歴史のかけら


合戦師

56

 歴史書というものは、ときに、驚くべき事実を示すことがある。

 松平家忠という人物がいる。
 三河では、「十八松平」と言われる松平家(徳川家の元)の分家が十八系統に渡って根を張 っているのだが、三河の岡崎から海へ向かって15kmほど行くと「深溝(ふこうず)」という山 里があり、松平家忠はその深溝松平家の当主であった。
 家忠は、若い頃から一門衆として家康に従って戦い続けた人で、「長篠の合戦」のとき は酒井忠次の揮下に入って鳶巣山の奇襲攻撃に参加し、また築城に才能を見せ、浜松城や 横須賀城の普請などに活躍した。「関ヶ原」のとき、鳥居元忠と共に伏見城に入り、石田三 成率いる西軍の大軍勢の足止め役になり、壮絶な討ち死にを遂げる男である。この天正10年 で27歳になるのだが、家忠の名を後世まで高らしめたのは、彼が非常に筆まめな男であった ことだった。
 家忠は、『家忠日記』という重要な一次資料を書き残しているのである。

 その『家忠日記』には、驚くべき記載がある。
 天正10年6月3日――「本能寺の変」の翌日――の欄に、すでに明智光秀の謀反の第一報 が記されているのである。さらに翌6月4日の欄を見ると、信長親子の死亡が確認され、家 康が堺から岡崎に向かっているという情報が入っており、呆れたことに、穴山梅雪の死につ いてまでも触れられている。
 6月4日といえば、まだ家康が多羅尾光俊の小川城から甲賀衆に守られながら伊賀へと向 かっている頃である。
 言うまでもないが、この時代には新聞もニュースもない。情報の伝播には人の口を使う以 外に方法がなく、その伝播の速度も人の移動速度以上にはならない。
 家忠は、「本能寺の変」のとき、京から遠く離れた三河にいた。この早耳には、何かしら の理由がなければならないであろう。


 服部 半蔵 正成という男は、この物語にも何度か登場している。
 伊賀の服部氏というのは桓武平氏の裔(すえ)であり、伊賀一国に大きな勢力を持つ豪族で、 藤林氏、百地氏と共に、いわゆる「上忍三家」にも数えられる。
 半蔵 正成の服部家は、この服部一族の宗家であった。父である半三 保長のとき足利将軍 家に仕え、「石見守」という大名なみの官位をもらった。しかし、その頃の足利将軍家には すでに往年の威光はなく、衰弱しきっていた。失望した保長は京を去り、家康の祖父 清康に 見込まれ、三河に移り住んだ。
 服部一族の族長とも言うべき半三 保長を得たおかげで、徳川家(その頃は松平家であ ったが)は伊賀と太いパイプを持つことになった。服部保長は、一族の者を何人も伊賀から 呼び集め、戦場諜報や諸国の情報収集などに使い、清康から重宝がられた。やがて家康の 代になると保長は隠居し、子の半蔵 正成がその役目を引き継いだ。
 服部半蔵というと、「忍者」というイメージを持つかもしれないが、だからこれは誤りで ある。半蔵自身は忍びとしての修行をしたわけではなく、配下に一族の伊賀者を多数抱え ていたに過ぎない。「忍者」どころか、半蔵は戦場では「鬼」と呼ばれたほどに槍 働きが巧みな正規の武将であり、無類と言っていいほどの「忠義の侍」であった。

 松平家忠をはじめとする三河に残った徳川家の面々が、「本能寺の変」とその後の家康一 行の足取りを掴むことができたのは、この服部半蔵が支配する伊賀者たちの働きのお陰で あった。
 去る6月3日、宇治田原の山口城で家康一行と別れ、先発した服部半蔵とその配下の伊賀 者たちは、一直線に伊賀への山道を駆けた。
 半蔵は、足の達者な者をまず先行して走らせ、伊賀でわずかに残っている一族の者たちを 呼び集めさせた。

 伊賀が、「天正伊賀の乱」で壊滅的な打撃を受けた、ということは先にも触れた。しかし 伊賀には、信長の伊賀攻めに協力し、国と仲間を売ることで生き残った地侍たちがわずかな がらいた。
 伊賀の北東部に柘植(つげ)という土地がある。ここに根を張る福地氏という地侍は、後 にあの“俳聖”松尾芭蕉を産む一族なのだが、彼らが「伊賀の乱」に際して織田方に味方し、 伊賀侵攻の道案内をした。いわば伊賀における織田勢力であり、家康の味方であった。
 また下柘植(しもつげ)に、柘植氏という地侍がいる。柘植一族は「伊賀の乱」に際し、 家康に信長への取り成しを頼み、生き残った一族であった。
 半蔵は、ただちにこの福地氏と柘植氏に連絡を付け、伊賀の様子を探ると共に、服部一族 の忍びを三河へと駆けさせ、京での変報と家康の無事とを伝えさせた。
 伊賀者には、1晩で100kmを駆けることができる者もいたと伝えられている。伊賀から伊 勢の海岸まではわずか40kmに過ぎず、そこから早船を使えば、6月4日に三河へ情報が入っ ていたことにも説明はつく。
 伊賀者という異能の集団が、歴史の表面に現れない形で縦横無尽に活躍していた様が窺える であろう。


 さて、伊賀である。
 このとき、伊賀は大変な状況になっていた。
 「伊賀の乱」の後、わずかに生き残った者たちや、他国に逃げて伊賀へ帰参した者たちは、 織田家の支配の元で細々と生活を続けていた。しかし、「信長の死」が伝わるや、織田家に 恨みを持つ者たちが一斉に気炎を上げた。彼らはこの機会に織田勢力を伊賀から排除しよう とし、まず手始めに織田家に寝返って国と仲間を売った連中を滅ぼそうとし、信長が派遣 した代官や領主を殺してしまおうとした。
 この動きは、やがて「第三次 天正伊賀の乱」と呼ばれる内乱へと発展するのだが、ともか くもこの6月4日の時点では、伊賀は不穏な空気の中にあり、とても家康一行が無事に素通 りできるような状態ではなかった。伊賀に住む者たちにとって、織田勢力というのは文字通 りの仇敵だったのである。
 半蔵は、家康一行が伊賀を通過することを諦めざるを得なかった。

 半蔵はやむをえず、福地氏と柘植氏に助力を要請した。

「我が殿に合力してくだされば、悪いようには致しませぬ。もし他の伊賀衆が攻め寄せ て参るようなことがあれば、皆様方を必ず我らが匿い、身の立つように致しまする」

 福地氏の福地伊予守と柘植氏の柘植三之丞は決断し、配下の伊賀者 約百人を半蔵に貸し 与えた。無論、伊賀者と言っても武士などではなく、普段はわずかな畑を耕したりしてい る農夫で、戦があれば野武士になって戦稼ぎをしたり、大名に雇われて敵の陣屋を焼いたり、 後方撹乱をしたりすることで飯を食っているような男たちである。
 半蔵はその連中を連れ、大急ぎで家康一行と合流するために甲賀を目指した。

 家康たち一行は、小川城から南下し、伊賀へと入ろうとしていた。
 伊賀と近江を結ぶのは、御斎峠(おとぎとうげ)である。
 家康一行がこの峠に差し掛かったとき、半蔵が指揮する伊賀者たちと行き会った。半蔵は 伊賀での状況を語り、道を変更して伊賀国境の北端をかすめるようにして伊勢へ抜けるよう 家康に促した。

「幸い、柘植のあたりは殿さまのお味方でござります。ここを抜け、鹿伏兎(かぶと)の峠に て鈴鹿の嶮を越え、伊勢の関(せき)へ出るが上策かと思われまする」

 半蔵が従えている伊賀者たちほどこの辺りの地理に精通している者はいない。伊賀者たち にとって、山賊の住処と言われる鈴鹿の山々は庭のようなものであり、樵道から獣道まで知 り尽くしていた。
 家康は半蔵の言葉に従い、ただちに道を変更するよう指示した。
 一行は、伊賀者と甲賀者たちに守られながら、東を指して一散に駆け始めた。

 鹿伏兎越えは、この「伊賀越え」の中でも最大の難所であった。
 鹿伏兎(加太)という土地は鈴鹿山脈の南端で、現在は国道一号線が通ってしまったために 「鈴鹿峠」の位置が変わっているが、当時はこの鹿伏兎を通って伊勢の関町へ抜けるこ とを「鈴鹿峠越え」と言ったらしい。辺りは四方が山であり、昼なお暗いといった感じで 鬱蒼と木々が視界を遮っている。
 鹿伏兎には鹿伏兎氏という豪族が根を張っているのだが、悪いことにこの連中は伊賀衆と は仇敵という間柄であった。伊賀衆もそこは心得ていて、間道を伝って先行し、周囲を哨戒 しながら一行を導いた。

 平八郎は、服部半蔵と共に一行の先頭に立って駆けていた。

「この先で、野武士が道を塞いでおりまする。その数、およそ二百ばかり!」

 伊賀者の一人が急を伝えて来たのは、6月4日の西日がきつくなり始めた頃であった。
 平八郎は家康の元へ駆け戻った。

「賊などは烏合の衆でござります。人数でもこちらが上回り、また我らは一騎当千の者ばか り。ここは我らから槍を揃えて敵に突きかかり、一気に抜けてしまいましょう!」

 家康は、すでに腹が据わっている。それに、半生を戦場で過ごしたこの男は、襲われるよ りも襲う方が遥かに立場が強いということを経験的に知っていた。
 すぐさま決断し、一行に戦闘の準備と心構えをさせた。

 家康たちと行き会ったこの野武士たちは、むしろ哀れでさえあった。
 手に手に槍や刀を握った集団が駆けて来ると気付いたとき、突然 間近で焙烙玉(手榴弾)が 炸裂し、音もなく周囲を包囲した忍者たちから一斉に手裏剣や矢が放たれ、戦う前から大混 乱に陥っていた。真っ先に敵中に飛び込んだ平八郎が、“蜻蛉切”で大将格の男を瞬時に突き 伏せ、一喝すると、すでに戦意を失いつつあった男たちは我先に逃げ出した。

「このような輩が何百人いたところで、怖れることがあるか・・・」

 平八郎は、汗ひとつかいていない。
 後ろも見ずに逃げ散る野武士たちに興味すら示さず、再び一行に先行して駆け始めた。




57 へ

戻る


他の本を見る

カウンターへ行く


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp