歴史のかけら
合戦師
58
三河へ帰り着いてからの家康の動きは、平八郎にとって不審であった。
家康は、
「織田殿の弔い合戦を致すのじゃ!」
と、岡崎で、吉田(豊橋)で、そして浜松で叫びまわり、さかんに怒気を発しているのだ
が、いっこうに軍を起こそうとせず、明智光秀に決戦を挑もうとしない。
6月5日に三河に辿り着いた家康が最初の陣触れ(動員令)をしたのは、実に5日後の6
月10日であった。しかもこの陣触れは、折悪しく三河を直撃した台風のためにあっさりと
延期されてしまった。
(雨風などは理由にならぬ。なぜすぐさま出陣せぬのじゃ・・・)
平八郎は、不思議でならなかった。
「信長の死」という政治状況は、いわば天下人の喪失を意味するものであった。信長を
殺し、一時的に天下を握った明智光秀を滅ぼした者こそが、次の天下人と呼ばれる資格を持
つであろう。
今、家康がその資格を得ることは、さして難しいことではない。東方の北条氏とすでに同
盟し、北方の武田氏が消滅してしまった今の徳川家には、四方に敵らしい敵はいない。領国
を空にする勢いで兵を総動員し、京へと攻め上り、明智光秀と戦い、これを破れば良いだけ
の話なのである。単独でそのリスクを背負うのがイヤならば、柴田勝家や羽柴秀吉ら織田家
の有力な軍団長と手を結んでも良い。とにかくも軍を催し、行動を起すべきであった。
(殿さまは、何を考えておいでなのじゃ・・・・)
平八郎は、家康の考えが解らなかった。これは、平八郎にとって初めてであったと言って
いい。
(・・・殿さまには、天下を狙うお気持ちがないのか・・・・?)
平八朗は、家康に内謁し、直接問うてみることにした。
「・・・・・天下?」
家康は驚いて目を剥き、即答した。
「そのようなこと、考えたこともないわ」
「・・ですが、それでは右府様(信長)の弔い合戦というのは・・・」
「弔い合戦は、致す。織田殿の仇は討たねばならぬ。しかし、それはそれ。天下取りとは別
のことじゃ」
家康は言った。
「これは、織田家の中の問題なのだ」
信長が築いた広大な版図を誰が相続するかという問題は、あくまでも織田家内部の問題で
あると家康は規定していた。当然だが、家康は信長の領地を相続する権利などはなく、また
その道理もない。
「しかし、考えてもみよ、平八郎・・・」
家康は、凄みのある笑みを見せた。
これから、織田家の軍団長と信長の遺児たちが、織田家の相続を巡って互いに熾烈な争い
を始めるであろう。京を占拠している明智光秀も黙ってはいない。中国の毛利氏を筆頭に諸
国の反織田勢力と手を結び、これと壮絶に戦うであろう。織田家に従っていた地方豪族たち
も、多くが右往左往するに違いなく、あるいは独立し、あるいはどさくさに紛れて他領を攻
め取ろうとし、勝手に利害を追求して動き始めるであろうことは間違いがない。
そしてそれこそが、家康にとってもっともありがたい状態であった。
一枚岩の織田家であれば、これに匹敵する大名などは日本のどこにもない。しかし、バラ
バラに分裂したとするなら、これはよほど違った状況になる。あの元亀年間のように群雄が
互いに割拠するようになれば、三河、遠江、駿河の三ヶ国を領し、2万を越える将兵を抱え
る徳川家というのは、毛利氏、北条氏に次ぐ強大な勢力ということになるのである。
まして家康は、天下人であった故 信長のただ一人の同盟者であった。精強な三河武士団
を擁し、「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの合戦巧者と評価されている家康の発言力と影
響力というのは、信長の存命中とは比べ物にならぬほど巨大なものになるであろう。
だから、
「慌てることはないのだ」
と、家康は言った。
明智光秀は、信長からその才能を愛され、数万の軍団を任されたほどの器量人である。
そう易々と滅ぼされるようなことはないであろう。柴田勝家は上杉氏と、羽柴秀吉は毛利氏
と、滝川一益は北条氏とそれぞれ対決中であり、これも軽々には動けない。いずれ半年や
1年は、この状態が続くに違いない。
家康とすれば、物事がもう少し煮詰まるまで待っていれば良い。内部分裂した織田家の勢
力同士が互いに潰し合い、ヘトヘトに疲れ果てる頃に出て行けば、彼らは争って家康を頼
るであろうし、織田家を相続した者にも恩を売ることができ、対等以上の同盟が再び結べる
かもしれない。
いずれにせよ、今は家康の価値がにわかに高騰し始めているときであった。ここはじっく
りと時勢を観察し、慎重に手を打つに越したことはない。
(そういうものか・・・)
平八郎は思った。
徳川家でも有数の戦略家であり、もっとも優れた戦闘指揮官である平八郎ではあったが、
こと政略という面においては思考の訓練が足らず、家康の足元にも及ばなかった。家康がそ
のような観測を持つ以上、いずれそういう状況になるのであろう。
とにかく平八郎としては、いつ陣触れがあっても素早く対応できるよう、入念に準備をし
ておく以外にない。
結局 家康は、6月14日になってようやく岡崎を出陣した。
しかし、その行軍速度は極めて鈍く、引き連れた軍勢も、わずか3千にも満たない小部隊
であった。家康は、沈みがちな家中の士気を鼓舞するために復讐というスローガンは掲げて
いたものの、この時点でいきなり明智光秀に決戦を挑むほどのつもりはなかったのである。
さしあたって家康は、情報を欲していた。
戦をする以上、何よりも必要なのはまず情報であった。明智光秀がどれだけの兵力を持ち、
どれほどの武将を配下に抱き込んだのかをまず知らねばならず、両軍の勢力を比較検討した
上で自軍に有利な決戦場を想定せねばならず、さらにはその決戦場の地形を知り尽くさねば
ならず、そこへ行くために地域の豪族たちへの政略さえも必要になってくるであろう。また
軍事行動を円滑にするには地域の領民たちを手なづけておかねばならないため、それらの
民情までにも気を配らねばならない。
柴田勝家、羽柴秀吉ら、織田家の他の軍団長の動きも、これは知っておく必要がある。彼
らが軍を動かせば、光秀としては当然それに対応せねばならなくなり、また状況が変わって
くるのである。
家康は、博打を好まない。
「三方ヶ原」で武田信玄に叩きのめされた経験を持つ家康は、器量に合わぬ“賭け”が、い
かに巨大なリスクを伴うかということを知り尽くしていた。ただ闇雲に飛び込んでゆくよう
な行動は、勇気ですらなく、愚者の無謀というべきであろう。
家康は、岡崎を出陣したその日のうちに尾張国境の鳴海城に入ると、酒井忠次に情報収集
を命じ、津島まで先行させた。
津島というのは、木曽川が伊勢湾に流れ込む辺りの地名で、桑名と並んで伊勢湾岸の有数
の港町である。解りやすく言えば、この当時の名古屋港にあたるであろう。上方船の往来が
激しく、自然、情報の集積地になる。家康は、この津島に軍勢を平和駐屯させ、一時的に占
拠することで往来する船舶からいっさいの情報を吸い上げようとしたのだった。
この鳴海城に入った6月14日の夜、珍事が起きた。
中国で毛利氏と対陣しているはずの羽柴秀吉から、早飛脚が届いたのである。
(あの羽柴という男から、なぜわしに飛脚が来るのか・・・・?)
家康は、不審であった。
家康は、秀吉のことをよく知らない。ただ一度、秀吉がまだ木下藤吉朗であったころ、金ヶ
崎城で共に戦った経験はあったが、それ以後は顔合わせる機会がほとんどなく、親しく話を
したこともない。
このときの家康は、秀吉に対して、
(元は織田家の奴(やっこ/奴婢)で、織田殿に大層気に入られて立身し、軍団長にまで登り
つめた男)
という程度の認識を持っているに過ぎなかった。
ともかくも飛脚を引見してみると、その男は驚くべき情報を伝えた。
「去る13日、羽柴筑前守殿、山城(京都府南部)の山崎において逆臣 明智光秀と決戦し、
これを討ち果たしましてござりまする!」
「・・・・・・・・・・・筑前殿が・・?」
家康は、信じられなかった。秀吉は、遠く備中(岡山県)で毛利氏と激闘の最中であり、しか
もその状況が芳しくないからこそ、応援として信長までが中国征伐に出かけようとしていた
のではなかったか――?
「山崎での合戦は筑前殿の大勝利に終わり、逃亡した光秀が首も挙げられましたよし。まずは
この事、ご一報申し上げまする。いずれご当人より、書面をもって正式なご挨拶がありまし
ょう」
(・・・・・馬鹿な・・・あり得ぬ・・・・!)
家康は、なお信じない。
だいたい、話が周到過ぎるではないか。昨日に山城で合戦をし、すでに今日、三河の
国境近くにいる自分の元にその戦勝を知らせてくるとは、なんという手回しの早さであろう。
家康は、鳴海城で軍勢を集結させつつ、小動物のような細心さで四方に諜者を放って情報
を収集させると共に、酒井忠次からの報告を待った。
「羽柴の一件、どうやら疑いなし」
という酒井忠次からの報告を受けたのは、2日後の16日であった。
(・・・秀吉という男・・・・食えぬ・・・)
という印象を家康が持ったのは、このときが最初であったと言っていい。
19日には、秀吉からの正式な使者が、家康の居る鳴海まで来た。
秀吉の使者は、「中国大返し」と呼ばれた秀吉軍の歴史に残る大反転行動を熱っぽく語り、
後に「天下分け目の天王山」という言葉でも有名になる「山崎の合戦」について詳細に説明
し、秀吉がいかに痛烈に光秀を破ったかを声高に喧伝した後、秀吉からの手紙を家康に手渡
した。
「逆臣 明智光秀は、この筑前が討滅いたしました故、早々に軍をお引き上げなされよ」
そういう意味の文面であった。
(織田殿の家来に過ぎぬ筑前なる者が、どういうつもりでこのわしに命令して来ておるの
か!)
家康は、非常に不快であった。
なによりも家康を不快にさせていたのは、
(・・・・出遅れた!)
という自分の慎重さに対する後悔であった。
しかし、過ぎたことを悔やんでも意味がないであろう。
(羽柴という男は、はや天下人のつもりか・・・・ならば、早晩滅ぶ・・・)
家康は、そう観測した。
秀吉が、この機を捉えて織田家を簒奪しようとするならば、彼は第二の明智光秀になるだ
けであり、信長の遺児たちや織田家の他の武将たちが黙ってはいないであろう。
家康は、当分のあいだ、天下の覇権争いから背を向けることにした。
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