歴史のかけら


合戦師

57

 家康一行が伊勢の関に入ったのは、6月4日の夕闇迫る時刻であった。
 伊勢の海岸までは、もう20kmを切っている。ここまで来れば、後はほとんどがゆるやかな 下りの道になる。

 家康は、瑞光寺(鈴鹿郡関町)という寺に入って一行に休息を与えた。
 当時の瑞光寺の和尚であった永隆という人は、三河の生まれで、家康とは幼馴染みであった らしい。家康は和尚に頼み、一行に食事を提供してもらった。
 ここで家康は、茶屋四郎次郎に、馬を飛ばして海岸へ先行し、船を調達するよう依頼した。 これを護衛するために、平八郎と数人の甲賀衆を付けた。

 家康は、すでに御斎峠から伊賀者を三河へと走らせ、最新の状況を伝えさせている。
 このまま進めば、夜のうちには伊勢湾に出られるであろう。伊勢湾を最短距離で渡るとす れば、知多半島の浜に到着することになるであろうから、そこに迎えの人数を寄越してもらわ ねばならない。
 この情報を受け取った徳川家の留守の面々は、躍り上がって喜んだ。
 ただちに主立つ家臣に通牒を回し、家康の帰還に備えると共に、知多半島の豪族たちに 指示して海岸線を警戒させ、家康一行を迎える準備をさせた。

 家康一行は、辺りを哨戒する伊賀者と警護の甲賀衆に守られながら予定通り深夜に伊勢の 海岸に辿り着いた。
 現在の三重県鈴鹿市にある白子(しろこ)という土地である。
 白子の浜というのは、この当時は鄙びた漁師町であった。江戸期になると、“神君”家康が 「伊賀越え」において使った港として特別な保護を幕府から受けることになり、紀州藩徳川 家の代官所が置かれ、「人家一千軒余、繁栄の港にして、江戸船積する問屋多し(伊勢参宮 名所図絵)」という大発展を遂げることになる。

 茶屋四郎次郎は、近隣の漁港を訪ね回って、伊勢では屈指の商人であり戦国時代有数の海 運業者であった大湊(伊勢市)の角屋の者と連絡を付け、船を調達した。茶屋四郎次郎も京では 有数の商人であり、商談は非常に円滑に進んだ。
 ちなみに四郎次郎は、この「伊賀越え」で艱難を共にしたことから家康と縁が深くなり、 京における徳川家の間諜になった。豊臣政権下での上方の様子を巨細となく家康へ伝え続け、 後の「関ヶ原」の前後など、その情報が家康にもたらしたものは大きかった。家康が天 下を取ると、それらの功によって四郎次郎は江戸幕府の御用商人になり、巨富を得た。
 家康を見込んだこの男の“賭け”は、どうやら勝ちであったらしい。

 家康ら一行が白子の浜で休息しているうちに、沖に大型の帆船が姿を現した。

 家康は、骨を折ってくれた伊賀者たちにも感謝の言葉を与え、

「この後、徳川家に仕えることを望む者があれば、服部半蔵まで願い出よ。わしが必ず扶持 するであろう」

 と酒井忠次らを通じて伝えさせた。
 織田勢力である福地氏、柘植氏の配下であった彼らは、「第三次 天正伊賀の乱」が始ま り、伊賀中の地侍が敵に回ると国にいられなくなり、多くの者が三河へと亡命した。
 家康は、この「伊賀越え」のときの約束を履行し、頼ってくる彼らをすべて召抱え、まと めて服部半蔵に預けた。彼らは「伊賀同心」と呼ばれるようになり、戦場諜報や敵の後方 撹乱、諸国の情報収集などに活躍した。家康が天下を取り、幕府が安定して世に戦がなくな ると、彼らは徳川家臣団の中で最下層ではあるが、すべて武士の待遇を与えられることにな った。


 さて、海である。
 この当時、伊勢湾の制海権は志摩の海賊である九鬼氏が握っていた。
 九鬼氏の九鬼嘉隆は、信長を見込んで早くから織田家に仕え、実質的に織田水軍を創始し た人物である。戦国最強と呼ばれた毛利水軍を大阪湾の木津川河口で迎え撃ち、信長が発案 した鉄張りの巨船を使ってこれを撃破したことでもよく知られている。
 明智光秀は、京周辺の山国に本拠を置いているため、水軍を持ってはいない。また謀反の 計画があまりに性急であったため、九鬼氏にまで手を回すゆとりはなかった。

(・・・・これで、三河へ帰れるか・・)

 船が闇に向けて走り出すと、ようやく平八朗はそのことを思った。
 6月2日に堺を出てからの3日間、一行は、まったく無謀とも言える強行軍を続けて きた。
 平八郎は、この2夜というもの、ろくに眠ることさえしていない。宿泊した小川城では、 いつ何時変心する者がでるか知れぬと思い、家康が休んだ部屋の庭で“蜻蛉切”を抱え、木の 幹にもたれて夜を明かしたものであった。
 すべての三河者たちが重く疲労し、どの顔にもやつれが目立ったが、どうにか死地を脱す ることができたという開放感が、男たちを笑顔にしていた。

 しかし、船の旅というのは、夜はできない。
 この当時、かろうじて方位磁石はあったものの、日本にはまだ海図も羅針盤もなく、航 海士たちは天体から方角を正確に知る術も知らなかった。船を運航するには陸の地形を見、 自分の位置を目で確認しながら進むほかなく、つまり普通は夜が明けるまでは動けな いのである。
 そのことを平八郎が船の船頭に尋ねると、

「なに、この伊勢の内海ならば、東へ向かっておれば間違いはございませぬゆえ、風さ え変わらねば何とかなりましょう。それに、知多へ着く頃には陽も昇りまする」

 と、そのまま船を進めてくれた。
 志摩半島と知多半島に挟まれた湖のような伊勢湾は、外洋のように波が荒くなく、これを 突っ切る場合は陸沿いに進むわけでないため暗礁なども気にする必要がない。鈴鹿山脈から 吹き下ろされる順風に乗り、船は滑るように漆黒の水面を進んで行った。
 海路を約25km。東の空が白み始めると、水平線の先に知多半島の黒々とした山並みをはっ きり視認することができた。

(・・・・・・・・・帰った・・・!)

 平八郎は、張り詰めていた緊張が全身から抜けてゆくような想いであった。
 あの堺から、敵地を越え、難所をすり抜け、無事に主君を三河まで送り届けることができ たのである。命に代えても、絶対にそれをやり遂げねばならないという使命感を誰よりも感じ ていた平八郎は、ようやくその重すぎる重圧から開放された。


 家康は、この「伊賀越え」のときほど運が良かったと思ったことは生涯なかった。

 家康は人に恵まれた。
 たとえば堺から甲賀へ出るとき、長谷川秀一という信長の側近がもし一行にいなければ、 家康たちは穴山梅雪主従のように進路に困り、愚図愚図している間に明智の捜索隊に発見さ れてしまったかもしれず、あるいは土民に討たれていたかもしれない。
 たとえば茶屋四郎次郎がこの一行に加わっていなければ、路銀を持たない一行の旅はよほど 困難になっていたであろうし、これほどスムーズに伊勢を離れることはできなかったに違い ない。
 甲賀衆を懐柔することができたのは、家康に恩を感じてくれていた多羅尾光俊がいたから こそであったし、伊賀者の棟梁である服部半蔵を配下に持っていなければ、伊賀という危地 をすり抜けることはかなわなかったであろう。
 あの穴山梅雪でさえ――当人の意思でないにせよ――家康の替え玉になることでこの逃避 行を助けてくれた。

 なかでも、平八郎の働きは素晴らしかった。
 平八郎は、“蜻蛉切”を右手に常に一行の先頭に立って駆け、誰よりも走り回って辺りを 哨戒し、木津川では船を調達し、鹿伏兎では野武士を蹴散らし、家康一行の進むべき道を切 り開いた。

「伊賀越えのときは・・・」

 と、家康はその生涯で何度もこの苦難の思い出を語ったが、「信長の後を追って腹を切る」 と言った家康を否定し、諌めてくれたことも含めて、

「この間の危難、万死を免れたのは、ひとえに平八郎が力のお陰じゃ。あのときもし平八郎が おらねば、わしは死んでおったに違いない」

 という言葉で、この話を締めるのが常であった。




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