歴史のかけら


合戦師

51

 服部平太夫が堺の松井友閑の屋敷に息も絶え絶えになって駆け込んだのは、天 正10年(1582)6月2日の午前9時ごろのことである。家康は、長谷川秀一、穴山梅雪と共に 今井宗久の屋敷へと招かれ、朝茶の接待を受けているところであった。

 松井友閑の屋敷でこの変報を受けた徳川家の重臣たちは、蒼白になった。

「ともかくも、このことを殿さまにお伝えせねば!」

 三河者たちは、堺の人間の中で、もっともこの情報を早くに受け取ったわけである。しか し、三河者たちの食えないところは、この大変報を織田家の執政官である松井友閑にさえ伝え ず、何食わぬ顔で家康の元へと使者を走らせたことであった。

(この状況では、誰が味方で誰が敵になるか、わからぬ)

 という恐怖が、三河者たちにはある。「信長の死」という新たな政治状況によって、た とえば松井友閑でさえ、光秀の元で生き残るために家康を売らぬとも限らないのである。彼 らにとって頼れるのは天地に家康一人しかなく、「本能寺の変」の情報をどう処理し、これを どう利用し、誰に伝えるかという判断は、家康だけがすべきことであった。

 この重要な使者には、平八郎が選ばれた。
 平八郎は徳川家の重臣の中では榊原康政と共にもっとも若く、動きが機敏で機転が利き、 また人当たりも悪くない。堺の通りを騎馬で駆け抜けるのは非常識ではあったが、時が時で ある。平八郎は、凄まじい勢いで馬に鞭を入れた。
 今井宗久の屋敷は堺の豪商であるだけに瀟洒で、広壮な敷地には茶亭のための四阿(あずま や)がわざわざ別棟で建てられている。平八郎は屋敷の者に案内を請い、敷地の隅に建てられ た茶亭に玉砂利を踏みつつ近づき、片膝をついて躙り口の戸を薄く開けた。

「本多平八郎でござりまする。お楽しみのところ、まことに恐縮ではござりますが、主君 三 河守のお耳に入れたき儀、これあり。ご亭主さまには、ご諒解いただけますや否や」

 茶室の中というのは、浮世の身分がない。あるのは亭主と客という関係だけであり、大名 である家康や、甲斐源氏の貴人と言っていい穴山梅雪といえど、町人に過ぎない今井宗久と 身分的な上下が消失するのである。あくまでも、亭主の意向を優先せねばならい。

「・・・平八郎」

 家康は、嗜めるような声を上げた。失礼であろう、という叱る響きをその声音に込め た。叱っているということを、今井宗久や同席している梅雪らに聞かせることが目的であっ た。しかし家康は、平八郎の声から何事かを敏感に察していた。

「ご亭主殿、我が家の者は、みな三河の田舎者ゆえ、無礼を許されよ」

 家康は平八郎の非礼を詫び、宗久に断わって茶亭を出ると、休息所として与えられていた 部屋へ平八郎を導いた。

「いかにしたのじゃ?」

「お耳を、拝借願わしゅう」

 平八郎は、家康の耳に、「本能寺の変」を吹き込んだ。


 その瞬間、家康は、すべての機能が停止した。
 そうとしか思えぬほど、この男は凝然と凝り固まっていた。巨大な目がこれ以上なく見開 かれ、半開きになった口からはいかなる声も漏れなかった。
 やがて――ずいぶんと時間を置いて――ゆっくりと平八郎に瞳を向け、目だけで事の真 偽を問うた。

(間違いはないのか?)

 という目であり、表情であった。
 平八郎は、無言で頷いた。実際に京にいた服部平太夫がもたらした情報を、疑うわけには いかないであろう。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 家康は、まだ声が出ない。
 それも、当然であったろう。

(なんということだ・・・・!)

 家康は、生涯を懸けて営々と築き上げてきたものが、瞬時に音を立てて崩れ去っ たように思った。

 家康はこれまで、信長に対して卑屈なまでに誠実に振る舞い、振舞うことで三河武士たち の忠良さと勤勉さと律儀さを宣伝し、自分たちの無害さと有益さを印象付けてきた。それが、 この乱世においては弱者にとって最良の保身の方法であり、信長という苛烈すぎる強者と同 盟した家康にしてみれば唯一と言っていい徳川家の経営方針でさえあった。
 逆に言えば、家康は、「徳川家の舵取り」ということについて、信長に精神的に頼り切っ ている部分があった。どこまでも信長という天才に付き従い、その忠実で優良な弟分である ことによって徳川家を守っていこうと心に決めていたし、現にこれまではそうしてやってき た。家康にとって、信長が天下を獲るであろうことは、ほんの数分前までは疑いがないこと であり、その前提の上に見えていた徳川家の未来も間違いなく安泰なものであった。そして、 その未来があるからこそ、これまでの苦労と辛抱が辛うじて救われていたのである。
 しかし、この一瞬で、これまで辛抱を重ねて積み上げてきたものが粉々に瓦解し、描いて いた未来がすべて消し飛んだ。

 家康という男は、その一身で徳川家を背負っている。それは、徳川家の将士とその家族の 生命、財産、そして名誉と未来を背負っているということであり、徳川領に住むすべての地 下(じげ)の人々の生活の安全を背負っているということでもあった。家康は、その重すぎる 荷物を背負っているという自覚があるからこそ、信長からどんな苛烈な要求を受けてもそれ に応えてきたし、徳川家を潰さぬためであれば、たとえば糟糠の妻でも殺し、最愛の長男さ え自刃させた。
 そうまでして信長の信頼を勝ち取ったにも関わらず、その当の信長が、まったく予期せず 死んでしまったのである。信長がこの世から消滅したということは、徳川家の2万を超える 将兵と、10万を優に越えるであろうその家族たちは、織田家という強大な後ろ盾を瞬時にし て失ったことになる。
 家康は、彼らに対するすべての責任が、この一瞬で自分一人の背中に圧倒的な重圧でのし掛 かってきたように思えた。

(それだけではない・・・・!)

 やがて、家康はそこに思い至った。
 信長が死んだ以上、堺いる家康主従は、裸で戦場に放り出されたようなものであった。 光秀は、すでに家康たちを捕らえようと軍勢を派遣しているかもしれず、畿内の街道を押さ えてしまっているかもしれず、土地土地の大名や領主に家康主従の追捕を通牒しているかも しれない。どれほどの勢力がこの光秀の謀反に加担し、協力を約束しているかは想像もでき ないが、たとえば家康たちを襲撃し、その首を出世の手土産にしようとするような輩が群が り出るであろうことは間違いがなく、その意味において、大名ばかりか野武士や土民 たちまでが家康一行の敵でなのである。今の家康にとって、安全な場所というのは世界に彼 の領国以外にないのだが、家康の不幸は、自分の領国から200km近くも離れた堺に文字通り 漂白し、軍勢も持たず、身を守るすべさえないということであった。

(もはや、これまでか・・・)

 家康は、心の底まで打ちひしがれていた。
 一時に、これまでの疲れが噴出したようであった。
 すべての荷物――責任と義務とを、放り出したくなっていた。

「・・・・・・・・・・知恩院に登り、腹を切る」

 やっと、それだけを言った。
 京の華頂山にある知恩院は、家康の宗旨である浄土宗の開祖 法然上人が開いた寺で、浄 土宗の総本山である。浄土宗の信者にとってはもっとも浄土に近い場所であり、同じ死ぬな ら、落ち武者狩りの名もない土民の錆槍にかかって惨めに殺されるよりは、信長の後を追い、 知恩院で武士らしく自害して果てる方がよほどにマシであろう。
 余談だが、この時からほんの50年ほど前の知恩院の門主であり、浄土宗中興の祖と言われ た超誉存牛は、家康と血縁関係がある。存牛上人というのは、後柏原天皇から厚く信頼され、 その導師になったほどの日本仏教史上の人なのだが、これが家康の5代前――松平親忠の子 供なのである。家康もそのことは当然知っており、この存牛上人を松平一族の誇りとして いた。そういう縁もあって、とっさに知恩院から浄土へ渡ろうと思ったのであろう。

「・・・織田殿と、死を共にする」

「それはなりませぬ!」

 平八郎は決然と言い放った。

「殿さまには、なさらねばならぬことがござるはず!」

 家康は、呆然と平八郎を見た。

「一刻も早く三河に馳せ帰り、軍勢を催し、明智光秀と決戦して右府様(信長)のお恨みを晴 らし参らせよ!」

 信長の仇討ちをせよ――と平八郎は言った。
 「復讐」というこの言葉は、武士にとっては至高の響きを持っている。世に復讐に優る 「正義」はなく、仇討ちほど武士の血を滾らせるものは他にない。この言葉を聴いた瞬間、 家康の思考はようやく動き始めた。

「・・・その通りじゃ。死は、無意味である。わしは、なんとしても国へ帰る」

「おぉ! よう申してくだされた!」

 平八郎の顔が、希望で輝いていた。

「この平八郎がおる限り、必ず殿さまを無事に三河までお連れ申しまする!」

 家康は、あらためて平八郎を見た。
 考えてみれば、平八郎とは不思議な男であった。

 平八郎は、越前で敵中に取り残されたときは全軍の殿(しんがり)になり、「姉川」では 1万の朝倉勢にたった1騎で突撃した。「信玄西上」のとき、「一言坂」では一手で武田軍 の猛攻を支え、「三方ヶ原」では最後まで天下最強の信玄の軍勢を相手に戦った。また「長 篠」をはじめとする多くの合戦で、全軍の先頭に立って真っ先に敵に突っ込んで行った。平八郎 は、戦国というこの時代のもっとも苛烈な戦場を軒並み経験し、しかも常に最前線 でもっとも過酷な役割と部署をこなしているにも関わらず、そのいずれの戦場からも、傷一 つ負わずに帰ってきたのである。
 これを、不思議と言わずして何と言うべきであろう。

(平八郎がおれば、なんとかなるかもしれぬ)

 と、理屈を越えて、家康は思った。
 あの武田信玄の軍勢相手にいかなる傷も受けなかったこの男が、土民の錆槍などで死ぬわけ がないではないか――

 家康は、腹が据わった。


 家康は、穴山梅雪、長谷川秀一らを伴って、すぐさま松井友閑の屋敷に引き返した。

「本能寺でのこと、聞いた」

 重臣一同を前に、家康は言った。

「わしは、落人狩りの錆槍にかかって後世に恥を残すよりは、知恩院に入り、腹切って織田 殿と死を共にしようと思うた」

 一同は、固唾を呑んで家康の言葉を聴いていた。

「しかし、平八郎が、織田殿の仇を討てと言うた。それで、気が変わった。これより直ち に三河へ帰る」

 満座に、声にならないどよめきが起こった。

 家康は、松井友閑に会い、信長からの呼び出しがあり、すぐさま堺での日程を終えなけれ ばならなくなったと嘘を吐き、堺での残る接待をすべてキャンセルしてもらうよう要請し た。同様に、長谷川秀一、穴山梅雪に、ただちに堺を出立する旨を伝え、大急ぎでその支度 に掛からせた。
 茶屋四郎次郎が堺に向かっているという情報も、家康は確認している。
 家康は、平八郎に、一行から先行して四郎次郎を迎えに出るよう命じた。服部平太夫の話 では、四郎次郎は大量の銭を運んでいるという。いくら非常時であるとはいえ、無用心に過 ぎるだろう。
 平八郎は、長谷川秀一が連れていた護衛兵を10人借り、すぐさま堺を発った。

「本能寺の変」の情報というのは、まだ堺までは伝わっていない。
 家康は、情報の伝播のスピードとの競争であると思った。「本能寺の変」と信長の死を知 らない者たちにとって、家康というのは織田家にとっての貴人であり、これを丁重に持て成 さない者はないであろう。しかし、その情報が伝わってしまえば、これはどういう風向きに なるか解らない。時間が過ぎれば過ぎるほど、家康たちの危険率は高まっていくのである。

 家康は、茶屋四郎次郎を拾うためにまず京方面を目指し、合流後はそのまま進路を東に 変え、山城(京都府)の南端を横断し、近江(滋賀県)の南をかすめ、伊賀を突っ切り、 鈴鹿山脈を越えて一直線に伊勢湾に出ようと思った。伊勢の海岸にさえ出てしまえば、船 の1艘や2艘はなんとかなるであろう。伊勢湾を渡れば、そこはもう三河なのである。

 家康は、後にこのときのことを述懐し、「生涯で最大の艱難だった」と語った。後世の 人は、この家康主従の200kmにも及ぶ逃避行を、「神君伊賀越え」と呼ぶ。




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