歴史のかけら
51松井友閑の屋敷でこの変報を受けた徳川家の重臣たちは、蒼白になった。 「ともかくも、このことを殿さまにお伝えせねば!」 三河者たちは、堺の人間の中で、もっともこの情報を早くに受け取ったわけである。しか し、三河者たちの食えないところは、この大変報を織田家の執政官である松井友閑にさえ伝え ず、何食わぬ顔で家康の元へと使者を走らせたことであった。 (この状況では、誰が味方で誰が敵になるか、わからぬ) という恐怖が、三河者たちにはある。「信長の死」という新たな政治状況によって、た とえば松井友閑でさえ、光秀の元で生き残るために家康を売らぬとも限らないのである。彼 らにとって頼れるのは天地に家康一人しかなく、「本能寺の変」の情報をどう処理し、これを どう利用し、誰に伝えるかという判断は、家康だけがすべきことであった。
この重要な使者には、平八郎が選ばれた。 「本多平八郎でござりまする。お楽しみのところ、まことに恐縮ではござりますが、主君 三 河守のお耳に入れたき儀、これあり。ご亭主さまには、ご諒解いただけますや否や」 茶室の中というのは、浮世の身分がない。あるのは亭主と客という関係だけであり、大名 である家康や、甲斐源氏の貴人と言っていい穴山梅雪といえど、町人に過ぎない今井宗久と 身分的な上下が消失するのである。あくまでも、亭主の意向を優先せねばならい。 「・・・平八郎」 家康は、嗜めるような声を上げた。失礼であろう、という叱る響きをその声音に込め た。叱っているということを、今井宗久や同席している梅雪らに聞かせることが目的であっ た。しかし家康は、平八郎の声から何事かを敏感に察していた。 「ご亭主殿、我が家の者は、みな三河の田舎者ゆえ、無礼を許されよ」 家康は平八郎の非礼を詫び、宗久に断わって茶亭を出ると、休息所として与えられていた 部屋へ平八郎を導いた。 「いかにしたのじゃ?」 「お耳を、拝借願わしゅう」 平八郎は、家康の耳に、「本能寺の変」を吹き込んだ。
(間違いはないのか?)
という目であり、表情であった。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
家康は、まだ声が出ない。 (なんということだ・・・・!) 家康は、生涯を懸けて営々と築き上げてきたものが、瞬時に音を立てて崩れ去っ たように思った。
家康はこれまで、信長に対して卑屈なまでに誠実に振る舞い、振舞うことで三河武士たち
の忠良さと勤勉さと律儀さを宣伝し、自分たちの無害さと有益さを印象付けてきた。それが、
この乱世においては弱者にとって最良の保身の方法であり、信長という苛烈すぎる強者と同
盟した家康にしてみれば唯一と言っていい徳川家の経営方針でさえあった。
家康という男は、その一身で徳川家を背負っている。それは、徳川家の将士とその家族の
生命、財産、そして名誉と未来を背負っているということであり、徳川領に住むすべての地
下(じげ)の人々の生活の安全を背負っているということでもあった。家康は、その重すぎる
荷物を背負っているという自覚があるからこそ、信長からどんな苛烈な要求を受けてもそれ
に応えてきたし、徳川家を潰さぬためであれば、たとえば糟糠の妻でも殺し、最愛の長男さ
え自刃させた。 (それだけではない・・・・!)
やがて、家康はそこに思い至った。 (もはや、これまでか・・・)
家康は、心の底まで打ちひしがれていた。 「・・・・・・・・・・知恩院に登り、腹を切る」
やっと、それだけを言った。 「・・・織田殿と、死を共にする」 「それはなりませぬ!」 平八郎は決然と言い放った。 「殿さまには、なさらねばならぬことがござるはず!」 家康は、呆然と平八郎を見た。 「一刻も早く三河に馳せ帰り、軍勢を催し、明智光秀と決戦して右府様(信長)のお恨みを晴 らし参らせよ!」
信長の仇討ちをせよ――と平八郎は言った。 「・・・その通りじゃ。死は、無意味である。わしは、なんとしても国へ帰る」 「おぉ! よう申してくだされた!」 平八郎の顔が、希望で輝いていた。 「この平八郎がおる限り、必ず殿さまを無事に三河までお連れ申しまする!」
家康は、あらためて平八郎を見た。
平八郎は、越前で敵中に取り残されたときは全軍の殿(しんがり)になり、「姉川」では
1万の朝倉勢にたった1騎で突撃した。「信玄西上」のとき、「一言坂」では一手で武田軍
の猛攻を支え、「三方ヶ原」では最後まで天下最強の信玄の軍勢を相手に戦った。また「長
篠」をはじめとする多くの合戦で、全軍の先頭に立って真っ先に敵に突っ込んで行った。平八郎
は、戦国というこの時代のもっとも苛烈な戦場を軒並み経験し、しかも常に最前線
でもっとも過酷な役割と部署をこなしているにも関わらず、そのいずれの戦場からも、傷一
つ負わずに帰ってきたのである。 (平八郎がおれば、なんとかなるかもしれぬ)
と、理屈を越えて、家康は思った。 家康は、腹が据わった。
「本能寺でのこと、聞いた」 重臣一同を前に、家康は言った。 「わしは、落人狩りの錆槍にかかって後世に恥を残すよりは、知恩院に入り、腹切って織田 殿と死を共にしようと思うた」 一同は、固唾を呑んで家康の言葉を聴いていた。 「しかし、平八郎が、織田殿の仇を討てと言うた。それで、気が変わった。これより直ち に三河へ帰る」 満座に、声にならないどよめきが起こった。
家康は、松井友閑に会い、信長からの呼び出しがあり、すぐさま堺での日程を終えなけれ
ばならなくなったと嘘を吐き、堺での残る接待をすべてキャンセルしてもらうよう要請し
た。同様に、長谷川秀一、穴山梅雪に、ただちに堺を出立する旨を伝え、大急ぎでその支度
に掛からせた。
「本能寺の変」の情報というのは、まだ堺までは伝わっていない。 家康は、茶屋四郎次郎を拾うためにまず京方面を目指し、合流後はそのまま進路を東に 変え、山城(京都府)の南端を横断し、近江(滋賀県)の南をかすめ、伊賀を突っ切り、 鈴鹿山脈を越えて一直線に伊勢湾に出ようと思った。伊勢の海岸にさえ出てしまえば、船 の1艘や2艘はなんとかなるであろう。伊勢湾を渡れば、そこはもう三河なのである。 家康は、後にこのときのことを述懐し、「生涯で最大の艱難だった」と語った。後世の 人は、この家康主従の200kmにも及ぶ逃避行を、「神君伊賀越え」と呼ぶ。
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