歴史のかけら


合戦師

60

 家康は、さっそく岡部正綱を甲斐へと送り込むことにした。

 出発に際して、家康は、

「梅雪入道殿は、別れ際、わしの手を取り、『我が身になんぞあったときは、後のことを よろしくお頼み申す』と申されておった。わしは、穴山家のためであれば、できる限り のことを致すつもりでおる。後家殿には、くれぐれもよしなに伝えよ」

 と、言い含めた。

 岡部正綱は、今川、武田、徳川と渡り歩いてきた苦労人であり、それだけに時勢に敏感な 男でもある。すぐさま家康の意図に気付き、自分の役割を自覚した。

「我が殿は、この乱世に珍しいほどの信義の人にて、その律儀さは、かつて敵として戦われ た皆さま方でさえよくご存知のことでございましょう。人を裏切るということがなく、まさ に頼るに足る男でござりまするよ」

 と、梅雪の後家――出家して見松院と号していた――に説き、穴山家の重臣たちに説い た。
 見松院は、家康の言葉を厚意からのものと信じ、これをことのほか喜んだ。

「なにぶん、世が騒擾と致しております。徳川殿に後ろ盾となって頂ければ、これほど心 強いことはございませぬ」

 と、家康への随身を決め、子の信治には徳川家に属すよう勧めた。
 穴山家の重臣たちも、飛びつくようにして靡いてきた。この時代の大名の重臣という のは、みなそれぞれが小豪族の族長であり、彼らは梅雪という「棟梁」を失って心細く思っ ていたところだったのである。

「わしらとしても、ぜひ徳川殿のお手に属したい」

 と、自発的に言い始めた。
 岡部正綱は、毎夜のように人に会い、酒宴を設けては、

「いずれ遠からず、我が殿が甲斐にお馬を入れなさるでございましょう。皆さま方のことは、 わしから殿によしなに伝えておきまする。それまでは、くれぐれもご辛抱なされよ」

 と、豪族たちを懐柔して回った。

 岡部正綱の巨摩郡への調略は想像以上の大成功に終わったのだが、これが思わぬ波及効果を 生んだ。噂を聞きつけた甲斐中の地侍や豪族たちが、餌に集まる魚のように群れ集まって来 て、正綱に面会を求め、家康への取り成しを懇請し始めたのである。

 甲州人たちにとって、家康とは特別な存在になっていた。
 武田家滅亡のとき、信長が甲州人たちを許さず、多くの者を虐殺した中、家康だけは10年 以上にも渡って戦い続けた敵である甲州人に対して寛容で、逃げてくる彼らを匿い、これ をすべて召抱えたということは先にも触れた。
 家康は、武田信玄を尊敬し、彼が編み出した軍法や領国の統治法などを学ぼうとし、真似 ようとさえしていた。戦国最強と呼ばれた甲州兵に対しても強い憧憬の念を持っており、召 し抱えた甲州人をすべて井伊直政に預け、その軍装をわざわざ赤で統一させ、「井伊の赤備 え」という最強部隊を作るほどの惚れ込みようであった。
 これらのことは、当然ながら甲州人たちの耳に入っている。
 甲州人たちにとって、武田信玄とは神にも等しい絶対の主であり、「赤備え」とは戦国最強と 謳われたかつての武田軍団の象徴であった。その意味で、この家康のやり様ほど自分たちの 誇りを満足させてくれるものはなく、家康ほど親しみが持てる大将というのはなかったの である。

(同じ命を預けるなら、徳川殿にこそ!)

 という気分が多くの甲州人にあり、甲州中がたちまちのうちに徳川一色に染まったの だった。


 甲斐の豪族たちへの根回しが済んだとはいえ、それだけで甲斐が家康のものになったわ けではない。甲斐の国府である新府城にはまだ、信長から甲斐一国の支配権を与えられた 河尻秀隆という男が残っている。

 河尻秀隆は、信長の父 信秀の代から織田家に仕える武断派で、このとき56歳。若い頃は 黒母衣衆(信長の親衛隊)として各地を転戦して多くの武功を挙げ、信長の嫡男 信忠が成人 してからは、その補佐役として信忠軍団の中枢を担い、主として武田家と戦ってきた。信長 は、「河尻を父とも思い、その指示に従え」と信忠に諭したというから、いかにこの男を 信頼していたかが解るであろう。

(あの河尻という男さえ居なくなれば・・・・)

 と、家康は思うものの、こればかりはいかんともし難い。
 そう思って過ごしているうちに、また弥八郎がふらりと現れた。

「織田の河尻秀隆という仁は、甲斐ではずいぶんと恨みを買うておるようでございます なぁ」

 茶飲み話でもするように、弥八郎は気軽な口調で言った。
 このことは、すでに家康の耳にも入っている。

 河尻秀隆は、甲州を支配するにあたって、武力と恐怖をもって臨んだ。武田勝頼の時代から 連年に渡って重税に泣かされ続けている甲州の村々に対してそれ以上の重税を課し、反発し、 一揆を起こそうとする地侍には軍勢を派遣し、徹底的な武力弾圧を行ったのである。主であ る信長が甲州人に容赦がなかったこともあり、河尻秀隆は何の疑問も持たずその路線を引き 継いだのであろう。
 当然のことだが、甲州人たちは河尻という織田家の代表を憎悪し抜いており、隙あらば一 揆でも起こして殺してやりたいと常に言い合っていた。
 そこに、「本能寺の変」である。
 信長という巨大な後ろ盾を失った河尻秀隆は、今や甲州人たちにとって格好の標的にな っていた。

「甲斐は、いつ騒ぎが起きても不思議でないほど不穏な状態でありまするそうな」

「そのようじゃな・・・」

 家康としては、甲斐で一揆騒動が起き、河尻秀隆が殺されてしまうか、甲斐から逃げ出すか してくれればこんなありがたいことはない。
 しかし、家康自身に自覚はなかったのだが、この甲州人の暴発を抑止しているのが、皮肉 にも家康という存在であった。
 甲州人たちは、河尻という信長が派遣した統治者と織田家の連中を憎悪し抜いている。し かし、織田家に対して一揆を起こすということは、この場合、織田勢力である家康の敵に回 るということにもなってしまうのである。彼らはみな家康の傘下に入りたいと心から 念じているのだが、一揆を起こしてしまえば家康の怒りを買うかもしねぬと恐れ、それを 躊躇していた。
 まさに、袋小路のような状態である。

(弥八郎め、また何か知恵を持ってきおったのか・・・?)

 家康は、弥八郎と話をするのが面白くなり始めていた。

「河尻殿は、さぞやお困りでございましょう。このような非常の時でございますから、殿が 河尻殿にお力を貸してさしあげれば如何でございましょうや?」

「・・・なに?」

 家康は、弥八郎が言っていることが解らなかった。家康は、河尻という織田家の執政官を どうにかして甲斐から追い出したいのである。その男を、助けてやれとはどういうことであろ う。

「なんでもわしに相談せよ、と、河尻殿に言うてやるだけでよろしゅうござる」

「・・・・・・・・・・ふむ」

 河尻秀隆は、信長の信頼厚かった武断派の武将で、織田家では譜代も譜代、信長の父の代 からの忠臣である。いくら信長が死んだとはいえ、織田家から目下の徳川家に鞍替えするよ うな気にはとてもならないであろうし、これを取り込むことなどできるとは思えない。家康 が誘いを掛けたところで、無駄であろう。

(・・・弥八郎も、その程度か・・・)

 と、家康は思ったのだが、次の弥八郎の言葉を聴いて、絶句した。

「ご使者は、下手に知恵の回る者では困りまするな。忠烈で、愚直な者がよろしかろうと存 じまする。我が本多一族の、百助殿などは如何でございましょう」

 本多 百助 忠俊という男である。剛勇として知られ、家康のためなら水火も辞さぬという 三河者の典型のような愚直な朴強漢で、戦場でこそ命を捨てても働く見事な男だが、とても 権謀外交ができるような知恵者ではない。

「馬鹿な。そんなところへ百助をやってみよ。下手をすれば殺されてしまうではないか!」

 家康は、即座に言った。
 河尻秀隆の元に家康から相談役を送るということは、いわば徳川家から織田家の大名へ 軍監を派遣するということと同じなのである。
 信長が生きていた頃――ほんの十数日前までの状況でいえば、織田家と徳川家は同盟関係で はあったものの、地力の違いが隔絶しており、織田家の方が徳川家よりも遥かに格が上であ った。軍監というのは、本国から隷属している勢力へと派遣される監視役のことであ り、家康が一方的に甲斐に軍監などを送り込めば、織田家においては5大軍団長に次いで高 いポストにある河尻秀隆は、恩に感じるどころか間違いなく激怒するであろう。そればかり か、家康の甲斐への野心までが露見するということになってしまう。
 よほどの外交能力を持つ者でなければ、この使者は生きて帰ってさえ来られないであろ う。
 そこまで考えて、家康は頓悟した。

(河尻に、百助を殺させよ、と言うのか・・・・・!?)

 家康は、沈黙した。
 弥八郎は表情を消し、瞑目している。

 河尻秀隆が、家康の使者を殺したとすればどうであろう。
 それは、河尻の方から家康に敵対するという宣戦布告にも似た行為ということになり、そ うなれば甲斐の豪族たちは、得たりとばかりに家康に味方し、河尻に対して堂々と敵対するで あろう。彼らはすぐさま国中で暴発し、一揆を起こし、河尻を攻め殺そうとするに違いない。
 河尻は、確実に甲斐に居られなくなり、運が悪ければ一揆勢に殺される。
 甲斐一国が、労せずして家康のものになる。

(・・・百助が哀れじゃ・・これは、人の主のすべきことではない・・・)

 と、家康は確かに思うのだが、

(しかし、戦をすれば、半日で数百、数千の郎党が死ぬ。甲斐一国を、たった1つの命で 購えるなら、安い・・・)

 とも思う。


 国盗りの手段に、戦争しか知らなかった家康という男が、徐々に変わり始めようとし ていた。




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