歴史のかけら
50上洛するや、物見高い京の人々によって都の大路には人垣ができ、みな群れ集まってこの 美々しい行列を見物した。
往時を思い出し、平八郎は感慨ひとしおであった。
家康たちは、織田家の京の執政官である村井貞勝や、御用商人である茶屋四郎次郎らの屋
敷に招待され、連日にわたって茶や酒肴の接待を受けた。昼間は京の名刹や名所を見物した
りしながら、緩やかな時間を過ごした。京の公家である勧修寺晴豊の日記『日々記』によ
ると、26日には信忠、梅雪らと共に清水寺で興行された能を見物に出かけている。 一行は、この翌日に信忠と別れ、長谷川秀一に先導されて堺へと出発することになってい た。しかし、ここで軽いハプニングが起こった。風邪でもこじらせたのか、鳥居元忠が高熱 を出してしまい、とても旅を続けられる状態ではなくなってしまったのである。 「やむを得ぬ。彦右衛門(鳥居元忠)と何人かを京に残せ」
家康としては、たった1人の家臣のために信長が立ててくれた旅程を変更するわけにもい
かない。予定通りに行動せねば、京や堺で家康を接待するために配置されている織田家の人
間たちにいらぬ迷惑を掛けてしまうことになるのである。 後から思えば、こときの判断が家康の命を救うことになったと言っても、言い過ぎではな かったかもしれない。
家康たち一行は、堺の執政官として派遣されている松井友閑の屋敷を宿所とした。 友閑は、一行のために、堺を中心に集結中だった四国征伐軍をわざわざ町から移動させる ほどの気の配りようで、家康たちを下にもおかずに持て成した。 「このようなものは、もはやお珍しくもありませぬでしょうが・・・」 友閑は、堺土産として欧州や東南アジアの珍品を家康へ贈った。重臣たちは初めて見る 海外の珍宝に声を飲み、目を見張ったが、家康はさして驚いた様子もなく、ただ慇懃に頭を 下げていたという。家康はもともと実利一点張りの男で、豪華さや珍奇さを愛する ようなところがなく、またそれらを収集するような癖もなかったから、意外と本気でどうで もよかったのかもしれない。
堺は、京と並んで富商、豪商が多く、また茶の湯の中心地であるためにそういう接待が多
い。信長に仕えている茶人だけでも、津田宗及、今井宗久、千宋易(利休)、長谷川宗仁、
山上宋二らがおり、他にも町衆で有力な者たちが家康との親交を持ちたがり、すでにびっし
りと予定が組まれてしまっていた。
家康は、6月1日には朝から津田宗及に招かれ、昼は松井友閑の屋敷で幸若舞いの能を鑑
賞し、夜の茶会の接待を受けた。目の回るような忙しさだが、翌6月2日の朝には、今度は
今井宗久に朝茶の招きを受けている。
家康の家臣で「本能寺の変」を最初に探知したのは、皮肉にも体調を崩して京都に留ま
った鳥居元忠だった。 「惟任 日向守(明智光秀)殿、ご謀反!」 という速報は瞬く間に駆け巡り、夜が明けきったころには、すでに信長の死を知 らぬ者は京にはなかった。 「終わりじゃ・・・・」
静養していた茶屋四郎次郎の屋敷でこの報を受けた鳥居元忠は、呆然とした。 「もはやこれまでじゃ。明智の兵に捕らえられて殺されるよりは、わしは腹を切って死ぬぞ」 元忠にしてみれば、他にどうすることもできなかったであろう。三河に帰れば堂々たる物頭 であり、ときに数千の兵を指揮することもある元忠だったが、この京には彼の兵は1兵もなく、 頼るべき何者もないのである。しかも、京は明智軍によって封鎖されるであろうし、家康一 行の捜索もすぐさま始められるであろう。家康からさえはぐれてしまっていた元忠は、文字 通り進退窮まった。
信長の同盟者である家康というのは、明智軍にとっては目下の最大の目標であったと言っ
ていい。これまでの信長と家康の繋がりの深さを考えれば、家康が信長を殺した光秀に敵対
することは間違いがなく、光秀としては、家康が軍勢さえ率いず堺をうろうろしている間に
これを殺してしまいたい。家康を殺すことさえできれば、世継ぎすら定まっていない徳川家
は瞬く間に空中分解を起こし、光秀にとって怖い勢力ではなくなるのである。 「鳥居様! うろたえなされたか!」 声を励ましたのは、連絡役として残されていた服部平太夫という伊賀者であった。 「鳥居様がお腹を召されるのは勝手でござるが、今は、堺におる浜松様(家康)にこの大事をお 知らせすることこそ急務! 腹を召されるのは、その後でも遅くはござるまい!」 この一言で、元忠は我に帰った。今はなんとしても、家康を三河まで無事に落とさねばな らないと、ようやくそこに思い至ったのである。
この事態に、もっともうろたえていたのは、商人の茶屋四郎次郎であった。彼は織田家の
呉服の御用商人であり、信長や公達たちの宮廷衣装を一手に引き受けて巨利を得ていた男で
ある。「信長の死」は、彼の事業の崩壊を意味するであろう。 「平太夫、われは今すぐ堺まで馬を飛ばせ! 殿様をお守りし、なんとしても三河までお落 とし申すのじゃ。殿様には、『わしらのことは、ご配慮無用』と伝えよ!」 「承って候!」 「私も、堺へ参り、三河守様(家康)のお力添えをさせていただきとうございます!」
四郎次郎は言った。 「しかし、茶屋殿、それではそこもとの身が危ない」
当然であろう。この状況下で家康に合力をするということは、京を押さえた明智光秀に
公然と反逆するということなのである。新政権を立てるであろう光秀に擦り寄ろうとするな
らまだしも解るが、これに歯向かうというのは、すでに商人のすることではない。 (次の天下を誰が取るにせよ、家康様に貸しを作っておいて損にはならぬ) という冷徹な計算が商人としての四郎次郎にはあり、また男としては、世話になった信長 を殺した光秀に一矢報いたいという気持ちもある。ここは、大きなリスクを背負ってでも家康 に投資し、将来に対する賭けをしようと思った。 「商人には、商人の得手というものがございます。また、銭があれば、道中なにかと便利で ございます。必ずお役に立てると思います」 四郎次郎は元忠の制止を聞かず、積める限りの銭を馬に括りつけるよう使用人に命じた。 「そうまで言われるならば・・・」 元忠は、この商人の行動を義侠心からのものと見、単純に感動した。四郎次郎の両手を 握り、涙をさえ流して道中の無事を祈った。 「わしは、二度と再び殿さまに逢えぬやもしれぬ。茶屋殿、よろしくお頼み申しましたぞ」
服部平太夫は、茶屋四郎次郎に馬を借り、まだ夜の明けきらぬまに京を脱出し、一散に堺ま
でを駆け通した。 ちなみに鳥居元忠は、この後、家老らと共に愛宕山に逃れ、明智光秀が羽柴秀吉によ って滅ぼされた後、無事に三河へと帰りついている。
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