歴史のかけら


合戦師

67

 秀吉は、信雄の背後に家康がいるであろうことはすでに見抜いている。

(わしが信雄と戦を始めれば、必ず家康が信雄を後押しするであろう・・・)

 と、確信していた。
 しかし、これは秀吉には面白くない。

 秀吉にとって、信雄などという男は怖ろしくもなんともない。戦になれば一捻りで叩き 潰す自信があるし、これを滅ぼすための時間もほとんど掛からないであろう。しかし、家康 と戦うというなら話は別である。
 秀吉は、織田家の将校として、家康率いる三河軍団の働きぶりというのは実際に何度も目 にしていた。三河者たちの戦場における勇猛さ、強悍さ、粘り強さは尾張衆とは比較になら ないほどであり、「海道一の弓取り」と評される家康の統率力、戦術・戦略能力も、まず当代 一流と言っていい。
 秀吉はこれを怖れはしなかったが、かといって軽く見るような甘さもなかった。

 徳川勢というのは、10年以上にわたってあの武田勢と戦い続けたという無類の戦歴を持って いる。しかも家康とは、絶対に負けると解っている状況で信玄率いる最強の武田勢に決戦を 挑み、惨敗してなお屈しなかったという頑固としか言いようのない困った男であり、家康率い る三河武士団というのは、強固な団結力と比類ない忠義を誇る一枚岩の軍団なのである。い かに秀吉といえども、こういう連中を相手にしては得意の謀略、調略の手も通じにくいと言 わざるを得ないし、絶対に負けない自信はあるものの、家康のやり方次第では戦が長期間に 及んでしまう可能性は否定できないであろう。
 そしてそれは、秀吉にとって絶対に避けねばならないことであった。

 秀吉の政権基盤の脆弱さというのは、誰よりも秀吉自身がよく解っていた。この基盤が不 安定な時期に、家康という粘着力に富んだ男と戦を始め、泥沼の長期戦に引きずり込まれて しまえば、自分の政権のどこにどんな綻びが出るか知れたものではなく、せっかく作り上げた 楼閣が砂のように崩れ落ちぬとも限らない。
 秀吉にとって、「今」が天下を獲るか獲らないかの瀬戸際であった。ここで大きなリスク を背負うわけには断じていかないのである。

 秀吉は、だから家康と敵対しようとはせず、初手からこれを抱きこもうとした。


 天正11年の10月――この時期から半年ほど前――突然、秀吉の使者が浜松にやって来く るということがあった。

「貴殿の新しい官位を、朝廷に奏請いたしました」

 と、その使者は言った。
 「正四位下 左近衛権中将」というのが、家康の新しい位階であるという。京を押さえて いる秀吉が朝廷を動かし、家康をその位階に任官させてやったのだった。
 この時、秀吉自身の位階はまだ「従四位上 参議」に過ぎなかった。秀吉は自分以上の位階を 家康に贈ることによって下手に出、自分の隔意のなさを家康に伝えたかったらしい。

 常識的に言って、官位とはもらいっぱなしにしておくことはできない。天子や公卿衆に対して お礼を言上に行くのが当然であり、もし家康がお礼のために上洛すれば、その行為そのものが、 家康が京を押さえている秀吉に臣従する、という政治的な表明ということになる。
 これは、つまり、

「自分はあなたに悪意は持っていない。もし味方に参じてくれるならば、格別に厚遇いたしま すぞ」

 という秀吉の政治的メッセージであった。

 この官位任官は、家康が秀吉にねだったわけでも頼んだわけでもない。

(秀吉は、わしの機嫌をとりたいらしい)

 家康にすれば、憫笑したい想いであった。
 家康にとって、京の朝廷における官位などは無用のものであった。家康は実利一点張りの 男であり、虚飾に過ぎないそれらのものには元々興味さえない。ただ、弓馬刀槍の強弱だけが 問題なのである。
 まして、上洛する気などサラサラなかった。
 家康は、秀吉という男の腹黒さをすでに知っている。「自分が上方に出て行けば、必ず 殺される」と信じており、この時期ですでに、秀吉との対決を心に決めてしまって いるのである。
 家康は、秀吉に一片の礼状を送ったきりで、このことには無視を決め込んだ。

 秀吉は、それでも諦めなかった。この4ヶ月後――つまり天正12年の2月であり、秀吉が 信雄と戦を始める直前である――今度は「従三位 参議」の官位を家康へ贈った。
 家康は、これにも礼状を返しただけで済ませ、秀吉を執拗に無視し続けた。

 しかし、考えようによっては、これは非常のことであると言えるかもしれない。家康は、 浜松という大田舎に居ながらにして、「殿上人」と呼ばれる位を手に入れてしまったわけで ある。有史以来、三河に生まれた者でこのような境遇になった人間というのは家康をおいて ないであろう。
 京における官位といったようなものの事情に明るい三河や駿河の僧などは、家康のこの非 常な出世を喜び、そのめでたさを祝うために浜松に集まり、これを誉めそやした。
 しかし、家康は不機嫌そうに、

「そのようなことを歓ぶようでは、徳川家の武略も末と思え」

 と言い、この言葉を領国に広めさせ、家中をかえって引き締めた。
 武士にとって、公卿の位などというものは虚飾に過ぎず、ほとんど意味のないものであっ た。意味のないものに価値を与え、ありがたがるような遊び心というものは家康は持ち合わ せていないし、またその必要もないであろう。この乱世において頼れるものというのは、 結局実力しかないのである。

 三河者たちの面白さは、秀吉のこの官位の贈与にかえって憤慨したことであった。
 こういった事情に暗い多くの三河者たちは、

(木下狐が、殿さまをたぶらかそうとしておる)

 という目で、この政治現象を見たらしい。共同体の外の者に対して猜疑心が異常に強く 働くというのは、農民型の人間の典型的な特徴と言っていいであろう。

 家康は、このような家中の雰囲気を喜んだ。もし秀吉が徳川家の武将に対して調略や謀略を仕 掛けてきたとしても、家中にこういう秀吉嫌いの雰囲気がある限り、容易にそれは達成できない であろう。


 秀吉は、諜者からの報告などで浜松の様子や家康の言動などを掴んでいる。

(・・・やはり、家康と戦うことは避けられぬか・・・)

 と、重苦しい気分になった。
 秀吉にとって、信雄を滅ぼすこと――つまり「信長が創った織田家」を消し去ってしまうと いうことは、自分の新政権を確立するための絶対条件であった。こればかりは、避けて通るこ とができないのである。
 しかし、避けられぬなら避けられぬで、他に打つ手はある。


 織田信雄という男は、この天正12年で26歳になる。
 幸若舞いを舞わせれば名人と呼べるほどの達者で、それが信長の血から受け継いだ唯一の特技 とも言えそうなのだが、他に戦国の為政者として際立った能力があるわけではなかった。家康 のように一軍を統率して馬上で戦闘の指揮ができるわけでなく、信長のように天下を 向こうに回した戦略が練られるわけでなく、秀吉のように人の心の表裏を読み切ってこれを 操作するような芸を持っているわけでもない。信長の次男にさえ生まれていなければ、おそ らく城を持つことさえかなわなかったであろう。
 しかし、この信雄は、10代ですでに伊勢の国主になり、現在では尾張、伊勢、伊賀に100万 石を越える領地を持っている。当然だが、これを彼1人で切り回せるわけがない。

 信雄には、その補佐役として大名級の家老が付いていた。
 滝川雄利、岡田信孝、津川義冬、酒井長時、という4人がそれである。
 彼らは、かつて信長が信雄に伊勢を与えたとき、信雄の能力を補うために信長自身が選ん で配属させた武将たちで、織田家に対する忠誠という面で申し分なく、軍事指揮官としての 才能も、内政面に対する手腕でも、外交交渉能力においてもそれぞれに信頼のおける力量 を有した者たちであった。

 秀吉は、この家老たちに目を付けた。

(家康の足元を崩すのは至難だが、信雄の羽翼ならば、折れる・・・)

 強固な団結と比類ない忠誠を誇る家康の三河軍団を調略や謀略で切り崩すのはほとんど不可能 であろうが、信雄の家来を手玉に取ることならば秀吉にとってわけはない。秀吉は、家康の同 盟軍になる信雄軍団を弱体化させ、実質的に家康の戦力を半減させる策略に出た。

 信雄の軍団というのは2万5千を越えるほどの兵力があるが、信雄自身に軍事的才能など というものはないから、戦場では4人の家老たちが師団長になることによって軍勢を 進退させている。つまり、この4人の家老が居なくなれば、軍事司令官がいなくなるという ことであり、信雄の軍団はまったくの烏合の衆になる。指揮官がいない軍隊ほど無力なもの はないのであろう。

 秀吉の謀略は、凄まじかった。


 秀吉はまず手始めに、滝川雄利をのぞく3人の家老に内応を持ちかけた。

「三法師君に馳走せよ」

 と、秀吉は言う。
 このまま信雄殿に従っておるのは、忠に見えて忠ではない。織田家の大将は三法師君であ り、これに弓引こうとしておる信雄殿に従っておるのは織田家に対する逆心ということに他な らず、これ以上の不忠はない、という論法である。

「しかし、もし三法師君にお味方なされるにおいては、必ず大封を与える」

 と、秀吉は使者をしてこの3人に説かせた。ようするに、「俺に味方すれば、大きな領土 をやる」と彼らを利で釣っているのだが、秀吉の犀利さは、「裏切り」という後ろ暗い行為を 「三法師君への忠義」という「正義」に置き換えてやり、彼らの罪悪感を相殺してやっている点 であろう。

 3人の家老たちは、もともと信雄という男の将来については不安を持っていた。

(この大将についておっては、いずれ破滅の憂き目にあうやもしれぬ・・・)

 という想いをそれぞれに抱えており、熟考の末、秀吉の誘いに乗った。
 秀吉は、3人から裏切りを約束した誓紙を受け取った。
 ここまでは、いわば後の伏線である。

 秀吉は、今度は家老の最後の1人である滝川雄利を呼びつけた。

「わしに内通せぬか?」

 秀吉はわざと露骨にそのことを言い、さらにここで先に取った3人の誓紙を滝川雄利の前 に放り出し、

「もはや、このようになっている」

 と、底冷えするような冷たい目で見据えた。

 滝川雄利は、事態のあまりの唐突さと重大さに驚愕し、呆然としたが、しかし、すでに 家老が3人まで内通してしまっており、その秘密を自分に打ち明けられた以上、ここでこの 誘いを断われば、この場で秀吉に殺されてしまうであろうと確信した。

「承知つかまつった」

 滝川雄利は秀吉に内通を約束し、裏切りを誓う誓紙を書いてその場を逃れた。

 信雄の元に帰った滝川雄利は、この秀吉の陰謀と3人の家老の内通という驚くべき事態を 洗いざらい信雄へ報告した。
 当然だが、信雄は大いに驚き、かつ激怒した。すぐさま3人の家老をそれぞれ呼びつけ、 これを残らず謀殺した。

 すべて、秀吉の狙い通りであった。

 この「3家老の内通」と「3家老の謀殺」いう事実は、当然だが信雄軍団の士卒の士気にこ れ以上ない悪影響を与えることになった。政戦のトップである家老が3人までも信雄を見限って おり、しかもそれを信雄が殺したとなれば、士卒は誰を信じていいのか解ったものではなく、疑 心暗鬼のドス黒い雰囲気が家中に充満した。
 信雄は、まさに自分の手足を自分で切り落としたようなものであった。2万5千を数える信雄 の軍団は、戦う前から4人の師団長のうちの3人までを失ったわけであり、家中の士卒の心まで がバラバラになってしまった以上、無力化してしまったと言っていい。これでは決戦どころか伊 勢や伊賀の領土を守ることさえ覚束ないであろう。

 秀吉は、自分のシナリオのために配した役者の性格を知り尽くしていた。それにどういう 外圧を与えればどう動くかということまですべて読み切っており、結果どうなるかということ を、神のような目で完全に見通していたのである。


 家康は、この秀吉の謀略の前に、ほとんど徳川家単独のかたちで10万を越えるであろう秀吉 の大軍を迎え撃たねばならなくなった。




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