歴史のかけら


合戦師

64

 徳川家と北条家の間で行われた甲斐と信濃の争奪戦は、後世の人によって「天正壬 午(じんご)の乱」と呼ばれている。
 なかでも、「黒駒の合戦」と名づけられた局地戦で2千の兵をもって8千の北条勢を壊走 させた鳥居元忠の働きは、比類ないものであった。

 家康は、

「汝の働きで、わしは甲斐を獲たぞ!」

 と、鳥居元忠を大いに褒め、その功を賞して甲斐の代官に任命した。

 家康が、甲斐の代官になった鳥居元忠に最初に命じたのは、奇妙な作業であった。

「信玄入道が編み出した甲州軍法が書かれた書物、それに使った道具、武具など、なんでも よい、甲斐に残っておるそれらのものを集め、ぜんぶ浜松へ送れ」

 というのである。
 家康は、徳川家きっての合戦巧者である平八郎と榊原康政、さらにお気に入りの若手で ある井伊直政の3名を奉行に指名し、甲斐から送られてきたそれらの資料と家中の甲州侍か ら聴取した意見よって、甲州軍法を徹底的に研究させた。

 これまで徳川家には――というより、ほとんどの大名がそうであったが――特別に決まっ た軍法などというものはなく、それまで行われてきた慣習とその場その場で大将が決めたや り方によって軍隊を編成し、訓練し、軍勢を進退させ、戦をやってきた。しかし、徳川家は すでに三河の草深い山間で数百の人数で合戦をやっていた頃の規模ではなくなっており、5ヶ 国――130万石に及ぶ広大な版図を持つ大大名になっている。住む地域も環境も歴史も違う 数万の人間たちを1つの号令の元に効果的に進退させるには、徳川家としての軍法を創設し、 この独自の軍法をもってすべての士卒を徹底的に訓練し、鍛え上げる必要があったのであ る。

 家康は当然のように、信玄とかつての武田軍団をその理想にした。
 信玄が率いた武田軍団の強さの秘密は、兵を指揮する武将たちの優秀さ、士卒一人一人の 強悍さもさることながら、信玄という天才が編み出した整然とした体系をもつ甲州軍法によ って士卒が骨の髄まで訓練され、軍勢の進退の巧みさ、素早さ、正確さが、精巧な機械のよ うであったことに寄るところが大きい。
 家康は、この甲州軍法をすっかり輸入し、必要なところは徳川家の家風に合うように改訂 した上で、徳川家の新軍法を編み出そうとしたのである。

 平八郎は、天正10年(1852)が終わろうとしているこの時期、同僚の2人と共にこの新徳川 軍法の確立という作業に没頭した。その間、家康は、軍勢を率いて信濃を走り回り、徳川家 の版図を1ヶ村でも増やそうと大汗をかいていた。

 ちょうどその頃、日本の中央では、羽柴秀吉という浮浪児あがりの男が、日本 史の流れを大回転させている。


 天正10年の6月に、信長が死んだ。秀吉はその頃、織田家の軍団長の3番手であり、近江 長浜でわずか12万石の領地を持つ小大名に過ぎなかった。
 しかし、この同じ秀吉が、天正11年が終わる頃には日本64州のうちの24ヶ国――620万石を 越える領地の王になり、大阪城というアジアにおける最大の巨城に座り、天下人と呼ばれる 位置にいた。
 この間、わずか1年半である。
 この期間の秀吉は、あふれるほどの人間的魅力と悪魔のような知恵を兼ね備えていたらし い。おそらく、神々しいばかりのオーラを放っていたに違いない。

 家康が、甲斐と信濃を傘下に収め、領国の5ヶ国を完全に掌握したころ、日本の中央では、 信長から「猿」とか「禿げネズミ」とか呼ばれてこき使われていた5尺にも満たない猿顔の 小男が、いつの間にか覇王の衣冠を身に着けていた。
 それはもう、いつの間にか、と言うしか仕方がなかった。
 これはまるで、秀吉が魔法でも使ったかのような世の変転であり、そうであったとしても 不思議とは思えないほど、その変化の速度は凄まじかったのである。

 秀吉は、明智光秀を「山崎の合戦」で討ち滅ぼすと、「清洲会議」で信忠の遺児 三法師に 織田家の家督を継がせ、その後見役になることで実質的に織田家を支配しようとした。さら に信長の次男 信雄と同僚であった丹羽長秀を味方に引き込み、滝川一益を滅ぼし、軍団長の筆頭 であった柴田勝家を「賤ヶ岳の合戦」で破り、信長の三男 信孝を破滅に追い込み、織田家を実 力で横領してしまったのである。
 それまで織田家の大将のものであった領国のすべてを、なしくずし的に織田 家の家来に過ぎない自分の名義に書き換え、それに反対しようとする内部勢力を残らず武力 で滅ぼした、と言えば解りやすいかもしれない。

 秀吉の悪謀の凄まじさは、自分の悪辣さ、非道さ、陰険さを、世間の誰にも気付かせなか ったことであった。これに比べれば、甲斐と信濃を横領して悦んでいる家康などは、子供のよ うだと言っていい。その手腕は、ほとんど神懸り的でさえあった。
 秀吉には、後世「人たらし」と言われたほどの言語に絶した人間的魅力があり、人をして 笑顔にさせてしまうような陽気さとひょうきんさがあった。世間は、その秀吉のやることで あれば、たとえば織田家を横領しても非道とは見ず、旧主である信長の遺児を自刃に追い込 んでさえも悪辣とは見なかった。むしろ、この陽気な天下人を歓迎したのである。


 秀吉が、「賤ヶ岳」の主力決戦で快勝し、北ノ庄城に柴田勝家を滅ぼし、天下人の座を決 定的にしたのが、天正11年の4月24日――信長横死からわずか11ヶ月後――のことであった。
 この報が浜松まで伝えられたとき、家康はたまたま食事中だったのだが、

「早や・・早や・・・!」

 と言ったまま絶句し、使っていた箸を取り落としそうになったという。

 羽柴秀吉という男に関する家康の観測は、また外れた。
 家康は、柴田勝家と秀吉の戦いは、長期化し、泥沼化すると読んでいたのである。いや、 そう願っていた、という方がより適切であったかもしれない。

 家康は、外面上は中央情勢には無関心を装っていたが、織田家の相続争いには強い関心を 持っていた。それも当然で、織田家を誰が相続するかによって、その後の徳川家の進むべき 道が大きく左右されるのである。
 家康としては、織田家がばらばらに分裂し、元亀年間のような群雄割拠の状態になり、分 裂した勢力同士が何年も潰し合いをしてくれることが理想であった。そうなれば、家康の軍 事力、影響力というのは、かつての武田信玄に似た位置を占めることになり、純然とした独 立不羈の大名であることができるであろう。しかし、織田家が再び強力な指導者によって統 一されてしまえば、これに対抗できるような勢力は日本にない。

(徳川と織田の同盟は、この場合どうなるのか・・・・?)

 ということも、家康はよく解らなくなっている。
 本来、同盟とは家と家が行うものであり、「清洲同盟」でいえば、徳川家と織田家の同盟 であった。しかし、織田家自体が家来によって乗っ取られようとしている今、秀吉の家来 の座に転落するであろう織田家と同盟の関係が続いてもしょうがない。織田家を横領した秀 吉とあらためて同盟を結ぶ、ということもできるかもしれないが、それは結局、強者の立場 である秀吉次第なのである。
 秀吉が織田家の跡を継ぐ形で、家康と、再び対等の同盟を結ぼうとするか。それとも、臣 従を迫って来るのか。あるいは、敵として攻めて来るか――?
 これは、秀吉という男をほとんど知らない今の家康には、まったく予測不可能なことで あった。

 しかし、家康は態度を決めねばならない。

(織田殿から“猿”と呼ばれておったあの小男に頭を下げ、臣従するか・・・・)

 ということについてである。
 武家の習慣というもので言えば、中央で成立した強大な勢力に臣従し、それに忠誠を誓い、 その武力の傘下に入れてもらうことで家と領地を守るというのが普通の考え方である。独立 姿勢を堅持する、というのは、一面でいつ攻められても文句が言えない、ということであり、 天下の兵を向こうに回して戦う覚悟をする、ということになる。

(戦って勝てるか・・・・?)

 と言えば、これはまったく見込みがない。
 秀吉が我が物にしつつある織田家というのは、あの中国王 毛利氏をも味方につけてお り、信長時代の織田家よりも遥かに強大になっている。その版図は24ヶ国――北陸、近畿、 中国など、ほぼ本州の西半分――に及び、最大動員力は、どう軽く見積もっても18万を越え るであろう。これに対する家康は、わずか5ヶ国の太守に過ぎず、兵を総ざらえしても4万 に満たない。
 さらに言えば、地方の小覇王というのは、地理・地形を利用し、敵をテリトリーに引き入 れて大いに悩ますことができたとしても、無尽蔵に繰り出される天下の兵にはついに勝てな い。それは、歴史が証明しているのである。

 しかし、臣従するにしても、すでに時期が遅すぎるかもしれない。

(今さらのこのこ出て行ったところで、秀吉はわしを歓迎はしまい・・・)

 と、家康は思った。
 家康は、秀吉政権の樹立になんの貢献もしていない。明智光秀退治にも、柴田勝家との戦 いにも一切参加しなかった家康を、秀吉が喜んで迎えるはずがなく、それどころか家康が上 方へ出て行けば、秀吉はこれ幸いと家康を殺し、その結果浮き上がってくる家康の領地――東 海5ヶ国を奪い取ってしまうかもしれない。

(・・・・おそらく、そうなる・・・)

 家康は、秀吉という男を知らない。こう考えたことも、家康らしい臆病さと慎重さの表れ であった。

(・・・・・であれば、戦うほかない・・・)

 5ヶ国の兵に一枚岩の団結を植え付け、後方の北条氏との同盟を蜜にし、諸国の反秀吉勢 力と手を結んで、やがて攻めて来るであろう敵を迎え撃つしかない。

(・・・・生き残れるだろうか・・・?)

 という疑問が、家康の脳裏をかすめた。
 しかし、いまは、生き残るための手を打ち続けるしかない。




65 へ

戻る


他の本を見る

カウンターへ行く


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp