歴史のかけら


合戦師

52

 穴山雪梅という男の話をしなければならない。

 梅雪が、武田家の一門衆の筆頭であり、信玄の娘婿であったということは先にも述べた。
 穴山氏というのはもともと甲斐源氏の名門 武田氏の別れで、武田氏、小山田氏と共に甲 斐国を三分するほどの勢力を持っていたのだが、梅雪の父 信友の代で武田氏の傘下に入っ た。と言っても、これは同盟したと言った方が正しい。信友は、信玄の姉を嫁に貰うほど武 田氏から厚遇を受け、武田の一門衆の筆頭となった。徳川家で喩えるならば、家康の叔母婿 であり筆頭老臣である酒井忠次の位置に当たるであろう。
 この信友と信玄の姉の間に生まれたのが、梅雪である。つまり梅雪は、信玄の甥というこ とになる。
 梅雪には、智謀がある。
 内政の手腕と人心の掌握術は信玄譲りであり、信玄から特に信頼されて駿河の統治を委託 されるや領民に慕われるほどの善政を敷いた。
 人並み外れた精力漢で、勇気があり、覇気もあり、軍事もまずくない。戦陣では主として 信玄の本営の守備を受け持っていたために武勇はあまり知られていないが、梅雪の沈着にし て果断な兵の駆け引きは、名将 山県昌景をして一目置かせるほどであった。
 風貌は、信玄に似ている。
 入道して鉢のひらいた大頭を剃りこぼっているということもあるが、巨大な目鼻や八の字に 跳ねた髭などは信玄の生き写しかと思えるほどで、信玄に対する尊崇の気持ちが厚かった家 康は、この梅雪入道には格別の敬意を払っていた。
 家康と同い年で、このとき41歳。

 その梅雪が、穴山家の重臣を引き連れ、京への街道を駆けるように進んでゆく。
 先導するのは長谷川秀一であり、同行しているのは家康とその重臣たちであった。

(・・・どうもおかしい・・)

 馬の手綱を握りながら、梅雪は感じている。
 京にいる信長に呼び出されたと、家康は言った。堺で残る日程をすべてキャンセルしたの は良い。信長を待たせぬために急行しているというのも、まぁ、良いであろう。しかし、 家康とその重臣たちの態度が、どことなくおかしいのである。そもそも遊山の旅であったは ずなのに、三河者たちのあの必死の目というのはどうしたことであろう。

(何やら、わしに隠しておるような・・・)

 ということまで、梅雪は勘付いている。
 梅雪は、その智謀を総動員して、家康が隠さなければならないことを想像した。

(信長が、家康に、わしを殺せと言ってきたのではないか・・・)

 ということが、まず頭に浮かんだ。
 信長は、ほんの2月前の武田家滅亡のとき、降参したり内応したりした武田の武将たちを 許さず、これを残らず殺すか自刃させるかした。たとえば信長との間で所領安堵の約束を取 り付け、勝頼を陥れて天目山で自刃する原因を作った小山田信茂は、戦後、主人を売った裏 切り者としてその所領を残らず取り上げられ、腹を切らされた。
 信長はこの手の嘘や裏切りが無数にある男で、そのことは諸国にも知れわたっており、梅 雪としても、信長ほど信じられない人間というのはこの世で他に思い当たらない。
 また梅雪は、行動を共にしている家康という男についても、多くの情報を持っているわけ ではなかった。家康がどういう経歴の男かという上辺の知識はあっても、その腹の中まで見 通せるほどに親しい間柄ではない。

(この男を、信用していいものかどうか・・・)

 ということを考えると、根が疑り深い男であるだけにたまらなく不安になってきた。

「三河殿、ここらでしばらく休みませぬか」

 家康は、堺を出てから小休止さえ取らず、駆けるような強行軍を続けている。馬上の重臣 たちはともかく、徒歩(かち)の小姓や雑兵、道具持ちの人夫たちはたまらないだろう。

「いやいや、もうしばらく・・・」

 家康は、梅雪が訊ねるたびに同じ返答をする。このことも、梅雪のイライラを募らせて いた。

 家康が初めて一行の足を止めたのは、堺から20km近くも北上してからであった。すでに6 月2日は真昼もとうに過ぎており、実に3時間ものあいだ一行は走りづめだったことになる。 近くの寺を休息場所に定めると、家康はここで平八郎を待ちつつ、事態を一同に打ち明け、 今後辿るべき経路や途中に打っておくべき手などを協議するつもりでいた。

 平八郎たちの帰還は思いのほか早かった。街道を疾駆した平八郎は、現在の枚方市あたり で茶屋四郎次郎と行き会い、これを連れて大急ぎで引き返してきたのである。家康は休息す るにあたり、平八郎たちと行き違わないよう街道に人数を配っておいた。

 家康は、寺の本堂を借り、梅雪と長谷川秀一に「本能寺の変」を伝えた。


 梅雪は、目の眩むような想いであった。
 あの信長が死に、京と畿内一帯はすでに明智軍によって押さえられているという。

(・・・・どうやって甲斐まで帰るか・・・)

 まずそのことで頭が一杯になった。
 梅雪の本拠は甲斐(山梨県)であり、摂津(大阪府)からは気の遠くなるような距離がある。 途中、明智の警戒線に引っ掛かるかもしれず、土匪(どひ/土地土地の暴徒や賊)の襲撃に逢う かもしれず、軍勢を連れていない梅雪としては、まさに絶望的な状況なのである。
 そして、ふと我に返り、

(家康は、わしを欺いた・・・!)

 という想いが頭をよぎった。
 町人である茶屋四郎次郎の証言もあり、なるほど信長が死んだのは事実であるのであろう。 しかし三河者たちは、この天地がひっくり返るような大変報をいち早く受け取ったにも関わ らず今の今まで自分に告げず、三河者たちだけの秘密にし、しかも勝手に善後策を協議して いた形跡が極めて濃いのである。この一事でも、彼らが信用に足る存在であるとはとうてい 言えないし、自分にとって安全な相手であるとはまったく思えない。

(三河者は信用すべきでない・・・!)

 と、梅雪は腹の中で思った。


 信長の側近である長谷川秀一は動転した。

「なんと! お屋形様がすでに・・・・!」

 怒りとも恐怖とも絶望ともつかぬ感情が身体中を駆け巡り、ガタガタと震え始めた。

「わ・・・わしは、すぐさま京へ登りまする!」

 秀一は、完全に取り乱していた。前後を忘れて立ち上がり、駆け出そうとさえした。

「待たれよ!」

 家康が大声で一喝した。

「長谷川殿、わしも、おことと同じように思うた。すぐさま京に上り、敵わぬまでも日州(日 向守=光秀)に一矢報い、右大臣家(信長)と死を共にすることも考えた。また知恩院に入り、 腹切ることも考えた・・・」

 しかしそれらは無駄である、と家康は説いた。この状態で京に向かったところで、光秀に 捕らえられて殺されるというだけのことで、どうにもならない。

「して・・・三河殿はどうなされるのか?」

 梅雪は、必死の努力で顔から表情を消し、声音だけは落ち着けて、家康に訊ねた。

「国へ、帰ります」

 家康は静かに答えた。

「一刻も早く三河へ辿り着き、軍勢を催し、日州を討ち滅ぼして右大臣家のお恨みを晴ら し奉りたい」

 この言葉に、長谷川秀一はひどく感動した。
 いま、織田家の軍団は四方に出払い、畿内は軍事的に真空状態になっている。羽柴秀吉は 備中(岡山県)で毛利氏と対陣中であり、柴田勝家は北陸で上杉氏とコトを構えている。滝川 一益は遠く関東にあり、四国征伐を準備中だった丹羽長秀と信長の次男 信雄の軍団はまだ 集結さえ終えておらず、軍団の形をなしていない。光秀は、このわずかな間隙を縫うように して謀反を決行し、信長を殺して畿内を押さえた。
 つまり、この光秀の謀反に対応し、すぐさまこれを軍事的に滅ぼすことができるほどの 存在は、いないと言っていい。反光秀勢力を呼び集め、弔い合戦をするならば、信長の同盟 者という筋目から言っても、家康が起つことこそが順当であろう。

 もっとも、当の家康はそこまでは本気で考えていない。
 このときの家康は、「復讐」という言葉をもって自分をどうにか奮い立たせ、絶望的な 現実から逃避しているようなもので、本心はなんとかして三河まで帰り着きたいと、それの みを思っていたに過ぎない。家康はどこまでも現実主義者であり、信長の仇を討ち、そのま ま信長の天下を横さらいにさらい取ってしまうような想像力と企画力は、この男のどこを探 しても見当たらないのである。
 重ねて言うが、この段階の家康が、天下取りを夢想するのはまったく不可能であった。そ れをするには、彼の置かれた状況が、あまりにも過酷に過ぎた。

「拙者が、まずお二方をここまで導いたのは・・・」

 と、家康は説明した。
 堺から伊勢湾へ出ようとすれば、地理的に言って大和(奈良県)を突っ切るのが一番近い。 しかし、家康はそれをしなかった。大和一国を支配する大名が、光秀の縁戚であり寄騎(配 下)でもある筒井順慶だったからである。筒井順慶は、丹後(京都府北部)の細川藤孝と共に 光秀の有力な味方と見るべきだった。
 家康は、堺から北上することで大和を迂回し、山城(京都府南部)の南端を突っ切り、近江 (滋賀県)へ抜けようと思ったのである。
 しかし、三河者たちは、畿内の地理にはまったく疎かった。堺へ来ること自体、家康でさえ 初めての経験であり、家康の重臣はと言えば三河か遠江の出自の者がほとんどで、不案内なこ とこの上ない。

 そのことを家康が言うと、

「そういうことであれば、それがしが先導仕りましょう!」

 長谷川秀一が、力強く請合った。この男は信長の側近で秘書官のような役目も兼ねていた から、畿内に顔なじみの大名小名が多い。この周辺の道案内はそういう連中に任せるのが もっとも効率が良く、「本能寺の変」がもし彼らの知るところであったとしても、織田家の 中枢の人間である秀一を、織田家の将来がまったく混沌としてしまっているこの状況で粗略 に扱うような者はいないであろう。

「しかし、問題は、伊賀でござる」

 秀一は言った。
 伊賀国(三重県伊賀地方)は、天正9年、信長によって全土を擂り潰すようにして攻められ、 女子供を問わず数万の人間が虐殺された。徹底した合理主義者だった信長は、胡散臭い「伊 賀者」と呼ばれる連中を好まず、これを根絶やしにしようとしたのである。このことから、 伊賀国の人間は、信長と織田勢力というものを憎悪し抜いていた。
 家康は伊賀攻めには参加しなかったし、昔から忍びなどを通じて伊賀や甲賀の地侍とは少 なからず繋がりを持っているのだが、信長の同盟者であることには違いなく、その意味では 織田勢力の一角を担っている。信長に恨みを持つ伊賀の地侍たちが、家康に対して復讐を果 たそうとしたとしても、なんの不思議もないのである。

「そのことは、拙者にお任せくだされよ」

 重臣たちの中から、服部半蔵が口を挟んだ。

「拙者は三河の産でござるが、父 保長は、元は伊賀の地侍ゆえ、かの地には縁故も知己も多 うござる。殿さまの無事、必ず話をつけて御覧に入れる」

 これで、話は決まった。
 長谷川秀一は、通り道になるであろう山城(京都府南部)の有力豪族に対してすぐさま急使 を発し、一行はその後を追うようにして東進を始めた。




53 へ

戻る


他の本を見る

カウンターへ行く


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp