たちを 大量に派遣して敵の動きをつぶさに監視させた。


 余談だが、戦場諜報の重要性は、家康は信玄から学んだ。
 家康の軍団というのは、大量の伊賀者や甲賀者を抱えており、結果として諜報能力と戦場偽装 や情報工作の能力が高く、それが特徴の1つにまでなっている。こういう特徴は、かつての信長 の軍団にはなく、今の秀吉の軍団にもない。
 家康は、信玄がそうであったように、戦場の中で起こるであろう事象のすべてを掌を指すよ うに知り尽くそうとした。戦に先んじて戦場の地理に精通し、敵の戦力を分析し、敵将の性格や 癖を研究し、大将とその配下の武将たちの人間関係をも視野に入れ、「戦争」という極めて賭博 性の高い行為から、できる限りその賭博性を排除しようとしたのである。「敵を知り、己を知ら ば百戦危うからず」と『孫子』は言うが、家康は孫子という古代中国の賢人を知ることなく、信 玄という偉大な師からその呼吸を盗み取ってしまったのであろう。
 若い頃の家康は、戦場の勇者でしかなかった。しかし信長が死んだ後、家康は精神的に自立せ ざるを得なかった。その自立が、何よりも家康のその種の才能を開花させたらしい。北条氏と甲 斐で睨み合ったとき、家康はすでに以前の家康ではなくなっていた。そしてこれから、秀吉とい う稀代の政略の天才に触れることによって家康はさらに多くを学び、知恵を深めてゆくことにな る。
 そして、家康のその膨大な知恵の蓄積と、それまで培ってきた戦争観が如実に表れたのが、 この16年後に起こる「関ヶ原」である。これは、まさに、家康の人生の集大成とでも言うべきで あろう。


 話を、再び濃尾平野へと戻さねばならない。

 森長可と池田恒興は、小牧山に軍を進めることを決めた。
 入念に打ち合わせをした結果、3月16日に尾張の羽黒村という場所で落ち合い、そこから馬 を揃えて軍を南下させることにした。森長可は美濃の金山城から軍勢を進出させねばならないし、池田恒興は池田恒興で新たに手に入れた犬山城にも居城である美濃の大垣城にも手勢がおり、こ れらを集結させねばならなかったのである。羽黒村は、犬山城から5kmほど南の地点で、諸街道 が交差していて軍勢の集結に都合が良く、さらに小牧山への進路にも当たっているから、これほ ど適当な地点もない。
 彼らは、行動を開始した。

 ちなみに小牧山は、3月15日には榊原康政によって軍事占領されるのだが、不覚にも両人はそ のことに気付かなかった。
 戦場諜報の粗漏と言うほかないであろう。

 家康に、好機が訪れようとしていた。




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