歴史のかけら
合戦師
68
この時期の秀吉という男の犀利さは、怖ろしいほどである。
秀吉は、信雄が3人の家老を謀殺したという事実を、すぐさま政治に利用した。
「三法師君の家来である3人の家老を勝手自儘に殺すなどは、とんでもないことである。すぐ
さま安土まで参られ、三法師君へそのことを弁明されよ」
と、秀吉は信雄に申し送った。
信雄にすれば、秀吉の言い様こそ憎らしかった。「3家老の謀殺」は、そもそも秀吉がこれを
抱き込んだために起こった事態であり、信雄にとっては自衛のための当然の処置なのである。こ
れを秀吉が責めるなどは笑止だし、なにより安土に今さらのこのこと出て行けば、今度こそ
秀吉に殺されるであろうと思った。
信雄は、ついに秀吉と断交した。
この瞬間からが、この時代で言うところの「戦争状態」である。
秀吉の反応は凄まじく早かった。
信雄が断交を宣言するやすぐさま手持ちの軍勢を伊勢へと侵入させ、今やただ1人の家老とな
った滝川雄利を国松ヶ島城に封じ込めて身動きできなくし、信雄との連携を完全に断ったのであ
る。
信雄は、文字通り丸裸にされた。すでに信雄の戦力というのは、尾張、伊勢、伊賀に散らばる
それぞれの城の防戦能力を残すのみになっており、一軍を指図できる人間が誰もいなくなってし
まった以上、野戦用の決戦兵力は完全に消滅したと言っていい。
これらのことを聞いた家康は、ため息を吐くような想いであった。秀吉の政略能力もさること
ながら、信雄という男の間抜けさはどうであろう。
(結局、わし1人で戦わねばならなくなったか・・・・)
しかし、躊躇している暇はない。
このときの家康の反応というのも、驚くほど早かった。
信雄が3家老を謀殺するやすぐさま領国に大動員をかけ、そのわずか4日後には浜松を出陣し
ている。これはこの時代の動員の常識から言っても、凄まじい速度と言わねばならない。
「ともかくも、清洲へ」
というのが、家康の方針であった。
秀吉と戦うとすれば、濃尾平野で敵を迎え撃つことになるであろう。その後方基地としては、
尾張の清洲城が地理的にいって至当である。とにかくそこへ急行し、地理地形を調査し尽し、決
戦のために少しでも有利な体勢を作っておかねばならない。信雄へも急使を出し、すぐさま清洲
城でできる限りの軍勢を集結させるよう指示した。
この間、家康の頭脳は凄まじく回転している。
(秀吉に脅威を感じている勢力と手を結び、四方からこれを包囲するのだ)
家康は、かつて足利義昭という男がやった「信長包囲網」を模倣しようとした。とにかくも
秀吉の兵力を四方に分散させ、濃尾平野に集結するであろう敵の決戦兵力を減らさねばなら
ない。
信長はその「天下布武」に殲滅主義をとっていたため、これに恨みを持っている勢力という
のは全国に多い。それらの勢力と手を結ぶことができれば、多少なりと秀吉の戦力を削ぐことが
できるであろう。
家康は、まず四国に目をつけた。この時期、四国は長曾我部元親という英傑によってほぼ
統一されており、しかも生前の信長は四国征伐の野望に燃えていたから、この長曾我部家と織田
家とは敵対関係になっていた。秀吉の政権が安定すれば、いずれ信長の後を受ける形で
四国征伐を行うに違いなく、長曾我部氏にとってもこれは死活問題なのである。
この際、共に手を携えて秀吉と戦おう、と家康は持ちかけ、
「あなたは、淡路に攻め入り、大阪を脅かしてもらいたい」
という親書を、織田信雄の名で送った。秀吉の本拠は大阪であり、その足元を直接攻撃され
るほど嫌がることはないであろう。
長曾我部元親は、応諾する旨の返書を送ってきた。このことは、秀吉にとって多少の痛手に
なった。
大阪付近ということで言えば、紀州(和歌山県)根来寺の僧兵団と紀州の地侍連合である雑賀党
も使えるであろう。合わせれば5千挺の鉄砲と1万人近い動員力をもっている彼らは、長年にわ
たって信長と敵対し続けており、信長の後を受けた秀吉の新政権にも好意を持っていない。
家康が誘いかけると彼らは快諾し、すぐさま秀吉の足元を脅かすためのゲリラ作戦を展開し
た。
さらに家康は、越中の佐々成政にも共同戦線を呼びかけた。
佐々家というのは織田家譜代の名家で、当代の成政は勇猛で名の通った男であり、また優れた
戦術能力をも持っている。信長がまだ尾張半国の主であったころからその親衛隊として各地を
転戦し、多くの武功を挙げてきた成政は、織田家が軍団制を採用してからは柴田勝家に属して北
陸方面で活躍し、その功によって越中の国主となり、現在は富山城に住んでいる。柴田勝家が秀
吉に滅ぼされると秀吉に和を請うたが、この成政の秀吉嫌いというのは世間に響くほどであった
から、秀吉に頭を垂れている現状に満足しているはずがなく、誘えば喜んで共に戦おうとするに
違いない。
事実、成政は、二つ返事で家康の提案に乗った。
(これで、なんとか戦えるであろう・・・)
と、家康は思った。
四国と紀州から大阪を脅かし、佐々成政をして北から秀吉を牽制させれば、秀吉としてもその
手当てのために多くの兵力を裂かざるを得ず、尾張に大兵力を集中させることが難しくなるに違
いない。
秀吉は、大阪からこれらの状況を眺めていた。
(家康という男は、そういう芸もできるのか・・・)
と、この家康の大戦略を多少の驚きを持って見た。
この時代の人間の天地というのは、現代人よりもはるかに狭い。戦国以前の日本というのは
それぞれの小天地に地侍や豪族が独立割拠しており、そこに住む日本人というのは隣の村まで出
向くことさえも稀であり、ほとんどの者が他国というものを知らずに一生を終えていたのであ
る。日本史上、この日本列島において人間の移動が活発になるのは、信長が膨張した織田家の領
土の中で関所を撤廃してからのことであり、全国の規模で見れば、秀吉による天下統一以降と言
っていいであろう。普通の日本人の頭の中には、まだ日本地図などというものはできていないの
である。
そのような時代背景の中で、日本全土を巻き込むような壮大な戦略外交を思いつけるというの
は、それだけでも稀有の才能と言っていい。家康は、足利義昭という策謀家の知恵を借
りることによってそれを思いついたのだが、たとえば織田家の武将を見渡しても、秀吉と天下を
争った柴田勝家にさえその種の才能はなかったようであり、信長と秀吉という2人の天才を除け
ば、その才能を有していたのは信長を殺した明智光秀と、秀吉の軍師である黒田官兵衛くらいし
かいないように思える。
秀吉は、こと外交能力においては自分こそが当代の名人であると自負しており、家康などとい
う男を自分の対抗馬として意識してみたことはなかったのだが、この家康の戦略外交には少な
からず感心した。
しかし、それにしたところで、秀吉と家康の外交能力には、まだ大人と子供ほどの実力の開き
がある。
秀吉は、佐々成政の敵対を受けてすぐさま越後の上杉氏と軍事同盟を結んだ。成政の領土であ
る越中の西には加賀の前田利家がおり、東の越後の上杉氏をも味方に抱きこんだ以上、いかに
成政が勇猛な男でも軍を動かすことはできないであろう。
紀州へは、弟の秀長に黒田官兵衛を付け、十分な兵を与えて征伐軍として派遣した。秀長は優
秀な能力の持ち主であり、黒田官兵衛にいたっては天下の逸材である。この機会に、紀州を完全
に制圧してしまうであろう。
四国の長曾我部元親だけは若干の不安があったが、仙石久秀という男を淡路島に置き、これに
巨大な水軍を預けることで敵の侵攻を食い止めるようにした。阿波の三好氏、瀬戸内海の制海権
を握る毛利氏とも同盟を蜜にし、共闘体勢を築いたから、元親率いる土佐兵がいかに勇猛でも、
大阪湾へ攻め込むところまではいかないであろう。
秀吉はこうして、家康の戦略外交をことごとく無力化した。
しかし、家康がやったことがまったく無駄であったわけではない。秀吉は、これに対応するた
めの外交や措置に忙殺され、肝心の尾張の決戦場における戦術的な手配りが完全に後手に回って
しまったのである。
秀吉という男は、今、悲痛なまでに忙しい。
この時期における秀吉の泣き所は、揮下の軍勢のほとんどが自分の家来でなく、織田家の同僚
に過ぎないということであった。
もし秀吉の軍勢がすべて彼の家来であるならば、秀吉はただそれらの武将に出陣を命じるだけ
でいい。しかし、秀吉は三法師という織田家の棟梁の威光を借りることによって織田家の武将た
ちの上に辛うじて載っているだけであり、秀吉自身に強力な指揮権があるわけではないので
ある。極言すれば、今の秀吉には同僚である武将たちに出陣を命じる権利さえない。
たとえば秀吉が兵を動員しようと思えば、
「三法師君のために、軍勢を出していただきたい」
とか、
「どこそこの領地を差し上げるから、力を貸していただけまいか」
と、情に訴えたり利で釣ったりしながら同僚たちに懇請して回らざるを得ないのである。
このため秀吉は、尾張へ出張る以前に、決戦兵力を結集するための同僚諸将の懐柔に忙殺さ
れた。
その間、家康はやすやすと清洲城へ入り、尾張の地勢を手に取るように把握し、在地勢力をこ
とごとく懐柔し、秀吉と戦うための入念な準備をすることができた。
逆に秀吉は、戦機を完全に逸したわけである。
このときの時間的な余裕の差が、秀吉という男の生涯の傷になってゆく。
|