歴史のかけら


合戦師

61

 信長から甲斐一国の支配を任されていた河尻秀隆は、激怒した。
 その原因は、家康の元から突然やってきた、使者であった。

「主君 三河守(家康)が、肥前殿(河尻秀隆)の相談に乗ってさしあげよ、と申されましたゆ え、こうしてまかり越しました次第でござる」

 本多 百助 忠俊と名乗ったその無愛想な男は、鸚鵡のようにこの言葉を繰り返すのみで、 何を聞いても要領を得ない。
 河尻秀隆は、本気で不愉快であった。

(こんな馬鹿げた話があるか!)

 と、思った。
 相談役といえば、軍監――つまり監視者のことであり、実質的な指揮者のことである。 家康は、自分に、この本多百助という男の指揮下に入れというのか――?
 河尻秀隆といえば織田家では5人の軍団長に次ぐ重臣であり、信長の嫡男 信忠の後見役を 任されたほどの男であり、甲斐一国の国主である。その自分が、なぜ家康などの指示に従わ ねばならぬのであろう。自分は家康に臣下の礼を取った覚えはなく、家康に保護を求めた覚 えもない。織田家の番犬に過ぎぬ家康が、何をとち狂って自分に主君面をしているのか――!!

(・・家康め、犬かと思うておったら、とんだ狸であったわ!)

 律儀、篤実を売り物にしていた家康が、信長が死んだ途端、豹変して――というよりは本性 を現して――甲斐へ野心を抱き、織田家の領土をさらい取ろうとしているとしか思えな い。20年も世話になった織田家に対して、後ろ足で砂でもかけるようなものではないか。

(だいたい、この男は何だ!)

 河尻秀隆は、下座で控える百助を睨み据えた。
 自分を調略し、徳川家へ取り込みたいと思うなら、莫大な手土産――寝返りの恩賞――を持 って家康自身が出てくるか、織田家の外交担当者であった家老の石川数正あたりを寄越すの が筋であろう。この本多百助とかいう男は徳川家の重臣ですらなく、まともに謀略外交がで きるような男ではとてもない。

(せいぜい、槍働きの男だ・・・)

 家康がわざわざこういう男を寄越すには、何か裏があるに違いない。

(・・・この男、あるいは刺客か・・・?)

 と、河尻秀隆は思った。
 ありそうなことである。自分が死ねば、甲斐は国主不在になり、家康は楽々とこれをもの にすることができる。

(このわしが、やすやすとその手に乗ると思うてか・・・!)

 河尻秀隆は、家臣に命じ、百助を逆に謀殺することにした。


 百助は、休息の部屋を与えられ、しばらくそこで待つように言われた。
 茶菓さえ出してもらえなかった。

(それも、当然か・・・)

 いくら百助が愚直な男でも、家康の主命の無茶さと、河尻という男の激怒している表情く らいは解る。
 百助は、家康から、「新府城に赴き、河尻殿の相談に乗ってさしあげよ」という命令しか 受けていない。細かな内容は――家康はそういうことが多かったのだが――何一つ指示され ていないのである。
 百助は、家康の主命をどう解釈して良いか解らず、家中の知恵者と呼ばれる人物を尋ねま わって教えを乞うた。「河尻を殺し、新府城を奪い取ってしまえということに違いない」と 言う者もいれば、「河尻殿に合力し、甲斐を平らかにせよ、ということであろう」と言う者 もいた。中には、「死ね、ということかもしれぬ。お前が河尻殿に殺されれば、殿はそれを 口実に弔い合戦を起こすことができ、甲斐を我が物にできる」と言う者まであった。
 百助の選択肢は確かに広がったが、結局どれを選択すべきかは解らなかった。

(・・・しかし、それが主命じゃ。侍は、主命に従えば良い)

 百助は思った。
 百助がどんな解釈をするかということも、主君である家康はすでに見越しているのであろ う。ならば、ジタバタする必要はない。

 そう思って姿勢を正して座っていると、突然三方の襖が蹴倒され、槍を握った男たちが 殺到した。

「本多殿、主命でござる! 恨みはないが、御免!」

 叫びと共に数本の槍が突き出され、立ち上がり、抜刀しようとした百助の身体を貫いた。

「貴様らぁっ!!」

 百助は絶叫し、自らの身体を貫通した槍を掴み、力任せに引き抜こうとしたのだが、その 瞬間にも胸を、腿を、腹を次々と刺し貫かれ、断末魔の叫び声も凄まじく、絶命した。


 家康の使者が殺されたという話は、たちまち甲斐の国中に伝わった。というのも、百助の 従者であった男が、百助の断末魔の叫びを控えていた庭で聞き、城外へ逃げ延びたのである。 彼はすぐさま岡部正綱までこの一大事を伝えた。

「百助殿が、殺されたか!」

 岡部正綱は、知恵者である。ただちにこの変事を政治に利用した。

「徳川家の重臣である本多百助殿が、河尻めに殺された申したぞ!」

 と、甲斐中の地侍たちに触れ歩き、騒ぎ回った。百助は重臣と言えるような身分ではなか ったが、事態をより深刻にするために、この知恵者は抜かりなく誇張したのである。

 これを聞いた甲斐の地侍たちは、鬱積していた感情を爆発させた。

「もはや、誰に遠慮をすることもないぞ! 河尻めは、徳川殿の敵じゃ!」

 本多百助という「徳川家の重臣」の仇を討ち、河尻の首を取ることは、これ から随身する徳川家への手土産にさえなるであろう。彼らは勇躍し、国中で一斉に蜂起し、 たちまち万を越える一揆軍が出来上がった。
 こうなってしまっては、河尻秀隆としてもどうすることもできない。彼の手持ちの軍勢は せいぜい3千にも満たず、信長横死から一月と経っていないこの時点では織田家は大混乱の 中にあり、援軍はどこからも来ないのである。なんとか甲斐から逃げ出そうとしたものの、 地理に精通する地侍たち相手では逃げ切ることもできず、数日で手勢は壊滅し、捕らえら れた。
 甲斐の人々は、織田家と河尻秀隆という男をよほどに恨んでいたらしい。逆さ磔にした状 態で鋸引きにして河尻の首を落とし、そのまま逆さまに埋めてしまったという。


 家康は、甲斐から遠く離れた浜松で、これらの報告を聞いた。

 家康は当然ながら、「百助の死」をその視野の中に入れていた。十のうち、八か九までは 生きて帰って来られないであろうと知っていて送り出したのだが、

「わしが河尻などのところへ行かせたばかりに、惜しき男を死なせてしもうたわ」

 と言って百助の死を悼み、涙を流したという。
 それは、「人の主」として、当然流さねばならない涙であった。


 6月の末、家康は大久保忠世らに軍勢を預け、「一揆騒動を鎮撫し、人心を安んずる」と いう名目で甲斐へと派遣した。
 甲州人たちは徳川軍を待ち望んでいたわけであり、一揆は瞬く間に沈静化した。
 甲斐の地侍たちは、争って徳川家に名簿(みょうぶ)と人質を差し出し、臣従を誓った。

 家康はこうして、甲斐を手に入れた。


 甲斐で一揆が起こり、国主である河尻秀隆が攻め殺されたという噂は、隣国の信濃へすぐ さま伝わった。
 信濃は、甲斐のように一国の国主というものがなく、織田家の代官たちによって分割統治 されていたのだが、この噂を聞き、代官たちは恐怖した。

(明日は我が身じゃ。これでは命が幾つあっても足りぬ・・・!)

 と、任地である信濃を捨て、勝手に本国に帰ってしまった。
 信濃の地侍たちは、困惑した。
 この時代の小勢力と言うのは、常に良き保護者に飢えている。自分たちに害を加えず、利 権を保護し、領地を守ってくれる大いなる存在を、幼児のような心理で渇望しているのであ る。隣国――かつて武田家に属していたころの本国――である甲斐の地侍たちがことごとく 徳川家へ随身してしまったのを見て、徳川領に隣接する南信濃の豪族たちは、争って家康へ 使者を送り、

「どうか我らを徳川殿の傘下に入れて頂きたい」

 と懇請し、自発的に人質まで送ってきた。
 家康は、「甲斐のごとき騒乱を防ぎ、人心を安堵させる」という名目で3千ほどの軍勢を 南信濃へ進駐させた。
 こうして、結局一度の戦もすることなく、家康は信濃の大半までも手に入れてしまった のである。

 徳川家は、三河、遠江、駿河に加え、甲斐と信濃を手に入れたことで130万石を越える身 代となり、4万近い兵力を保持し、全盛期の武田家にも匹敵する大勢力になった。


(・・・・・これが、謀略というものか・・・!)

 家康は、この甲信併呑で、権謀外交というものが持つ凄まじさをまざまざと知った。




62 へ

戻る


他の本を見る

カウンターへ行く


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp