歴史のかけら


合戦師

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 家康が、織田信雄という知恵の浅い男に目を付けたのは、信長が死に、明智光秀が討た れ、織田家の跡目を決める「清洲会議」が行われた後――天正10年が終わるころ――のこと である。
 このころというのは、まだ秀吉が信雄を徹底的に利用しようとしていた時期であ り、秀吉と信雄の関係が蜜のように甘かった時期である。

(後日のために、信雄殿を取り込んでおかねばならぬ・・・)

 と、家康は思ったらしい。

 信雄という男は凡人ではあるが、あの信長の次男である。長男であった信忠が「本能寺の 変」で信長と共に殺されてしまったいま、織田家の序列でいえば、家督を継いだ三法師を除 けば信雄がもっとも上ということになる。まして、家康にとっては信雄の領土である尾張と いう国が重大であった。今後の織田家の状況がどのように動いていこうとも、三河の隣国で ある尾張の国主である信雄を味方に引き入れておけば、損になることはないであろうと計算 したのだった。

 天正11年の正月――まだ柴田勝家が滅ぼされる以前の段階で――家康は、信雄に宛てて手 紙を出し、岡崎城へと招いた。

「・・・右府様(信長)がお亡くなりになり、世が騒がしくなっております折、信雄殿には何 かとご苦労、ご心労の多いことと存じます。私も日々の忙しさにかまけ、ついつい無沙汰を 致しておりますが、一度ゆっくりとお逢いをし、お話をしてみたいと思っております。つきま しては・・・」

 諸事慎重な家康にしては、このことは異例に手が早かったと言っていい。

 信雄は、わずかな供回りだけを連れ、いそいそと岡崎へやって来た。
 信雄にすれば、家康が信長の20年に渡る同盟者だったということが重大であった。信長亡 きいま、家康が自分に接近しようとしているというその行動自体が、織田家における自 分の置かれた位置を示しているようなものであり、プライドを何より満足させた。

(あの三河殿でさえ、わしを織田家の跡目と見てくれているか・・・)

 という心地良さがあり、また一面で言えば、秀吉という織田家一の実力者と手を結び、裏 で家康とも手を握っておけば、自分の織田家における地位が確固たるものになるに違いな い、という計算があった。
 家康の誘いは、渡りに船だったわけである。

 家康は、岡崎城の奥深い密室へと信雄を誘った。人払いをし、二人きりになると、家康 自らが酒器をとって信雄に酌をし、肴を勧めながら、自分がいかに信長を敬愛していたかを 夜が更けるまで熱っぽく語った。

「それがし、信雄殿のお父上であられる信長公のことは、僭越ながら血を分けた兄のようにも思 うておりました。20年の長きに渡り、信長公から蒙った数々の御恩、これは海よりも深く、天よ りも遥かに高きものと思うておりまする・・・・」

 家康は、信長に想いを馳せるようにたびたび視線を虚空に飛ばし、しばしば目を潤ませ、 ひたすら信雄の情感に訴えた。

「しかし、いかにその御恩に酬いようと致そうとも、すでに信長公は、今生におわさぬ。そ れがしの寂しさ、悲しみと無念、お解かりになっていただけるであろうか・・・!」

 薄暗い部屋に、火明りだけが揺れている。家康の低く湿った声が、読経のように朗々と 流れてゆく。家康という当代一流の役者が作り出すその雰囲気は、知恵が浅く、人が好いだ けが取り得のお坊ちゃまの心をあっさりと圧倒し、巻き込んだ。
 信雄もついには泣き、

「家康殿と父上との誼(よしみ)、それがしが引き継がせてもらうわけには参らぬであろう か・・・」

 と、家康の手を取った。
 家康は、信雄の手に自らのそれを重ねながら、

「いやいや、今は世間が何かとうるそうござる。しかし、そのような堅苦しいことを申され ずとも、それがしの織田家への気持ちは変わってはおりませぬ。何かお困りのことがござれ ば、いつなりとそれがしへ御一報あれ。必ず信雄殿のお力に成り申す」

 と、真摯に答え、信雄に強固な信頼を植え付け、限りない安堵を与えてやった。

 家康は、信長の生前は彼を本気で尊敬し、その威を多分に怖れ、心の底からこれに尽くし て来たが、その死後まで信長を敬慕したり、それを恩に感じたりするほどの感傷家ではなか った。家康は生来的に感情の量の多い人間ではあったが、幼少期からの長い人質生活のため か、自己の感情をほぼ完全に制御することができるようになっているのである。その意味で、 徳川家の大将としての家康は、怖ろしいまでに徹底した現実主義者であった。
 信長が死んだら死んだで、その新たな状況にすぐさま順応し、徳川家を守るというこの一点 のために己の持てるすべての能力を注ぎ尽くすことこそが家康の使命であり、「徳川武士団 の棟梁」としての家康の存在意義でさえあると言えるであろう。
 家康が信雄を相手にやっているのは、あくまで尾張という「国」を抱き込むための「政 治」であり、「外交」であった。外交とは、ときに役者のような演技力と詐欺師のような 弁舌とを必要とするものらしい。

 家康はこのとき、言質になるような言葉をついに一言も吐かなかったのだが、信雄という 浮薄な男の心をがっちりと掴み取ることに成功していた。


 家康と信雄の「岡崎密会」から1年――天正11年が終わろうとする頃、秀吉と信雄の関係 はすでに険悪になっていた。秀吉が織田家を実質的に掌握し終え、信長の遺児である信雄と いう存在が邪魔になっていたのである。
 秀吉は、信雄を自滅させるための陰謀を開始した。

 天正11年の末、天下に妙な噂が流れた。

「秀吉が、信雄殿を殺そうとしているらしい」

 というのである。この噂は、回り回って信雄の元へも届いた。
 信雄は、昇龍のような勢いで力を付けてしまった秀吉を内心面白く思っていない。この噂を 耳にし、根が臆病な男だけに非常に神経が過敏になった。
 しかし、これは実は秀吉自身がばら撒かせた噂であった。日本史上、この時期の秀吉ほど 情報戦略が上手かった男はなく、これはすべて後日への布石となってゆく。

 明けて天正12年の正月。
 織田系の大名たちはみな年始の挨拶のために安土城に集った。この時期、織田家の棟梁は 4歳になる三法師であり、みなは大広間で三法師に拝謁せねばならない。
 このとき、大広間に集まった諸将は呆然とした。三法師が、秀吉に抱かれて現れたのであ る。人々は一斉に上座に向かって頭を下げたのだが、三法師へ頭を下げているのか、秀吉へ 頭を下げているのかがはっきりせず、見方によっては秀吉に平伏しているとも言えた。
 これは一面、喜劇的ではあるが、それだけに諸将にとっては深刻な事態でもあった。
 もし秀吉の織田家簒奪の意図に気付き、秀吉に憤慨し、これと敵対しようとする者が仮に あったとしても、三法師を抱いた秀吉に敵対するということは、すなわち三法師に敵対する ということであり、織田家に敵対することにも等しいのである。政略感覚に富む者であれば、 この時点で秀吉に敵対することの無駄を悟り、織田家の将来を見捨て、秀吉に擦り寄ろうと するであろう。
 秀吉は、こういう「曖昧さ」を逆手にとって織田家をなし崩しに自分のものにしようとし ている。秀吉の新政権というのは、この「曖昧さ」の上に構築されたものであるとも言える のだが、秀吉の凄まじさは、この「曖昧さ」を「現実」に無理やり移行しようとしていると ころであり、道理を力で引っ込めさせて無理を通しているにも関わらず、世間に少しも 無理と見せないよう魔術を施しているというところであった。

 三法師への挨拶を済ませた諸将は、そのまま安土城の石段を降って信雄の屋敷へと移動 し、挨拶をする。信雄は、形式上 織田家の執権と言っていい存在であり、三法師の名代を 務めていた。
 この信雄への挨拶を、秀吉はしなかった。この時期の秀吉は、いまだ織田家の一家来であ り、家来であるという建前上、どれほどの実力を持っていようが主筋の信雄へは挨拶に出向 くのが理の当然であったが、秀吉は故意にそれをせず、これ見よがしに信雄を無視した。
 当然だが、織田家の執権職を自認する信雄は激怒した。

「猿めは、なに様のつもりじゃ!」

 何人かの大名たちの前で、吐き捨てるようにしてそれを言った。この言葉が世間に伝わる や、秀吉はすかさず、

「信雄殿が、秀吉を殺そうとしているらしい」

「秀吉が、その先手を打って信雄殿を暗殺しようといているらしい」

 などとデマを流し、ことさら険悪な雰囲気を作り出させた。
 いたたまれなくなった信雄は、逃げるように安土を去り、国へ帰った。

 信雄は、完全に秀吉の流す偽情報に踊らされた。

(このまま黙っておれば、自滅を待つばかりじゃ・・・)

 やがて秀吉が自分を攻め殺そうとするに違いない、と思い込んだ。

 秀吉は、信雄を攻められない。世間体を気にせねばならない秀吉とすれば、何があっても 自分から主筋の信雄を攻めるわけにはいかず、どうにかして信雄から剣を抜くよう仕向けな ければならないのだが、そういう秀吉の事情に、信雄は思い至らない。
 秀吉は、信雄の臆病さを刺激し、

(秀吉を殺さねば、自滅する)

 という強迫観念を持たせることで、信雄を暴発させようとしたのであった。三法師を抱いて いる秀吉に向けて兵を挙げるということは、織田家の棟梁である三法師に向けて兵を挙げる ということであり、そうなって初めて、秀吉は信雄を滅ぼすことができるのである。

 尾張へ逃げ帰った信雄は、自分を守るために戦備を整え始めたのだが、これこそが秀吉の 望んでいた形であった。
 秀吉は、待ってましたとばかりに、

「信雄殿が秀吉と戦を始めようとなされておるらしい」

 という噂をばら撒かせた。
 世が、騒然となった。


 家康は、これらの情報を巨細となく集めさせながら、浜松からじっと上方の様子を窺って いた。

(信雄という小僧は、自滅を待つつもりか・・・?)

 と、家康が心配になるほど、信雄の動きは中途半端だった。
 信雄は、戦支度を始めたあたりで、“常勝将軍”と呼ばれる秀吉と戦うことが怖ろしくな ってきたらしい。決然と兵を挙げるでもなく、家康に助力を求めるでもなく、味方を増やそ うと外交をするでもなく、うろうろと為すこともなく日を送っている。

(勝手に自滅などされては、かなわぬ・・・)

 家康も気が気でない。
 100万石を越える信雄の戦力があってはじめて、家康はどうにか秀吉と戦えるのである。 信雄が何もせずに自滅してしまえば、家康は独力で秀吉と戦わねばならないことになり、 それでは勝負にも何もならなくなってしまうであろう。

 家康は、やむを得ず信雄へ密使を送り、すぐさま兵を挙げるよう促した。
 しかし、「不覚人殿」の間抜けさと、秀吉という男の謀略の怖ろしさは、家康の予想を遥 かに上回っていた。

 これからの1月で、家康はそれを思い知らされることになる。




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