歴史のかけら
7氏真は、公的には内政の充実、私的には和歌や蹴鞠などの遊芸や学問に没頭した人物であ る。太平の世でさえあれば、決して愚物と呼ばれるべき男ではなかったであろう。 しかし、時代は乱世のまっただ中なのである。 (氏真殿では、今川は保つまい)
と、家康は見ている。 「亡き義元公の仇を討ちなされませ。拙者はこうして、織田と戦い続けておりまする。 お屋形さまが弔い合戦を決意されるならば、三河衆が先陣となり、死に働きいたしますによ って、是非ぜひ尾張に馬を出されませ」
と、今川家の尾張遠征を催促し続けた。
この間、平八郎 忠勝は歴史の表面には現れない。
家康は、1年半もの間、執拗に辛抱し続けた。この決断への時間の掛かり方が、家康という
人間の個性――颯爽とした爽快さがなく、慎重で用心深い人柄――であったとも言えるのだが、
結局今川方にはなんの動きも見られなかった。 「もはや、今川家は恐るるに足らず」 家康は駿河にいる人質――妻と息子を取り戻すと、今川家から独立し、織田信長と同盟す る決意を固めたのだった。
平八朗は、清洲へ向かう家康の護衛役の1人に選ばれた。 「織田は古き頃からの仇敵。同盟などといっても、殿さまが清洲に赴けば、何が起こるやもし れぬ。わしが必ず殿さまをお守りし、生きて岡崎へお連れするのだ!」
と、無邪気にも真剣に決意していた。 家康と信長は、実は初対面ではない。家康は竹千代の昔、今川家の人質になる前、織田家 の人質として生活していた時期があるのである。これには少し、説明がいる。
家康の父 広忠の時代、松平家は勃興する織田家の勢いを支えきれず、今川家に保護を求め、
その武力の傘下に入れてもらうことで自家を守ろうとした。そのとき臣従の証として今川家に
送られることになったのが、当時まだ6歳の竹千代であった。
清洲に住む人々は、三河から来たこのみすぼらしい集団に最初驚き、次いで呆れ、最後に
は笑った。 「見よ、見よ、三河の乞食武者どもが清洲に命乞いに来たぞ!」
などと露骨に囃す者などもあり、人々は群れ集まってこの異様な集団を眺めた。 「我らは同盟に出向いたのだ!!」 “稲剪り(いなきり)”と名づけられた3尺の大太刀を背負った鞘から抜き取ると、 「命乞いなど、わしらの殿さまがするものか!! 貴様ら散らぬと、三河者の太刀の鋭さをそ の身に味わうことになるぞ!!」
と怒鳴るなり走り出し、頭上で轟々と太刀を振り回し始めたのである。 (しょうのない奴よ・・・) と家康は思うものの、主君を辱められれば自分のことのように怒るこの平八郎の心根を憎か ろうはずがない。 (これが、三河者というものなのだ・・・) 結局は笑顔になってしまう。 (わしは、良い家来を持った) しみじみと感じる家康であった。
この騒ぎを聞きつけた信長は、すぐさま滝川一益という新進気鋭の武将を派遣し、一行を
丁重に出迎えさせた。 「日の本の西は、この吉法師が押さえる。竹(竹千代)は東を存分にせよ」 などと、徳川との同盟を心から歓迎している様子であった。 「ところで、昼間、騒ぎを聞いたぞ」 信長は悪戯好きの子供のように笑った。 「三河者は戦も強いが、主人想いの良き侍が多いらしいの」 下座で縮こまって赤面する平八郎を見て、家康も笑いだした。 「主人に対し、犬のように忠実な心栄えが、“三河ぶり”というものでござる」 「三河犬の牙は、みな鋭そうじゃ。竹は良き家人を持っている」
こうして織田―徳川の同盟は成立した。
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