歴史のかけら


合戦師

 平八郎 忠勝の初陣は13歳。後世有名になる「桶狭間」であった。

 いわゆる「善徳寺の会盟」によって、甲斐の武田信玄、小田原の北条氏康との間で攻守同盟 を成立させた今川義元は、後顧の憂いがなくなったことを機に、念願であった京都への出兵を 決めた。

「京に今川の旗を立て、将軍を擁し、天下に号令する」

 戦国に生きる武将にとっては、究極の夢であったろう。
 今川家にとっても有史以来のこの壮途に、家臣たちは狂喜した。

「いよいよお屋形さまが、天下をお獲りなさる!」

 事実、そうなるはずであった。
 三河の武士たちを先頭に、今川家の軍勢が槍を揃えて進軍すれば、“うつけ”が相続したと いう尾張の織田家などは一撃の元に粉砕できるであろうし、近江の六角や京の三好党などは 戦わずして頭を垂れ、義元の前に馬を繋ぐことになるだろう。

 義元の対織田戦略は重厚であった。
 三河は今川領だが、境川を越えると尾張になる。この尾張に入ったすぐに、沓掛城、鳴 海城、大高城という3つの小城が並んでいて、連年に渡って織田と今川の争奪戦が繰り返され ていたのだが、義元は尾張侵攻に先立ち、まずこの3城をすべて攻略あるいは調略し、付近 の豪族を吸収することに成功した。
 また水軍を使って伊勢湾を横断、別働隊を遠く尾張の西端に送り、海西郡を攻略させ、この 軍勢を使って織田家の主城である清洲城を挟み撃ちにする体勢を示した。
 織田方では、尾三国境の3城の有機的な連絡を絶つため、大高城に鷲津砦、丸根砦という 2つの砦を設け、また鳴海城には丹下砦、中島砦、善照寺砦を置き、今川方を牽制してはい たが、不意に西側に出現した今川勢にまではとても手が回らず、さらに今川義元がいよいよ 本格的に西上しはじめたという諜報が入るにおよび、家中は大混乱していた。

「まず手始めに、丸根砦、鷲津砦を陥す」

 というのが義元の方針であった。
 大高城には今川家の鵜殿長照を守将に2千の兵を篭めていたのだが、これが丸根、鷲津の 両砦によって封鎖されてしまったため兵糧が尽きかけ、しきりに救援要請が来ていたのであ る。

「兵糧を大高城へ運び入れ、鵜飼らと合流したのち、すぐさま丸根砦、鷲津砦を攻略せよ」

 という命令が、家康の元へ届けられたのは、永禄3年(1560)の春である。
 家康が率いる三河岡崎衆と、同じく先鋒である朝比奈泰能隊、井伊直盛隊を含め総勢2千 4百が、最前線基地である沓掛城に入ったのが5月の半ば。
 平八郎はこの時、家康の側にいた。家康直属の旗本(親衛隊)に組み入れられていたので ある。

(華々しき活躍を・・・!)

 初陣だけに気負い立つ平八郎だったが、仕事は兵糧を積んだ荷駄の護衛であった。
 家康は、全軍を6つに分け、丸根、鷲津の両砦と、さらに少し離れた織田方の寺部城とを 同時に攻撃させた。
 無論、すべて陽動である。織田方はそれぞれの防戦に振り回され、家康の意図にはまった く気が付かなかった。
 平八郎たちは楽々と、大高城への兵糧入れを成功させたのだった。

「これでは働く場所がないではないか・・・」

 落胆する平八郎に、軍議から帰ってきた家康が苦笑しながら言った。

「我らは明日、払暁を待って丸根砦を攻めることになった。わしの側におっては手柄を立てる ことも難しかろう。鍋は、明日は忠真に合流せよ」

「叔父御の陣から戦に出てもよろしゅうござりますか!?」

「“平八郎”がおれば、本多の男どもも勇み立とう。鍋、見事功名いたせ」

 実の弟を見るような優しい目で、家康は言ってくれたのだった。


 丸根砦は、剛勇で聞こえた佐久間盛重率いる織田軍4百が守備していた。
 家康率いる三河岡崎衆は、早朝から火の出るような勢いでこれを攻め、わずか3時間で陥 落させた。
 平八郎は、忠真率いる本多隊と共に第三陣に属し、下知に従って突撃したのだが、 異常な興奮のために頭が真っ白になり、なにがなにやら解らぬままに忠真の側を必死で駆け 回り、気が付いたときには味方の鬨(とき)の声を聞いていた。
 1人の武者が、佐久間盛重の首を刀に突き刺し、天に高々と掲げている。
 砦の大手門のへと至る山道で、平八郎は呆然とそれを見上げていた。

「鍋・・・いや、平八郎殿、お味方の攻め太鼓、引き太鼓の音が聞こえたか?」

 傍らに、全身黒の鎧を着込んだ忠真が立っていた。

「・・・いえ・・・いっこうに・・・」

「初陣とはそういうものじゃ」

 忠真は笑っていた。

「やがて戦に慣れれば、お味方の太鼓の音も聞こえ、貝の音も聞こえ、敵の兜の下の目鼻の 形までも見えるようになる。そうなって初めて、“戦人(いくさびと)”と呼ばれるように なるのだ」

 忠真は平八郎の背中をバンバンと叩いた。

「ともあれ、お味方の大勝利じゃ。平八郎殿、おぬしも鬨を上げよ!」

 何もできなかった不甲斐なさへの憤りと恥ずかしさを腹の中から搾り出すように、平八郎は 喉も裂けよとばかりに鬨を絶叫したのだった。


 丸根砦を陥した家康は、兵にしばしの休息を与えながら、すぐさま今川義元へと伝令を 送った。
 義元の本隊の兵力はほぼ2万。今朝がたすでに沓掛城を出、今頃は桶狭間山に本陣を据え、 手勢を繰り出して鳴海城の善照寺砦と中島砦を攻撃しているはずであった。
 本隊は、小城をひとつひとつ確実に攻め潰し、じわりじわりと清洲へと進軍していく。 同時に西側からも、清洲へと別働隊が攻めあがってゆく手はずになっている。「海道一の弓 取り」の、まさに“横綱相撲”であった。
 家康も、この義元の戦略には全幅の信頼を置いていた。

「もはや、織田殿もこれまでであろう」

 誰もが、当然のようにそう思っている。
 織田の軍勢は、どう掻き集めてもせいぜい5千。この兵力差を考えれば、主城である清洲に でも兵力を集中し、篭城するよりほか手はないはずである。

 伝令の将校が駆け戻ってきたのは、家康が、若干早めの昼食をとっていた頃であった。

「お屋形さまよりのお言葉をお伝えいたします!」

 全身汗だくになった将校は、肩で息をしながら大声で言った。

「『骨折り、大儀である。岡崎殿(家康)を大高城代に任ずる。そのまま速やかに大高城に 入り、鵜飼長照と交代し、鵜飼には本隊と合流するよう伝えよ』というお言葉でご ざりました!」

「承知した。役目、大儀!」

 家康はさっそく岡崎衆を纏め、行軍順序を定めると、早々に大高城へと引き上げを開始し た。
 行軍途中、雲1つなかった天が俄かに曇り、たちまち大粒の雨が激しく降り始めた。

「暑くてかなわなんだところじゃ。叔父御、恵みの雨でございますな」

 中軍を往く平八郎は、無邪気に喜んだ。

 この直後、今川の本隊は織田軍の捨て身の攻撃を受けて壊乱し、義元も討ち取られ、この世 から消えてしまうことになるのだが、家康はもちろん、平八郎も、そんなことは知るよしも なかった。




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