歴史のかけら


合戦師

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 天正10年(1582)5月21日早朝、家康たち一行は安土を発ち、その日のうちに京へ入った。 一行を護衛しながら先導したのは、信長の長男 信忠と、信長の側近の一人である長谷川秀一 である。
 上洛するや、物見高い京の人々によって都の大路には人垣ができ、みな群れ集まってこの 美々しい行列を見物した。

 往時を思い出し、平八郎は感慨ひとしおであった。
 今からちょうど20年の昔、「清洲同盟」を結ぶために清洲を訪れたとき、見物に集まった 人々は家康たち一行の装束のみすぼらしさに呆れ、「命乞いに来たか」と笑ったものであった。 しかし、いま都に集う見物客たちは、天下人である信長の唯一の同盟者である家康を天下第一等 の貴人として遇し、かの武田信玄にさえ屈しなかった「海道一の弓取り」としてその武勇を褒め そやした。
 三河者たちにとって、この日ほど誇らしいことはかつてなかったに違いない。

 家康たちは、織田家の京の執政官である村井貞勝や、御用商人である茶屋四郎次郎らの屋 敷に招待され、連日にわたって茶や酒肴の接待を受けた。昼間は京の名刹や名所を見物した りしながら、緩やかな時間を過ごした。京の公家である勧修寺晴豊の日記『日々記』によ ると、26日には信忠、梅雪らと共に清水寺で興行された能を見物に出かけている。
 周りに気を使わねばならない家康はともかく、徳川家の重臣たちにとっては、この京での 日々が、その前半生で唯一の遊楽の時間であったと言っていいかもしれない。

 一行は、この翌日に信忠と別れ、長谷川秀一に先導されて堺へと出発することになってい た。しかし、ここで軽いハプニングが起こった。風邪でもこじらせたのか、鳥居元忠が高熱 を出してしまい、とても旅を続けられる状態ではなくなってしまったのである。

「やむを得ぬ。彦右衛門(鳥居元忠)と何人かを京に残せ」

 家康としては、たった1人の家臣のために信長が立ててくれた旅程を変更するわけにもい かない。予定通りに行動せねば、京や堺で家康を接待するために配置されている織田家の人 間たちにいらぬ迷惑を掛けてしまうことになるのである。
 家康は、商人であり町人である茶屋四郎次郎に鳥居元忠を預け、身の回りの世話と連絡の ために数人の家臣を残し、予定通り京を発つことにした。

 後から思えば、こときの判断が家康の命を救うことになったと言っても、言い過ぎではな かったかもしれない。


 一行が堺に到着したのが、5月29日である。
 堺は、長崎の平戸と並んで日本屈指の大貿易都市であった。この町は、室町期以来、市民の 入れ札(投票)によって町の世話役が選出され、世話役たちの合議によって市政が行われてい る。信長はここに代官を置き、経済利潤を吸い上げ、有史以来初めて堺を支配した人物にな ったが、町の自治機能と市民たちの誇りまでは奪わず、闊達で自由な風姿はそのままの姿で 保たれていた。

 家康たち一行は、堺の執政官として派遣されている松井友閑の屋敷を宿所とした。
 松井友閑は祐筆(秘書)から次第に累進した信長の信頼厚い優秀な吏僚で、正四位下 宮内 卿法印という家康よりも高い官位を持っている。茶道に明るく、また人当たりが柔らかい 人物であったので、とくに見込まれて堺の代官という重要な役割を与えられ、また信長の 側近として堺と安土を頻繁に往復しながら畿内一帯の政務を掌握していた。

 友閑は、一行のために、堺を中心に集結中だった四国征伐軍をわざわざ町から移動させる ほどの気の配りようで、家康たちを下にもおかずに持て成した。

「このようなものは、もはやお珍しくもありませぬでしょうが・・・」

 友閑は、堺土産として欧州や東南アジアの珍品を家康へ贈った。重臣たちは初めて見る 海外の珍宝に声を飲み、目を見張ったが、家康はさして驚いた様子もなく、ただ慇懃に頭を 下げていたという。家康はもともと実利一点張りの男で、豪華さや珍奇さを愛する ようなところがなく、またそれらを収集するような癖もなかったから、意外と本気でどうで もよかったのかもしれない。

 堺は、京と並んで富商、豪商が多く、また茶の湯の中心地であるためにそういう接待が多 い。信長に仕えている茶人だけでも、津田宗及、今井宗久、千宋易(利休)、長谷川宗仁、 山上宋二らがおり、他にも町衆で有力な者たちが家康との親交を持ちたがり、すでにびっし りと予定が組まれてしまっていた。
 家康たちは、この堺で数日を過ごし、もし信長に会うことが可能であれば再び帰路に安土 か京で接待のお礼を言上し、来た道を通って領国へと帰ることになっていた。信長の予定は 軍事行動であるだけに流動的で、家康がそれに合わせて行動することは不可能だったのであ る。

 家康は、6月1日には朝から津田宗及に招かれ、昼は松井友閑の屋敷で幸若舞いの能を鑑 賞し、夜の茶会の接待を受けた。目の回るような忙しさだが、翌6月2日の朝には、今度は 今井宗久に朝茶の招きを受けている。
 この6月2日の早朝、明智光秀の謀反によって信長は本能寺で横死し、信忠も二条城で切 腹しているのだが、無論 堺にいる一行はそんなことは夢にも思わない。
 家康はわずかな供回りだけを連れ、穴山梅雪、長谷川秀一ら共に時間を守って今井宗久邸 を訪問し、清涼な朝の空気の中で名人のたてた茶を喫していた。

 家康の家臣で「本能寺の変」を最初に探知したのは、皮肉にも体調を崩して京都に留ま った鳥居元忠だった。
 その夜、京は灰神楽の舞うような騒ぎであった。暗闇に轟然と銃声が鳴り渡り、本能寺、 二条城が共に焼け、その炎が闇夜を焦がした。家財道具を担いで逃げ惑う者、見物に集まる 者、この情報を知らせに走る者などで辻々は大混乱となり、夜が明ける頃には水色桔梗紋の 大軍勢によって京のすべての入り口が封鎖された。

「惟任 日向守(明智光秀)殿、ご謀反!」

 という速報は瞬く間に駆け巡り、夜が明けきったころには、すでに信長の死を知 らぬ者は京にはなかった。

「終わりじゃ・・・・」

 静養していた茶屋四郎次郎の屋敷でこの報を受けた鳥居元忠は、呆然とした。
 あの信長が死んだという。しかも、ほんの数日前まで行動を共にしていた信忠までもが殺 されたという。そしてそれをしたのが、わずか十数日前に自分たちを接待してくれていた 明智光秀であるという。天地がひっくり返るとは、まさにこういうことを言うのであ ろう。

「もはやこれまでじゃ。明智の兵に捕らえられて殺されるよりは、わしは腹を切って死ぬぞ」

 元忠にしてみれば、他にどうすることもできなかったであろう。三河に帰れば堂々たる物頭 であり、ときに数千の兵を指揮することもある元忠だったが、この京には彼の兵は1兵もなく、 頼るべき何者もないのである。しかも、京は明智軍によって封鎖されるであろうし、家康一 行の捜索もすぐさま始められるであろう。家康からさえはぐれてしまっていた元忠は、文字 通り進退窮まった。

 信長の同盟者である家康というのは、明智軍にとっては目下の最大の目標であったと言っ ていい。これまでの信長と家康の繋がりの深さを考えれば、家康が信長を殺した光秀に敵対 することは間違いがなく、光秀としては、家康が軍勢さえ率いず堺をうろうろしている間に これを殺してしまいたい。家康を殺すことさえできれば、世継ぎすら定まっていない徳川家 は瞬く間に空中分解を起こし、光秀にとって怖い勢力ではなくなるのである。
 逆に言えば、家康さえ殺せるのであれば、鳥居元忠などは光秀にとってはどうでも良い存 在であった。しかし、当の本人はそうは思わないであろう。京にいる自分が真っ先に捕ら えられ、殺されると思ったとしても無理はない。

「鳥居様! うろたえなされたか!」

 声を励ましたのは、連絡役として残されていた服部平太夫という伊賀者であった。

「鳥居様がお腹を召されるのは勝手でござるが、今は、堺におる浜松様(家康)にこの大事をお 知らせすることこそ急務! 腹を召されるのは、その後でも遅くはござるまい!」

 この一言で、元忠は我に帰った。今はなんとしても、家康を三河まで無事に落とさねばな らないと、ようやくそこに思い至ったのである。

 この事態に、もっともうろたえていたのは、商人の茶屋四郎次郎であった。彼は織田家の 呉服の御用商人であり、信長や公達たちの宮廷衣装を一手に引き受けて巨利を得ていた男で ある。「信長の死」は、彼の事業の崩壊を意味するであろう。
 茶屋四郎次郎は、商人として生き残るための方策を懸命に考えていた。

「平太夫、われは今すぐ堺まで馬を飛ばせ! 殿様をお守りし、なんとしても三河までお落 とし申すのじゃ。殿様には、『わしらのことは、ご配慮無用』と伝えよ!」

「承って候!」

「私も、堺へ参り、三河守様(家康)のお力添えをさせていただきとうございます!」

 四郎次郎は言った。
 これには、鳥居元忠も驚いた。

「しかし、茶屋殿、それではそこもとの身が危ない」

 当然であろう。この状況下で家康に合力をするということは、京を押さえた明智光秀に 公然と反逆するということなのである。新政権を立てるであろう光秀に擦り寄ろうとするな らまだしも解るが、これに歯向かうというのは、すでに商人のすることではない。
 しかし、四郎次郎にはそれなりの展望がある。
 光秀は確かに信長を殺し、京を押さえはしたが、四郎次郎はこの新政権が長続きすると はとうてい思えなかった。光秀がしたのは、どういう理由を後付けしようが公然とした「主 殺し」であり、倫理的にいっても世間の評判は最悪なのである。いずれこの光秀の政権は反光 秀勢力によって滅ぼされるに違いなく、滅ぼされるであろう光秀に結びつくほど愚かな選択 はない。
 そして、その反光秀勢力の巨頭となり得る最有力者こそが、家康なのである。
 家康は、信長の同盟者であり、その意味では信長と同じ高さにいるこの世で唯一の人間で あった。明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家などの織田家の軍団長たちはみな信長の家来であ り、信長と同じ高さにいる家康から見れば一段格が下がる。光秀打倒の旗を掲げるというこ とにおいて、家康ほどの明確な理由を持つ者は信長の息子たちを除けば他になく、その信長 の息子たちはといえば、愚昧と評判であり、とても天下を背負う器であるとは思えない。

(次の天下を誰が取るにせよ、家康様に貸しを作っておいて損にはならぬ)

 という冷徹な計算が商人としての四郎次郎にはあり、また男としては、世話になった信長 を殺した光秀に一矢報いたいという気持ちもある。ここは、大きなリスクを背負ってでも家康 に投資し、将来に対する賭けをしようと思った。

「商人には、商人の得手というものがございます。また、銭があれば、道中なにかと便利で ございます。必ずお役に立てると思います」

 四郎次郎は元忠の制止を聞かず、積める限りの銭を馬に括りつけるよう使用人に命じた。

「そうまで言われるならば・・・」

 元忠は、この商人の行動を義侠心からのものと見、単純に感動した。四郎次郎の両手を 握り、涙をさえ流して道中の無事を祈った。

「わしは、二度と再び殿さまに逢えぬやもしれぬ。茶屋殿、よろしくお頼み申しましたぞ」

 服部平太夫は、茶屋四郎次郎に馬を借り、まだ夜の明けきらぬまに京を脱出し、一散に堺ま でを駆け通した。
 これに続いて駆け出した四郎次郎は、零れるほどの銭のせいで馬の身が重く、平太夫から 3時間近くも遅れてしまうことになったが、無事に家康たちとの合流を果たすことができ たのだった。

 ちなみに鳥居元忠は、この後、家老らと共に愛宕山に逃れ、明智光秀が羽柴秀吉によ って滅ぼされた後、無事に三河へと帰りついている。




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