歴史のかけら


合戦師

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 家康がこれから向かおうとしている甲賀と伊賀という土地の話を、少しせねばならない。


 伊賀は、古来「難国」と呼ばれた。
 南北に40km、東西に30kmに満たないこの小盆地は、山城(京都府南部)、大和(奈良県)、伊 勢(三重県北中部)、近江(滋賀県)の山々がぐるりと囲い込み、わずか7本の峠道によって外界 と繋がっている。この入り口を遮断すれば、それだけでこの国は「世界」から消えることが できた。一国がそのまま隠れ里のようになっていると言っていい。
 しかし京からの距離だけを見れば、これはわずか80kmに過ぎない。
 京で権力が崩壊するたびに、この国には多くの落ち武者が逃れて来た。古くは源氏に滅ぼ された平氏の武者たちがそれであり、源義経に討滅された木曾武者がそれであり、南北朝の 騒乱に疲れた者たちがそれであった。この伊賀という国に住む人々は、気の遠くなるような 昔から、京の権力の興亡を垣根越しに覗くようにして暮らしてきた、ということである。京 にこれほど近い地域でありながら、伊賀の人々が時の権力から超然とした態度を取り続けた のは、盛者必衰――権力というものの「虚しさ」を、知り尽くしていたからであったろう。
 だから伊賀の人々は、権力に仕えることを嫌い、何者からも支配されることを嫌った。

 伊賀には、この戦国期、国主がない。
 伊賀という小天地に割拠した地侍たちは、互いに同盟し、「伊賀連判状」というものを作 って横の繋がりを謀り、一国を共同管理していたのである。
 やがて尾張で興った信長が畿内を制し、隣国をことごとくその傘下に収めたのだが、伊賀 の人々は当然のように信長による支配を嫌い、超然とした独立独歩の姿勢を貫き続けた。

 最初に伊賀に手を出したのは、信長の次男で伊勢を支配していた北畠信雄だった。
 天正6年、信雄は、信長の許可さえ取らずほとんど単独の形で伊賀を征服しようとし、 伊賀侵攻の拠点として丸山城を伊賀と伊勢の国境である神戸(かんべ)の山谷に築いた。
 これに気付いた伊賀の地侍たちは、たちまち国中に書状を回し、この外敵に対して一致団 結して対処することを確認し、防衛のための先制攻撃を決めた。
 伊賀の地侍たちは、夜陰に乗じて丸山城に奇襲を掛け、一夜にして城を焼き払い、数百の 守備兵を惨殺した。翌日到着した伊勢からの援軍を何よりも驚かせ、不気味がらせたのは、 敵の伊賀兵が、夜明けと共に煙のように丸山城から消え失せていたことだった。

 これに激怒した信雄は、翌天正7年9月、自ら1万の軍勢を率いて伊賀へ侵攻した。
 この頃の伊賀の人口は、約10万。武士の数は、雑兵まで合わせても4千程度であったといわ れている。この4千の伊賀兵が、夜襲とゲリラ戦術を駆使し、倍以上の織田軍をわずか3日 で壊走させた。
 これを、「第一次 天正伊賀の乱」と言う。

 度重なる敗報に、信長は信雄を勘当せんばかりに激怒した。
 何よりも信長を不快にさせたのは、伊賀者と呼ばれた連中の化け物じみた神出鬼没ぶりと、 夜の闇に乗じたその特異な戦術だった。

「伊賀には、人外の化生(けしょう/化け物)が棲んでおるのか!」

 信長は、自らの理解が及ばぬものを偏執的なまでに憎悪した。神や仏を説く宗教を憎悪し、 一向一揆を殺し尽くし、比叡山を焼いて数千の僧を惨殺した感情とまったく同根の憎しみを、 伊賀という国とそこに住む人々に対して持った。

 天正9年(1581)9月――「本能寺の変」のわずか9ヶ月前――信長は、4万を越える大軍 勢を伊賀に侵攻させ、老若男女を問わない大虐殺を行った。
 信長は、

「伊賀に棲む者は、一人も生かすな!」

 と、文字通りの皆殺しを命じたのである。
 織田の軍勢は、伊賀で出会う人間をすべて殺した。武士はもちろん、僧を殺し、農夫を殺 し、女子供を殺し、呆れたことに家畜や犬猫までも殺した。「化生」が、その中に混じって いることを怖れたのであろう。
 伊賀者たちは、闇夜に乗じて織田勢の陣屋を焼き、兵を殺傷し、懸命に抵抗したが、この 圧倒的な人海戦術には為すすべが無い。やがて柏原城という砦に追い詰められ、1ヶ月の篭 城の末、伊賀は事実上、消滅した。
 これを、「第二次 天正伊賀の乱」と言う。


 一方、甲賀である。
 甲賀も、事情は伊賀に似ている。甲賀の地侍たちは、「惣(そう)」と呼ばれる独自の地域 連合体を形成し、里に関わる全ての案件を合議によって決定し、里を運営していた。
 しかし、甲賀に住む地侍たちは伊賀の者たちと違い、権力に従順であり、武将に仕えて忠 であった。戦国期の甲賀衆は、南近江の六角氏に仕え、六角氏が信長に滅ぼされると、多くが そのまま織田家に仕えた。

 信長は、伊賀者を嫌うように、甲賀に住む者たちをも嫌った。信長にとって、甲賀者も「得 体が知れない」という意味では伊賀者と同じだったのである。伊賀攻めに先立ち、信長は甲賀 も殲滅してしまおうと思い立ち、その準備をしたことがあった。
 そのとき、この信長の動きを察知した甲賀の地侍たちは、家康に泣きついた。
 家康は、まだ今川家に従属していたころから伊賀や甲賀の地侍たちとは良好な関係を保っ ており、その特異な職能集団を銭で雇い、戦場諜報や敵の撹乱などに使っていた。この縁か ら、甲賀の地侍たちは家康を頼り、信長への取り成しを懇請したのである。
 家康は、甲賀衆の大名への従順さを説き、信長に甲賀への侵攻を止めるよう願い出た。信 長は渋ったが、甲賀衆が伊賀へ先鋒となって攻め込むことを条件に、この願いを聞き届 けた。
 こうして甲賀の地は安寧を保ち、この天正10年も平穏のうちにあったのだが、つまり甲賀 の地侍たちにとって、家康とは恩人だったと言っていい。


 家康一行は、宇治田原の山口城からさらに東に駆け、遍照院(宇治田原町奥山田)を経て 陽のあるうちに近江(滋賀県)に入った。道案内と護衛を務めたのは、山口秀康の兵と、山口 秀康から急報を受けた多羅尾光俊が派遣した甲賀者たちであった。

 多羅尾光俊は、山口秀康の実父である。
 多羅尾氏というのは、「信楽焼き」で有名な甲賀郡信楽の小川というところに城を構えて いる甲賀の有力な地侍で、いわゆる「甲賀五十三家」にも数えられている。
 山口秀康が発した急使から事情を聞いた多羅尾光俊は、

「我らは三河殿に借りがあり、またこれは甲賀者が世に出る好機でもある」

 と縁故の地侍を説得し、家康一行に合力するよう辺りの甲賀衆に回状を回した。
 たちまち150人を越える甲賀者が駆け集まり、家康一行の警護と道案内を願い出た。

 家康は、逆に不安になった。

(この連中を、信用していいものかどうか・・・・)

 家康は、信長のように「忍び」という連中にアレルギーを持ってはいなかったが、普通の 武士とは毛色の違った倫理観と考え方を持っている「甲賀衆」の心根までを信用する気にはな れなかった。しかし、今はこの連中を信じる以外に方法がない。
 家康は、酒井忠次らを通じて、

「この後、徳川家に仕えることを望む者があれば、必ず召抱える」

 という言葉をこの連中に与え、「契約」に近い形で甲賀者たちを懐柔した。
 ちなみに、後の徳川家における「甲賀同心」と呼ばれる集団は、このとき家康に協力し、 徳川家に臣従することにした者たちの子孫である。


 家康一行が多羅尾光俊の小川城に辿り着いたのは、6月3日の夕刻であった。
 家康は、この甲賀、伊賀といったあたりの連中を、よほどに警戒していたらしい。小川城 付近まで到着してもなかなか城に入ろうとせず、小高い丘に登って城内を見下ろし、油断なく 中の様子を窺っていたという。
 この様子を伝え聞いた多羅尾光俊は、

(我らの心底を疑っておるのであろう・・・)

 と不快がりもせず、自ら名物の干し柿と新茶を持参して家康の元まで赴いた。また村中の 者たちに赤飯を炊くように命じ、総出で家康一行を持て成さしめた。このとき、家康はよほ どに空腹であったらしく、出された赤飯を箸も使わず手掴みで食ったという。

 家康一行は、この小川城で一泊した。
 このとき、家康たちが休息した部屋から、城内の一角にある小さな社(やしろ)が見えた。

「あれは、何を祭っておられるのか?」

 家康が尋ねると、

「愛宕大権現にて、ご神体は勝軍地蔵でございます」

 と、多羅尾光俊は答えた。

「これも、何かのご縁でございましょう。道中の無事を祈念し、あのご神体をさしあげたく 存ずる。これを機会に、ぜひ愛宕大権現をご信仰なされませ」

 家康は大いに喜び、この多羅尾光俊の好意を受けた。
 後に家康は、江戸に幕府を開いたとき、江戸城を見渡せる芝の小高い丘の上にこのご神体を 祀り、社を建てさせた。この勝軍地蔵は、江戸城の西の鎮護として尊崇され、やがて江戸八 百八町の防火の守護神である愛宕神社の由来となった。

 余談を少し続けよう。
 多羅尾光俊は、この後、豊臣秀吉に仕え、関白になった豊臣秀次に属した。しかし、秀次 が秀吉の勘気に触れ、殺されると、そのあおりを食って多羅尾一族はことごとく改易(家の 取り潰し)され、光俊も小川に蟄居せざるを得なくなった。
 家康は、この「伊賀越え」のときに光俊から受けた恩を忘れなかった。慶長元年(1596)、 光俊の子の光太を召し出し、近江国甲賀郡のうちに三千八百石を与えた。以後、多羅尾氏は 徳川家に仕え、上杉征伐や関ヶ原の合戦にも従軍している。
 江戸期以降、多羅尾氏は徳川家の旗本として存続し、代々甲賀郡の代官職を世襲し、幕末 まで続いてゆくことになった。


 翌6月4日の早暁、家康一行は、2百人近い甲賀衆に守られながら小川城を出立し、伊賀へ と向かった。




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