歴史のかけら


合戦師

65

 羽柴秀吉という男が、天下を握りつつある――

 奇妙なことだが、平八郎を含めた三河者たちというのは、この現実に極めて鈍感であっ た。
 三河者たちは、秀吉という男について、なに1つ知ってはいなかった。改姓した羽柴とい う姓にさえ馴染みがなく、木下藤吉朗であったころの「木下」という苗字をかろうじて憶え ているに過ぎない。

「おおかた、木下狐が騙しおるのよ」

 と、秀吉が創りつつある新政権にも極めて過小な評価を下していた。

「主家を乗っ取ろうとする木下など、光秀同然。しょせん三日天下に過ぎぬ」

 ほとんどの者が、そのように観測している。
 それも、当然であったかもしれない。
 三河者という人間集団は、尾張人たちのような世間の広さがない。彼らにとって、「世間」 といえば家康の領国――東海5ヶ国の外にはかなかった。山深い純農地帯から身を起こした家康 の譜代家臣たちというのは、誰もみな思考が極端に農民型で、保守的傾向が強く、急激な変化や 新事態というものに対しては軽蔑か憎悪の感情を持ってしか見ることができなかったのであ る。
 彼らには、そもそも織田家で起こっていることが理解できない。

「木下という奴は、元は織田家の奴婢(やっこ)であったと言うぞ」

「主家を乗っ取るような男に、尾張衆はよく頭を下げておるものじゃ」

「尾張者というのは、利さえ喰らわせば、累代の主家さえも平気で投げ捨てるのよ」

 三河者たちにとって、主君とは天地に家康ただ1人であり、徳川家の他に主家などは考え られなかった。その彼らから見れば、信長が死んだ途端、信長の遺児たちを差し置いて秀吉 を主君として戴こうとする尾張者たちというのは打算の化け物のようであり、自分たちと同 じ人間であるとはほとんど思えなかったであろう。

 家康は、こういう三河者たちが持つ雰囲気の中にある。家康自身も典型的な農民型の男で あり、秀吉という男の空前絶後の調略能力、政略能力をまだ知らないこの段階では、当然な がら秀吉が創りだした新政権に高い評価を与える気にはなれなかった。

(今なら、まだなんとか戦えるかもしれぬ・・・・)

 とさえ、家康は考えている。
 戦うと言っても、もちろん積極的な決戦などではなく、あくまで徳川家を守るための戦い であり、攻めて来るであろう秀吉の軍勢を迎え撃つ戦いである。秀吉を倒し、群雄諸侯を 納得させて天下を獲るような野心も想像力も企画力も、今の家康にはまだとうてい備わって いない。

 秀吉は確かに天下を握ったが、その政権基盤は非常に不安定なものであった。なぜなら、 秀吉の家来の座にいる者たちというのは、みな織田家における秀吉の同僚たちであり、誰も が心から秀吉に信服しているわけがないからである。秀吉は、その能力の限りを尽くして人間 関係を巧緻な積み木細工のように組み上げ、その上に非常に危ういバランスを保ちながら載 っているようなものであり、これにちょっとした衝撃を外側から与えてやれば、大いにぐら つき、あるいは崩れ落ちるかもしれない。秀吉の政権は、間違いなく日本史上もっとも強大 な武力を持っているであろうが、わずか1年半で作り上げたその政権基盤は、史上のどの政 権よりも脆いという弱点も持っているのである。

(秀吉の下にいる者どもは、しょせん利に集まった烏合の衆に過ぎぬ。やり方さえ間違わな ければ、崩せる)

 と、家康は思った。
 戦を長期戦に持ち込み、秀吉の勢力に対して政戦織り交ぜて外側からじわりじわりと圧力 を掛けていけば、小さな揺れはやがて大きな揺れになり、最後には積み上げられた積み木が バラバラになって崩壊するに違いない。

 無論、家康の徳川家単独でそれを行うのは、とうてい無理である。秀吉は今や24ヶ国の主 であり、家康はわずか5ヶ国の太守であるに過ぎない。現実問題としてこの戦力差は絶望 的であり、野戦で主力決戦などをしようものなら、当方が一撃で粉砕されてしまうであろう ことは間違いがない。
 しかし、地理的な問題から考えると、秀吉の勢力と接していない関東の北条氏に大きな期 待をかけるわけにもいかない。
 家康が喉から手が出るほど欲しているのは、東海地方における有力な味方であった。


 「うつけ」という古語がある。
 「空け」という字を当て、中身が空っぽであるという意味から、「うつけ者」と言えば 「愚か者」とか「間抜け」とか「馬鹿」とかいった貶し言葉になる。
 信長がまだ少年期であったころ、「うつけ」と言えば、奇矯な振る舞いが多かった信長の代 名詞であった。そういう経緯から、織田家では、「うつけ」というのは必ずしも相手を馬鹿に する響きだけではなくなっている。
 その織田家で、「不覚人殿」と陰口を叩かれている男がいる。

 信長の次男 織田信雄である。

 ようするに、「うつけ」と呼ぶ価値さえない大馬鹿者ということであろう。
 信長の遺児であるこの男は、父の天才性をどこも引き継がなかった。知恵が浅く、臆病な くせに気位だけが異常に高く、欲が深い。生まれた瞬間から信長という偉大な天下人の子供で あり、何不自由なく育てられたために苦労のひとつも知らず、信長から指示されたことに関 してはどうにかこなしては来たものの、目を見張るほどの覇気もなければこらえ性もない、 腰の弱い男であった。

 秀吉は、織田家を横領するために、徹底的にこの「不覚人殿」を利用した。
 秀吉が「清洲会議」で、織田家の相続者に信忠の遺児である三法師を推した、ということ は先にも述べた。秀吉は、まだ嬰児に過ぎない三法師を織田家の大将にすることで織田家を 実質的に支配しようとしたのだが、秀吉自身がすぐさま表立ってそれをすれば、世間も織田 家中も納得しないであろうことをよく弁えていた。

「拙者は、三法師君の守り役をさせて頂ければそれで結構でござる。信雄様こそ、三法師君 の成人まで、織田家の執権職となられるべき」

 秀吉は、そういう餌をもって信雄を釣り、家康をはじめ他の勢力に対しては、

「自分は信雄様をお助けし、三法師君を守り立ててゆくつもりである」

 という意思表明の手紙を送ったりしている。

 信長の遺児には、三男の信孝という男もおり、この信孝だけは、暗愚な者が多かった信長の 子供たちの中では人並みに知恵があり、勇気もあり、気概もあった。しかも「清洲会議」で は、柴田勝家が織田家の相続者にこの信孝を推し、結果的に相続者とはなれなかったものの、 三法師の後見役という大役を得ていた。
 信雄は、当然おもしろくない。
 自分を誰も跡目に推してくれないばかりか、ライバルの信孝が柴田勝家と結びつき、三法 師の後見役になってしまったのである。信雄としては、秀吉にすがりつくしかない。

 秀吉は、柴田勝家と決戦する前に、勝家の勢力を削ぐために信雄と共に信孝を攻め、勝家 を北陸で滅ぼした後、降伏した信孝を殺した。
 無論、秀吉自らは手を汚さない。
 信雄をけしかけ、殺させたのである。

 信雄は、腹違いの弟である信孝とは犬猿の仲であった。生かしておけば自分より能力の高 い信孝に織田家の執権職を奪われるかもしれないという恐怖があり、秀吉からその示唆を受 けるや、喜んで信孝を自殺に追い込んだ。


 平八朗は、この話を聞いたとき、驚愕した。

(そのようなことが、あって良いものか・・・!)

 と、思った。
 信孝は、あの信長の子であり、秀吉にとっての主筋なのである。主君の子供に手を掛ける などは、三河者には考えられないことであった。

 たとえばかつて、家康の長男 信康が、信長から切腹を命じられるということがあった。
 その介錯をするよう家康から命じられた服部半蔵は、いざ信康が腹に刀を突きたて、それ を見事に十文字に切り裂いたとき、そのあまりの光景に号泣し、悲しみと恐れからついに介 錯の太刀を振り下ろすことができなかった。
 後年、家康はこのときのことを夜話の席で述懐し、

「“鬼の半蔵”と言われたそちでも、主の首は討てぬものよな・・・」

 と、涙と共に半蔵に言ったという。

 これが、「主筋」というものに対する三河者たちのごく一般的な認識であったと言ってい い。秀吉のやったことというのは、三河者たちからすれば、たとえば千年続いた古い社(やし ろ)に放火するようなもので、できるとかできないの以前に、そもそも考えないような類の行動 なのである。
 三河者たちは、秀吉という男の腹黒さを、このとき思い知ったと言っていい。

 平八郎は、この報を聞く瞬間までは、

(三法師という右府様(信長)の孫は、まだ3つであると聞く。秀吉は三法師君を織田家の当 主にし、自分がその執権になることで、織田家を自由にするつもりであろう)

 と考えていた。しかし、主筋の者を容赦なく殺すということは、ついには織田家を乗っ取 り、自分が天下を取ろうとしていると見るべきであろう。

(三好長慶から家を奪った松永久秀に劣らぬ大悪人・・・!)

 平八郎を含め、多くの三河者たちは、秀吉をそのように規定した。


 三河者たちでさえ持ったその危機感を、信雄という知恵の浅い男は、まったく持たなかったら しい。秀吉が着々と天下を握る階段を登っているのを横目で見ながら、織田家が天下の主として 未来永劫続いていくであろうことを、信じて疑っていなかった。
 信雄は、

(自分が織田家の執権職であり、秀吉などは織田家の家来に過ぎぬ)

 と、呆れたほどの純朴さで思っていた形跡が極めて濃い。
 信長の仇である明智光秀を討ち、信孝と結んだ敵対勢力である柴田勝家を滅ぼすなど、そ れらの秀吉の働きはすべて自分と織田家のためのものであると思い込んでおり、秀吉には十 分な褒美でもやれば良いとたかを括っていたのである。
 奇妙なことだが、信雄の感覚だけが、世間から完全にズレていた。

 この信雄のズレっぷりに困ったのは、むしろ秀吉であった。
 秀吉は、すでに600万石の主であり、天下一の武力を持つ存在になっている。信雄は、 尾張、伊勢、伊賀に100万石を越える領地を持ってはいるが、秀吉の実力と比べれば鷹の前の 雀のようなものであるに過ぎない。ところが、秀吉がいかに大阪城で天下の実権を握ってい ようと、信雄が織田家の執権職として踏ん反り返り、秀吉を見下す態度をとり続けるならば、 秀吉が織田家の家来であるという現実は動かず、秀吉が作り出した新政権というものがな にやら嘘のように思えてくる。
 しかし秀吉の泣き所は、信雄を殺すことができないことであった。信雄はなんと言っても 大恩ある信長の子であり、秀吉の主筋でなのある。それを公然と殺せば、世間に対する秀吉 の印象が一変してしまうであろう。

 秀吉は、常に世間の評判を気にする男であった。
 秀吉は、文字通りの徒手空拳から身を起こした。味方といえるような派閥も有力な門地も なく、人並みの体躯も衆に優れた戦闘能力も持って生まれなかった秀吉にすれば、ひたすら に知恵を使い、世間というものを味方につけてゆくしかなかったのである。彼はまだ信長 の草履取りに過ぎなかったころから一流の広報官であり、日本史上最高と言っていい扇動者 であり、人間心理の操作者であった。秀吉は、「世間」というものの機微を知り尽くしてお り、その追い風を常に巧みに身に受けることによって最下層から浮き上がってきた男だと言 っていい。

 秀吉は、信雄を、信長の子として華々しい名誉を与え、虚飾の地位を与え、自分の政権下の 小大名にしてしまいたかった。そうすることでようやく「信長が創った織田家」というもの が世間から幻のように消え、「秀吉の新政権」が浮き上がってくるであろう。
 そのためには、一度は戦争で信雄を叩きのめし、その領地を取り上げてしまう必要があっ た。取り上げた後で、「秀吉の旧主筋への温情」というかたちでどこかに多少の領地をく れてやり、小さな大名にでもしてやれば、世間の受けも良いであろう。しかもそれは、 信雄の方から秀吉に敵対させ、先に手を出させ、これを織田家の三法師君に代わって仕方な く討つ、という形式でなければならない。

 秀吉にとって、この程度の陰謀はさして困難なものではなかった。


 そういう状況――秀吉と信雄の奇妙で微妙な関係――というのは、人間関係の機微に鋭い家康 にはすべて解っている。

(信雄殿は、秀吉にとってやがて利用価値がなくなり、滅ぼされるであろう・・・)

 と、見ていた。
 家康とすれば、この際、どうにかして信雄を味方に引き入れたかった。三河の隣国である 尾張を中心に100万石を越える勢力を持つ信雄を味方に引き入れることができれば、6万を 越す兵力を結集できるということになり、秀吉がどんな大軍を擁していようとも、戦い方に よっては面白い戦をする自信がある。勝つことはできないにせよ、敵を泥沼の長期戦に引き 込むことならばできるであろう。
 長期戦にさえ引きずり込めば、秀吉は勝手に足元から崩れ落ちるに違いない。

 秀吉は、信雄を敵にして叩きのめしたい。
 家康は、信雄を味方に引き入れたい。
 おかしな話だが、ここで秀吉と家康の利害が一致する。

 秀吉と家康――
 天下を取ったこの二人の英傑が、一緒になって前後から「不覚人」と呼ばれた男を煽り、 そそのかし、戦争へと駆り立てようとしていた。




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