歴史のかけら


合戦師

54

 さて、家康主従との別行動を選んだ穴山梅雪の話である。

 家康一行の出発を見送った梅雪と穴山家の十数名の重臣たちは、まず逃走経路を協議し た。
 梅雪たちは、家康らに輪をかけて地理に不案内であった。長谷川秀一が家康と行動を共に してしまったため、彼らはこの畿内の入り組んだ国境をさえ、まったく把握できていない。
 梅雪は、とにかく一直線に東進し、土地土地の人間を捕まえてはそのつど道を決定し、近江 (滋賀県)を経て美濃(岐阜県)に入り、信濃(長野県)へ抜けようと思った。なんのツテもなく 難国といわれた伊賀へ紛れ込むのは危険すぎたし、たったこれだけの人数で山賊が多く住むと いう鈴鹿の嶮を越えることもできかねたからである。近江は明智光秀の坂本城があり、いわ ば敵地なのだが、伊勢に逃れたところで家康の三河へ渡るわけにはいかない以上、近江をどう にか通過する以外 選択肢がない。しかし、近江さえ越えてしまえば、あとは何とか なるであろう。
 梅雪主従は、家康たちの後を追うようにして東進を始めた。


 摂津(大阪府北部)と山城(京都府南部)の国境の山間を、梅雪たちは駆けるように進んでゆ く。

(日が暮れてはどうにもならぬ・・・)

 梅雪は焦っていた。西も東も解らないこの土地で太陽までが沈んでしまえば、彼らは方角 さえも見失ってしまいかねないのである。明るい間に少しでも距離を稼ぎ、手ごろな里を見 つけて道案内できる者を捕まえねばならない。
 梅雪主従は、行き会う地元民に方角を訊ねては先を急いだ。

 やがて、西の山の端に陽が沈みこみ、辺りが闇に閉ざされた。

(・・・・家康と共に行くべきであったかもしれぬ・・・)

 梅雪は何度も思ったであろう。空腹を抱え、寄る辺もなく、追っ手に怯えながら夜の山道 をひた歩く梅雪たち一行の心境というのは、何とも言い難いものがあった。

(・・・しかし、あそこで別れておらねば、今頃は死んでおったやもしれぬのだ)

 そうやって、梅雪は辛うじて自らを慰めた。

 この頃の夜の闇というのは、現代とは違う。貧しい山間の村などでは、煮炊きをする火を のぞけば照明になるようなものなどはなく、村人は日暮れと共に床に就き、夜明けの前に目を 覚ますような生活を送っているのである。夜の闇とは真の闇のことであり、当然ながら町の 明かりなどといったものは、よほどの都会以外にはない。地理を弁えぬ者が、動き回れるは ずがないのである。

 それでも梅雪たちは、足で道を探るようにしてジリジリと夜を徹して進み続け、明け方ご ろにはどうにか山を越え、普賢寺谷あたりまで進むことができていた。明るくなりさえすれ ば、村や里を見つけることはできるであろう。
 しかし、梅雪たちにとって致命的だったのは、路銀をほとんどを持ち合わせていないこと であった。これでは人を雇うことができないばかりか、食料を手にいれることさえ満足には いかない。

 ある村に入ったとき、梅雪はやむをえず家臣を民家に押し入らせた。村人を拉致し、それ を人質のようにして村から食料を提供させ、ついでにその村人に道案内をさせようとしたの である。このあたり、よほどに追い詰められていたとしか思えない。
 なぜなら、これは自殺行為であった。
 この当時の土民というのは、一筋縄でいくような相手ではない。普段は畑仕 事をしている連中でも、戦があれば錆槍を抱えて足軽稼ぎに出たり、落ち武者狩りをしては 武士に襲い掛かり、武具を奪って生活の足しにしているような物騒な者たちばかりなのであ る。梅雪主従の蛮行が伝わるや、村中の男たちが手に手に獲物を持って駆け集まり、たちま ち数百人の土一揆ができあがってしまった。

「下郎め、おのれらに討たれるわしではないわ!」

 梅雪は怯まず、人質をとったまま一揆勢を引き連れるようにして先を急いだが、木津川の 草内の渡し――家康が木津川を渡った地点――付近まで来たとき、抵抗し、逃げ出そうとし た人質を、家臣が勢いで刺し殺してしまった。
 これが、引き金になった。
 逆上した一揆勢が、四方から一斉に梅雪たちに襲い掛かったのである。

「斬り捨てよ! 斬り抜けよ!」

 梅雪は自ら太刀を抜き、懸命に防戦したが、多勢をどうこうできるものではない。寄って たかって打ち掛かられた末にやがて力尽き、名も無い土民の手によって首を掻き取られてし まった。梅雪の重臣たちの多くがその場で首にされ、わずかに逃げ延びた者も重傷を負い、 甲斐まで辿り着けた者はほとんどいなかったという。


 ところで、畿内の村々にも「本能寺の変」というのはすでに伝わっている。
 梅雪主従を討ち取った土民たちは、梅雪を見て、

「この装束からして、貴人に違いあるまい。堺におったという徳川殿ではあるまいか」

 と推測し、折から辺りを哨戒していた明智光秀の捜索隊までその首を届けた。
 明智軍の雑兵には、家康の顔を見知っている者などはいない。しかし、報告を受け、首を 受け取り、その装束や持ち物をあらためると、確かに貴人であることは疑いない。

「この首こそ、徳川殿に違いなし」

 ということになり、主君である明智光秀の元に第一報を報じ、その後、首を京へと送っ た。

「徳川殿を討ち果たしたか!」

 この報告を受けた光秀は狂喜した。

 この頃、天下を取ったはずの光秀は暗澹としていた。というのも、信長を殺した後の状 況が、光秀にとってまったく面白くなかったからである。頼みにしていた大和の筒井順慶は 味方か敵かの旗色を鮮明にせず、艱難を共にした旧友であり縁戚でもある丹後の細川藤孝か らは絶縁状ともとれる書状が届いていた。
 光秀は、今やまったく京で孤立してしまっていたのである。

 光秀は多忙であった。
 信長とその長男 信忠をほとんど発作的に殺しはしたが、天下取りのため事前の根回しはま ったく手付かずであったと言ってよく、まだ畿内の制圧をさえ満足に終えてはいなかった。 織田家の本城である安土城を筆頭に押さえておかねばならない拠点は山ほど残って おり、光秀に帰順を申し入れて来ない近郷の大名、豪族も実に多い。さらには柴田勝家、羽 柴秀吉ら、織田家の他の軍団長に対応せねばならないため、これまで敵として戦っていた諸 方の大名に友好と同盟を持ちかける外交をせねばならず、京の統治者として人心を安定させ ねばならず、「主殺し」として最悪に落ちてしまっている世間の人気をどうにか回復させね ばならず、なにより朝廷に工作して一刻も早く征夷大将軍に就任せねばならなかった。

 光秀は、数日ろくに眠ってさえいない。
 何もかも上手く結果が出ず、苛立ち切っていた矢先に、この「家康の首」の報を受け 取ったのである。光秀にとって、信長を殺して以来、最初の吉報だったと言っていい。
 家康さえ死ねば、適齢の世継ぎがない徳川家は軍事行動を起すことができなくなり、 それどころか相続者争いから内乱になるかもしれず、徳川傘下の小大名や豪族たちが独立し て攻め合いを始めるかもしれず、どう転んでも東海地方からの脅威はまったく消滅するはず であった。東方に兵を向ける必要がなくなれば、少なくともその分だけは畿内の防衛が楽に なるであろう。

 光秀は、家康主従を捜索させるために方々に放った軍勢を呼び返し、畿内で帰順しなかっ た勢力の殲滅を急がせた。
 しかし後日、実際に届けられた「首」を実検してみると、なんと穴山梅雪であった。
 光秀は呆然とした。

(天は、ここまでわしを見放しておるのか・・・・!)

 思わずにはいられなかったであろう。

「徳川殿をば討ちもらし、捨て置きても害なき梅雪入道を討つとは・・・我が武運の 拙さよ・・・」

 と長嘆したと、『徳川実記』にある。
 光秀の嘆きも解らないではないのだが、しかし、あれほど用心してなお命を失い、首を取 られた後に敵将から「無用の首」と言い捨てられた梅雪の無念さというのは名状しがたいも のがある。冥土と言う場所がもしあるとするなら、梅雪は運命の馬鹿らしさを呪い、歯噛 みしながら血の涙を流したに違いない。
 思い合わせてみれば、梅雪は、まるで家康の影武者になるためにこの堺行きに同行したよ うなものであった。どうやら天は、そういう役割を、この男に与えていたものらしい。

 この梅雪の首のおかげで、家康たち主従は、わずかながら虎口を脱するための時間を稼ぐ ことができたのだった。





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