歴史のかけら


合戦師

59

 信長を殺して天下を握った明智光秀が、わずか10日ばかりで羽柴秀吉によって滅ぼされて しまったことは、家康にとって大きな計算違いであった。

(・・・しかし、このまま収まることはあるまい・・・)

 と、家康は見ている。
 羽柴秀吉は、織田家の一軍団長に過ぎず、信長の遺児たちが健在である以上、織田家の家来 であるという現実は動かない。秀吉がそこを飛躍し、織田家を乗っ取ろうとするならば、 信長の遺児たちや、他の軍団長たちと必ず衝突を起こし、一波乱もニ波乱も起こるに違いな い。

(・・・今は、とにかく地力を増すほかない・・・)

 中央でどういう政変が起ころうと、それは家康には関係のない話であった。

(兵を養い、馬を肥らせ、槍を鋭くし、弓を鍛え、いかなる勢力にも対抗できるだけの実力 を備えるのだ・・・)

 おあつらえ向きに、領国が路傍に捨てられている。
 甲斐と、信濃である。

 武田の領土であった甲斐と信濃が、「信長の死」によって宙に浮いているということは先 にも触れた。家康は、三河に帰り着いて、ようやくそのことに気がついた。このままこれを 放置すれば、北条氏と上杉氏がすぐさま拾ってしまうであろう。それは、面白くない。

(なんとか甲斐と信濃を、徳川家のものにする方法はないものか・・・)

 家康は、そのことを考え続けていたのだが、どうすれば良いものか見当もつかなかった。
 一番簡単な方法は、軍勢を派遣し、甲斐と信濃の地侍や豪族を、実力で徳川の傘下に入れ てしまうことであった。これは、すでに上杉氏が北信濃で始めようとしているらしく、家康は 間者からそのような報告を受けている。
 しかし、家康としては甲斐や信濃に自ら乗り込んで行くわけにはいかない。
 この両国は、名目上はあくまで「信長のもの」であり、現在は織田家から派遣された代官 によって統治がなされている。つまり、これを力で奪った場合、織田家から領土を簒奪する ことになってしまうのである。それは言い換えれば、信長が死んだのを良いことに、家康が 織田-徳川の20年の同盟関係を一方的に破り捨て、織田家の領土を侵略する、ということと同 じであった。これは、道義的な部分で家康には抵抗があったし、なによりこれまで築き上げて きた「徳川殿は律儀で、信義に厚い」という世間の声望を地の底にまで落とすことになる。

(あくまで穏便に、なしくずしの形でそれをせねばならぬ・・・)

 これは、至難であった。
 家康がやろうとしていることは、どういうオブラートで包んでも、実質的には「織田家の 領土を奪う、あるいは盗む」という犯罪にも近しい行為であり、そのことは家康自身も自覚 していた。だからこそ、やる以上はあくまでも良識に照らして世間の誰からも非難が出ない ような形で、美名の下に行わねばならない。

 そのためには、「陰謀」が必要であるだろう。

(この手の知恵は、三河者には向かぬ・・・)

 それが、家康の悩みの種であった。
 家康が愛する三河武士たちは、素朴で頑固で実直で律儀な者が多い。主人には犬のように 忠実で、家康のためなら喜んで腹でも切るという忠烈の者ばかりだが、陰謀――権謀術策に 長けた者がいない。

(しかし、手をつかねておれば、上杉と北条にもっていかれよう・・・)

 北条氏も上杉氏も、信長の横死の直前に、すでに織田家とは交戦状態に入っており、なん の問題もなく甲斐にも信濃にも軍勢を派遣できる。
 家康は、焦りを感じ始めていた。


 ところで、「三河一向一揆」のくだりで、本多 弥八郎 正信という男がこの物語に 登場した。
 その弥八郎が、「伊賀越え」の直後、家康の元に帰参を果たしている。

 弥八郎は諸国を放浪していたのだが、家康と徳川家のことは常に気にしていたらしく、た とえば「姉川の合戦」のときなどは、槍を抱えた下僕1人を従えた姿で姉川に現れ、

「どうか、ご陣の端にお加えくだされ」

 と、大久保忠世の元まで願い出、合戦に参加したりしている。
 弥八郎は武勇には疎い男で、華々しい活躍をすることはできなかったのだが、家康は、 その心根を嬉しく思ったりしたものであった。

 弥八郎は、「本能寺の変」を知り、そのとき家康一行が堺を漂白していると聞き、矢も盾 も堪らなくなって三河へ帰ってきたらしい。
 幸い家康は、無事に三河へと帰りつくことができた。
 弥八郎は、これを機に、大久保忠世に取り成しを頼み、徳川家への帰参を願い出たのだっ た。

「弥八郎、戻ったか!」

 家康は、即日、帰参を許した。
 しかし、困ったのはその処遇である。
 弥八郎は家康に背き、徳川家を出奔した。その罪は許すとしても、これまで徳川家に何の 貢献もしていないこの男に、再び元の領地を与え、役職を与えるわけにはいかない。それで は、家中の誰もが納得しないのである。

「わしは、また殿の鷹匠にして頂ければ、それで結構でござる」

 弥八郎は、よく日焼けした皺深い顔で笑った。
 弥八郎としても、今さら徳川家の武将たちの中に混じってゆくつもりはない。徳川家にこ れまで何の貢献もせず、血を流すことも汗を流すこともしてこなかった弥八郎の言葉など、 命を的に働き続けてきた他の武将たちにとってはどれほどの価値も持たないであろう。それ よりは、家康と直接に、しかも気軽に話ができる「鷹匠」という身分である方が、よほどに 良い。

 家康は、人の心に敏い。弥八郎が持つ、徳川家の他の武将に対する引け目のようなものを、 敏感に感じ取っていた。

「あい解った。われの好きなようにせよ」

 弥八郎はこうして、「家康の話し相手」という奇妙な地位を得た。


 家康が秀吉からの戦勝報告を受け、鳴海から浜松に帰ってほどない頃のある日、家康が浜 松城の馬場を歩きながら、甲斐と信濃の経略について考え事をしていると、腕に鷹を留めた 弥八郎が現れた。

「殿は、『伊賀越え』の折、穴山梅雪殿とご同道なされておられたそうでございますな」

 ふと思い出したような口調で、弥八郎が聞いた。
 家康は、山口秀康の山口城で休息しているとき、すでに梅雪の訃報を得ている。

「うむ。梅雪殿には、無念なことであった。わしと最後まで同道しておれば、あるいは生き て帰れていたやも知れぬ・・・」

「左様でございましたか。しかし、梅雪殿の後家殿や、そのお子らは、今頃さぞ心細い想い を致しておられるでございましょうなぁ」

(・・・・弥八郎め、なんぞ言いたいらしい・・・)

 家康は、水を向けてやった。

「それ、よ。わしも、密かに苦にしておる」

「一度、お悔やみのご挨拶でも致しておけば如何でございましょう。殿は、生前の梅雪殿と 最後まで共におられた。これも、何かのご縁でございます」

「ふむ・・・・梅雪殿の奥方殿に、か?」

「先方も、殿が後ろ盾になってくださると聞けば、どれほど心強く思われるか知れませぬで しょう。なにしろ、織田様がお亡くなりになり、甲斐もずいぶんと不穏な状況でございまし ょうから」

「・・・・なるほど、な。そう致そうか・・・」

 家康は、聡い。すぐに弥八郎が言わんとしていることに気がついた。
 梅雪の妻というのは、あの武田信玄の娘である。甲州人にとって信玄とは神のようなもの であり、その娘といえば神女(かんなぎ)のように尊貴な存在であろう。それを味方に抱き込 み、梅雪の領土である甲斐の巨摩郡一帯を徳川色にしてしまえと言っているのである。

「ご使者のお役目は、岡部正綱殿こそ、適任かと思われまする」

(・・・・・・・あっ!)

 これには、家康も驚いた。
 「岡部党」と呼ばれる一族が、源平の昔から駿河、甲斐、遠江の一帯に広く土着してい る。岡部正綱は、この岡部一族の族長とも言うべき男であった。若い頃、まだ勢いが盛ん だった今川家に仕え、これが滅びると信玄に招かれ、甲斐に移住して武田家に仕えた。武 田家が信長によって滅ぼされると、今度は家康の招きに応じ、徳川家に鞍替えした。
 岡部一族の人間は甲斐にも多い。また正綱は、武田家に長く仕えていたため甲斐に友人知 己が無数にいる。甲斐の豪族たちを調略するのに、これほどうってつけな男もないであろ う。

(・・・弥八郎め・・・・)

 家康は、甲斐と信濃を奪ってしまいたいと考えていることについては、その悪影響を考慮 して家中には一言も漏らしていない。にも関わらず、弥八郎は、まるで読心術でも心得ている ように家康の心中を言い当てた。しかも、徳川家に帰参したばかりであるというのに、この 男の現状認識と状況判断の確かさはどうであろう。梅雪の後家に眼を付け、岡部正綱を使者 に名指しするあたり、その政略眼は尋常ではない。

(・・・さすがに、知恵第一と呼ばれておっただけのことはある・・・)

 家康は、得がたい人材を手に入れたように思った。




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