歴史のかけら


合戦師

63

 平八郎は、しばしば自ら小部隊を率いて斥候に出、北条側の様子を窺った。

(想像以上の軍容じゃ・・・)

 小高い丘から若御子を遠望すると、無数に乱立する旗が風になびく姿は、壮観そのもの であった。
 4万を越える大軍を動員できる大名は、信長存命当時の織田氏をのぞけば日本に北条氏を おいて他にない。しかも、北条氏はこれでもまだ全力の出撃とはいえず、国内に多くの予備 兵力を残してきているのである。関東に250万石を越える勢力を、80年にわたって維持してき た超大国である。その最大動員力というのは、7万を軽く超えるであろう。

(しかし、見込みがないこともない・・・)

 と、平八郎が思うのは、敵陣になんとなく厭戦のムードが見て取れることと、敵が長途の 遠征をしてきているということであった。
 北条勢は、上杉氏と戦うために北信濃へと軍を発した。そこから急遽反転して甲斐へとな だれ込んで来たわけだが、これが敵にとって予定の軍事行動であったはずがなく、甲斐で戦 うための準備は十分とは言えないであろう。しかも兵たちにとっては、やっと上杉氏との戦 が終わり、故郷へ帰れると思った直後の次なる軍事作戦である。長途の遠征で疲れている士 卒の士気は、大いに鈍っているに違いない。
 さらに言えば、北条勢は大軍であるがための弱点を抱えている。

(これほどの大軍を維持するには、途方もない糧食が必要になる。何ヶ月も保つわけがな い・・・)

 ということであった。
 甲斐の地侍たちがことごとく家康に信服し、徳川家に味方している以上、北条勢は食料など を現地調達することができない。ゲリラ戦術で敵の後方を撹乱し、補給を困難にしてやれば、 敵は必ず悲鳴をあげるであろう。

(殿は、それも織り込み済みなのだ・・・)

 平八郎は思った。
 家康の取った作戦は、見事と言うほかなかった。


 家康は、まず服部半蔵に命じて、甲府やさらに南方の勝山という古城跡に徳川家の旗を多数 押し立てさせ、さも大軍勢が駐屯しているがごとく偽装させ、徳川方の本営は後方にあり、 大軍勢が背後に控えていると宣伝させた。多数の伊賀者を配下に抱える服部半蔵は、この手 の偽装工作と情報工作にうってつけの男であった。
 さらに家康は、志願兵である甲斐の地侍たちをそのまま遊軍にし、小部隊でのゲリラ作戦 を展開させ、北条勢の後方撹乱に使った。敵の補給線を脅かすことはもちろん、小さな砦な どに奇襲や夜襲を掛けさせ、小戦をさせて敵に軽微な被害を与え続けた。ようするに、敵の首 脳部の神経を苛立たせるためである。
 また、伊賀者や甲賀者を使って深夜に敵陣へと忍びこませ、火事騒ぎを起こさせたり馬を 暴れさせたりして敵陣を混乱させた。北条勢の陣屋では、夜はろくに眠ることもできず、 士卒の間では苛立ちと焦燥が潮が満ちるようにして高まりつつある。
 家康は、北条氏の背後――常陸(茨城県)の佐竹氏や下総(千葉県北部)の結城氏に飛脚を送 り、北条氏の後方を脅かしてくれるよう依頼することも忘れていない。敵の敵は、味方とい うわけである。

 これらは小細工に過ぎないが、確実に北条側の首脳部に「嫌な感じ」を植えつけて いった。

 家康は、信濃から合流した3千の軍勢を敵陣の東側に陣取らせ、自ら率いてきた部隊から も別隊を出して敵陣の西側に配置し、敵を3方から包み込むような体勢を作った。これは もちろん擬態に過ぎず、包囲しようにも少ない兵力をさらに分散させてしまっているため、 実際に戦になれば数時間で壊滅させられてしまうような状態なのだが、ようするに家康は、 徳川勢が敵の予想以上の大軍であるかのように見せかけた。

 北条方の首脳部は、家康が動員できる人数は2万より遥かに少ないはずであると計算して いた。彼我に圧倒的な戦力差があると踏んだからこそ、一撃の元に粉砕できると意気込み、長 駆して北信濃から甲斐へと入って来たのである。
 それが、どうもおかしい。
 徳川勢は予想以上に兵数が多そうだし、意気が盛んでしきりにちょっかいを出し、こちら を挑発してくる。

(・・・家康は、よほどこの戦に自信をもっておるらしい・・・)

 と、感じ、用心深くなり、動かなくなった。

 家康に、自信などはない。
 敵と決戦になれば手もなく粉砕されるであろうということは誰よりも解っており、現に家 康は、毎日下腹が痛くなるほどのストレスを感じ続けていた。しかし、弱気を見せるわけには断 じていかない。ここは、相手が折れるまでは我慢するしかないのである。

 両軍が対峙するうち、やがて7月も過ぎ、8月に入った。戦は小競り合いのみに終始し、 北条勢は地理を知り尽くす甲斐の地侍たちによるゲリラ作戦に手を焼き、苛立ち切っていた。
 予想以上に対陣が長引いてしまった北条側は、やむを得ず本国に援軍を要請し、別働隊を 東から甲斐へ侵攻させ、これを家康の背後から襲い掛からせ、挟み撃ちで一気に敵を粉砕し てしまおうとした。
 8千という大軍をもって編成されたこの別働隊は、御坂峠を越えて甲府へと迫った。
 この情報は、甲斐の地侍らを通じてただちに家康の元まで伝えられた。

(まずい・・・!)

 家康は焦った。
 甲府には、鳥居元忠に2千の兵を預けて背後を守らせていたのだが、とてもこれを救援に 行けるだけの余裕はない。北条の本隊を包囲している部隊を引き抜けば、敵が得たりとばか りに攻勢をかけてくるかもしれず、そうなれば圧倒され、負けるほかないのである。

「なんとか足がらみをし、しばらく食い止めよ!」

 家康としては、鳥居元忠にそう命じるしかない。
 しかし、鳥居元忠は、2千の部隊で4倍の敵に向かって突撃を掛け、これをかえって打ち 破り、見事に大壊走させた。この局地戦を「黒駒の合戦」と言うのだが、この敗戦が北条側の 士気に決定的な悪影響を与えることになった。

 ついに、北条側から和議の声が出始めたのである。
 家康は、崩れ落ちるほどに安堵した。

 和議の使者は、北条氏直の叔父で、伊豆韮山城主 北条氏規(うじのり)という男であっ た。
 家康と、この氏規には、奇縁がある。昔、家康がまだ今川家で人質生活を送っていた頃、 氏規も人質として今川家におり、家康の人質屋敷と氏規のそれが隣同士だったのである。 幼いころの家康は、この氏規と共に鶫(つぐみ)を獲ったりして遊んだ経験さえ持っており、 そういう縁を考慮した北条氏は、氏規にわざわざ徳川領の駿河に最も近い伊豆の韮山を 任せ、徳川家との交渉役をやらせていた。

 家康は、講和交渉のあいだ、この旧友に一度も会わなかった。交渉はすべて榊原康政にや らせ、表にはまったく出なかったのである。出れば、旧知の間であるだけに交渉に情が混じ るかもしれず、さらには総大将が出るというそれだけで、少数軍の弱味を敵に見せることに なると考えてのことであった。
 家康は、なにより政略感覚に長けていた。

 北条側から提示された講和の条件は、

・甲斐と信濃の切り取りは、徳川氏に任せる。そのかわり、関東八州はこれまで通り北条氏 が治めるので、それには手を出すな。
・これを機会に、以前の同盟の結び目を強くしたい。ついては家康の娘を北条氏直の嫁にし、 両家を縁戚にしたいが、このことはどうか?
・真田家が徳川につくか、北条につくかは真田昌幸に任せるが、もし徳川に従うなら、西上 野(群馬県西部)の沼田の領地は北条のものとし、真田には徳川から代わりの土地を与える。

 というもので、驚くほどの好条件であった。殊に、大国意識の強い北条家から、 新興大名に過ぎぬ徳川家へ婚姻を結びたいと言わせたことは、巨大な収穫と言っていい。
 家康は、飛びつくような気分で快諾した。

 しかし、いざ調印という段階になって、北条側がにわかに大国風を吹かせ始めた。
 この和議は、北条側から言い出したものであり、北条氏直自身が徳川方まで出向いて来、 調印するのが筋であった。しかし、北条側に一向にその気配がなく、かえって家康に出て 来いと言わんばかりに尊大な態度をみせているのである。
 双方がそのままの状態で日を送るうち、焦れてしまったのか北条方では新たな砦などを 築き始め、どうにも始末が悪い。

 家康の凄まじさは、これに激怒してみせたことであった。

 家康は、

「今回の和議は、別に当方の望んだものではない。しかし、旧き友である北条氏規殿のお申 し越しゆえ、不本意ながら承知したのである。ところが、その後の北条側の態度はどうか。 調印を延期し、新たな砦を築くなど、はなはだ不審である。この上は、いっそ和議の話を水 に流し、運を天に任せて潔く一戦を交え、勝敗を決したく存ずる」

 という挑戦状ともとれる書状をしたため、これを叩き付けるようにして北条氏規へと送り つけたのである。
 これは、家康の賭けであった。家康は、決戦をすれば当方が負けるということを誰よりも 知り尽くしていた。それでもなお、このような挑発的な態度に出たのは、相手の総大将であ る北条氏直という小僧への揺さぶりであり、捨て身の脅しであった。

 この賭けは、家康の勝ちに終わった。
 北条側はにわかに態度を軟化し、北条氏直は氏規を通じて家康に詫びを入れてきたので ある。
 これで、北条側は完全に立場が下手になった。
 和議の交渉は家康の思惑通りに進み、10月29日、ついに調印された。北条勢は、約定通り ほどなくして陣を払い、北へと去っていったのである。

 家康は、誰よりも深い安堵のため息をついた。


「1万の軍勢で、5万の北条を去らせた!」

 という家康の調略の腕ほど、三河者たちを驚かせ、甲斐の人々を狂喜させたものはな い。この噂は瞬く間に全国を駆け巡り、「徳川家康」という男の像を、さらに巨大なもの にしていった。

(我が殿の見事さよ・・・!)

 平八郎は、涙が出るほど嬉しく、誇らしかった。




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