歴史のかけら
合戦師
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家康と秀吉が史上ただ一度だけ刃を交えた濃尾平野における一連の戦いは、後世の人によっ
て「小牧・長久手の合戦」と総称されている。
同時代を生きる人々にとっても、この戦いは特別な意味を持っていたらしい。方や天下人の座
を手中に収めつつある“常勝将軍”秀吉率いる天下の大軍であり、方や信長の20年にわたる盟友
であった“海道一の弓取り”家康率いる精強な徳川武士団である。まさに、本邦の歴史に残る天
下分け目の大合戦になるであろう。京の裏路地で遊ぶ童までが、この合戦の推移を固唾を呑んで
見守っていた。
家康は、先んじた。
天正12年3月13日に清洲城に入った家康率いる2万の軍勢は、ただちに尾張に散らばる敵対
勢力の殲滅を始めた。信雄に殺された3人の家老の領地は、当然だがそのまま敵対勢力になって
しまっている。家康は、敵に回った小城を虱潰しに抜いていった。
平八郎が、この家康の軍勢に加わっているのは言うまでもないであろう。
この間、秀吉は大阪を離れられない。秀吉は日に何十通も手紙を書き、それを全国の勢力に
飛脚をもって届けさせ、あるいは人に会い、あるいは使者を立てて外交交渉や懐柔調略をし、
濃尾平野に大軍勢を集結させるための準備で忙殺されている。
このとき、珍事が起きた。
勝入斎という男が、美濃の大垣にいる。
現在の織田家の宿老を務める池田恒興(つねおき)のことである。
池田恒興は、信長の乳兄弟であった。信長と共に成人し、信長が行ったすべての合戦に従軍
し、数々の武功を積み重ねてきた男である。この時代の乳兄弟というのは、血を分けた兄弟より
も遥かに絆が濃い。その意味で、信長の乳兄弟であったこの男は、織田家でも格別の敬意を受け
る位置にいた。「本能寺の変」の後、秀吉と共に明智光秀を討ち、そのまま秀吉に合力する形で
「賤ヶ岳」を戦い、それらの功によって織田家の宿老の地位と、織田信孝の旧領である大垣の城
を得た。
恒興は、「本能寺の変」の後も基本的には中立の立場を堅持してきており、特別秀吉に擦り寄
ろうとしたこともなく、またそのつもりもなかった。かつて秀吉が信長の草履取りに過ぎなかっ
た頃、恒興はすでに信長の近習であり、秀吉は恒興に土下座をせねばならない身分だったのであ
る。いかに時勢が流れに流れたとはいえ、その秀吉などに心から信服する気になるわけがなかっ
た。
恒興の立場は――信長の乳兄弟という筋目を考えれば当然なのだが――秀吉よりもむしろ信雄
寄りで、これまでも何くれとなく信雄の相談に乗ってやっている。この時代の慣習として、信雄
に人質も差し出していた。
秀吉は、この池田恒興を味方に引き入れたかった。
秀吉にとっては、恒興が持っている美濃 大垣の城と領地が重大であった。濃尾平野という
敵地に大軍勢を集結させなければならない秀吉にとって、後方の美濃に敵の軍勢を置いておくわ
けにはいかない。後方を脅かされ、兵站に支障が出れば、いかに秀吉が大軍を擁していようとも
安心して戦闘を継続できないからである。もし大垣城が家康方になってしまうようなら、予定決
戦場を尾張から美濃の関ヶ原あたりまで下げねばならなくなる。
秀吉は、「戦が片付けば尾張、美濃、三河の三国をお任せしましょう」という破格の条件を
もって池田恒興に誘いを掛けた。
池田恒興にとって、秀吉から提示された条件はあまりに魅力的であった。
この戦国という時代に生まれた人間の常として、恒興も利害というのが行動の重要
な基盤になっている。「本能寺の変」の後、秀吉に協力する形で戦ってきたのは、「その方が儲
かる」という打算からであり、「秀吉の後押しをすることで自分の領地を大稼ぎに稼いでやる」と
いう欲得で動いてきたに過ぎないのである。この際、織田家を捨てて秀吉に天下を取らせ、
巨大な領土を得るのも面白いであろう。
しかし、池田恒興の泣き所は、信雄に人質を差し出していることであった。もし恒興が信雄を
見限れば、嫡男の輝政――後に備前岡山31万5千石 池田家の家祖になる池田輝政である――が
殺されてしまうことになる。
織田家の嫡流であり、信長の息子である信雄は、父の乳兄弟であったこの池田恒興だけは、何
があっても間違いなく自分に味方してくれるであろうと信じていたらしい。
「勝入(池田恒興)は、我が織田家にとって格別の男であるから・・・」
といつも言い、絶対に秀吉に与することはないと思い込んでいた。
いよいよ秀吉と断交し、これと戦うと決意し、家康の助力を得、清洲で軍勢を集結させていた
信雄は、
「勝入が味方に参じてくれるのは、当然である。これからわざわざ人質などを取っておるのはか
えって水臭い」
と、何を思ったのか人質を大垣に送り返してしまった。
池田恒興は、大喜びで信雄を裏切り、秀吉に寝返った。
この報告を聞いた家康は、信雄のあまりの愚行に呆れ、口をきくのも馬鹿らしくなった。大汗
をかいて尾張の敵城を攻めている家康にとって、次々と味方を減らし、敵を増やしてゆく信雄こ
そが最大の癌であると言えなくもない。
池田恒興は、秀吉に寝返るやいち早く尾張に軍勢を雪崩れ込ませ、尾張北部の重要拠点である
犬山城に猛攻をかけ、瞬く間に陥落させた。さしもの家康も、まだ尾張を完全に掌握できてはお
らず、尾張北端の犬山城まで救援に行けるだけの余裕はない。
信雄は、池田恒興の寝返りと犬山城の陥落に、相当のショックを受けたらしい。
「三河殿、本当のことを申してくだされ。我らはあの秀吉に勝てるのであろうか・・・?」
と、泣き出さんばかりの表情で訊ねてきた。
(・・・貴様はそれでもあの信長の子か!)
家康は、怒鳴りつけたい気分であった。家康がもしここで「勝てない」と答えたら、この男は
いったいどうするつもりなのであろう。
家康にしてみれば、敵に野城の1つや2つを陥とされることよりも、味方のこの信雄の心の方
が怖かった。この男の腰がここまで弱いとなれば、この先秀吉の大軍が到着し、味方と激戦にな
り、あるいは苦戦でもしようものなら、いつなんどき家康を放り出して秀吉の元に泣きついてゆ
くか知れたものではないのである。
家康としては、なんとかこの信雄の臆病の虫を眠らせておかねばならない。
「必ず勝ちます」
家康は、自信たっぷりに答えた。
「羽柴がどれほどの大軍を駆り催したところで、それらはしょせん利に集まった烏合の衆に過ぎま
せぬ。勝てぬまでも、絶対に負けぬ戦をする自信はござる。羽柴の大軍を引きつけ、長対陣に引
きずり込めば、北陸の佐々成政、四国の長曾我部元親、紀州の根来党、雑賀党などが勢いを得て
上方へ攻め上りましょう。そうなれば、敵は必ず内から崩れます」
家康は、信雄を安堵させるためだけに、したくもない長口上をせねばならない。
「考えてもごらんなされ。羽柴が引き連れたる軍勢は、みな織田家の武将たちではござらぬか。
羽柴はこの手綱を取ることさえ思うに任せぬはず。戦を始めれば、必ず綻びが出ましょう。その
綻びに付け入って、見事、大仕事をしてご覧に入れましょうほどに、まぁ、ご安心あれ。それが
しも、わざわざ負ける戦を仕掛けるようなことはいたしませぬ」
これは、必ずしも口から出任せを言っているのではなかった。
事実、家康は、その「綻び」が出るのを待っていたのである。
秀吉の軍勢の最大の弱点は、秀吉自身に強大な統帥権がないことであろう。秀吉に従っている
者たちは、この合戦で功を挙げ、自分の領地を大稼ぎに稼いでやろうという欲で集まった者たち
ばかりであり、さらにこういう連中に対して大将の秀吉の手綱がきかないとなれば、必ず功名に
はやって抜け駆けなどをするお調子者が出てくるに違いない。家康とすれば、戦力差が隔絶して
いて正面から戦えない以上、堅固に構えて長期対陣に持ち込み、そういうお調子者が作り出すで
あろう隙に付け入って敵に打撃を与えてゆき、揺さぶりをかけてゆくしかないのである。
そして、
(それなら、できる)
と、家康は考えている。
家康は、清洲城から10kmほど北にある小牧山という小高い丘に目をつけていた。
(あの小牧山に陣を敷けば、濃尾平野を一望に見渡すことができ、北から寄せてくるであろう敵
の数や備えや動きをつぶさに見ることができる)
しかも小牧山は、かつて信長が城を築こうとしたことがある場所で、岐阜城を手に入れてし
まったためにその話は沙汰止みになり、築城は途中まで進められた状態で放置されているのだが、
石垣や堀などはそのままの形で残っており、これに簡単な改修工事を加えるだけで軍事拠点とし
ては十分に機能する。
逆に言えば、この小牧山を敵に取られてしまえば清洲城の喉首を押さえられた格好になり、
最悪の状態になる。
家康は榊原康政を派遣していちはやく小牧山を占拠し、ここに軍事拠点を築かせた。
家康の戦略は、すでに決まっている。
(小牧山を基点にして巨大な陣城を築き、敵の侵攻を食い止める)
かつて信長が武田勝頼を相手にやった、野戦要塞を真似るのである。
家康は、清洲城を後方基地にしてその前面に長大な野戦要塞を構築し、堀を掘り、土塁をかき
上げ、柵を植えて防御力を高め、攻めて来るであろう敵を迎え討とうとした。
この要塞に蓋を閉じた貝のように閉じ篭り、敵の隙を見て要塞から突出し、野戦で敵に打撃を
与えてゆく。敵が攻めてくれば要塞の防御力を頼みつつ飛び道具をもって反撃することができ、
また攻めてこないならば、長期対陣に持ち込みたい家康とすればそれはそれで良い。
軍勢が寡少な家康にとって、天下の兵を相手に戦うにはこれしか手がないであろう。
家康は、この戦略を自軍に徹底的に浸透させ、大急ぎで野戦要塞の構築に掛からせた。
秀吉は、このときまだ大阪にいる。
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