歴史のかけら
49(徳川殿に富士を見せてもろうたからには・・・) 信長は、家康とその重臣たちを自分の本拠である上方に招き、京や堺を見物させてやろう と思った。信長自身は古臭い京文化になんの感心もなかったのだが、三河の田舎者たちには それなりに趣深いものであろうし、堺では信長が大好きな南蛮文化が花開いている。 「織田家の名に賭け、金銀を惜しまず、心を砕いて三河殿一行を接待致せ」 信長は、家康たちが通過するであろう土地の領主たちに厳しく命じた。目下の家康からあ れほど賑々しく、気配りの行き届いた接待をしてもらったからには、信長としては立場上、 その何倍もの返礼をせねば面子に関わるというものであろう。
天正10年(1582)5月11日、家康は、徳川家のそうそうたる重臣たち――酒井忠次、石川
数正、本多重次、大久保忠佐、榊原康政、鳥居元忠、高力清長、服部半蔵、渡辺守綱ら――
30数名と、10数名の小姓と共に、槍持ちや道具持ちたちを従え、平服で浜松を発った。
家康たちはまず尾張路を取って清洲に入り、そこから西に進路を変え、大垣、関ヶ原を経て
近江(滋賀県)へと向かった。
織田家の人間というのは、古くから三河者たちを見下すような気分を持っている。 「三河の連中などは、織田家の飼い犬のようなものだ」
というような気分が、織田家中にはいつしか出来上がってしまっている。律儀さというの
は、度が過ぎれば、ついには人から軽んじられてしまうということであろう。 (三河殿への接待に粗漏があれば、信長様からどのようなお叱りを受けるか解ったもので はない)
という恐怖が、土地土地の領主たちにはあり、また家康や三河者たちに不快な思いをさせ
るということは、この場合、天下人である信長の顔に泥を塗るということにさえなってしま
うであろう。彼らにとって、これほど怖ろしいことはなかったに違いない。 「なんとも行き届いた応接でございますな」 徳川家の重臣たちは、この丁重な持て成しぶりにすっかり気を良くしてしまったのだが、 「接待するよりも、される方が難しいものぞ。織田家の方々には慇懃の上にも慇懃に会釈を 返し、決して増長するようなことがあってはならぬ。ひたすらに恐縮し、ただただ恐れ入っ ておれ」
と、家康は毎日のように訓戒し、重臣たちを戒めることを忘れなかった。
「これは惟住(丹羽長秀)殿、わざわざのご接待、痛み入りまする」 酒肴の持て成しを受けながらも、家康は、まるで信長を相手にするようにしてへりくだり、 ことあるごとに頭を下げ続けた。この織田家の重臣の心証を、悪くしないように務めねばな らなかったのである。接待をされているはずの家康ではあったが、まったく気の休まる暇も なかった。
この翌日、一行は安土に入った。 光秀は、このとき54歳。美濃の斉藤氏の被官であったのだが、斉藤道三が長良川河畔で 子の義竜に殺されると美濃を去り、諸国を放浪した。やがて足利義昭の直臣となり、義昭と 信長の橋渡しをしたことから信長の目に留まり、抜擢されて織田家随一の出頭人になった。 この時代における屈指の教養人で有職故実に通じ、しかも外交が上手く、また鉄砲隊の 運用に精通し、軍事もまずくない。諸事物堅くそつのないキレ者で、羽柴秀吉と共に、その 才能をもっとも信長から愛されている男であった。 「日向守(明智光秀)殿、ご接待、まことに忝い。痛み入ります」
家康は丁重に会釈を返した。 「銭を惜しむなとは言うたが、贅沢を尽くせとは申しておらぬ。三河殿にそこまでの持て 成しをしたとあらば、朝廷から勅使(天皇の使者)をお迎えするときには如何にするつもり じゃ」 光秀がさすがに不服な表情を見せると、 「誤りを反省せぬのかっ!」 と激怒し、秘書役の森蘭丸に命じて鉄扇で頭をしたたかに打たせた。信長への誠意を表す つもりで莫大な銭を惜しげもなく使ったのだが、逆に面目を丸潰れにされた光秀は、額から 血を流しながら屈辱に耐えつつ、御前から引き下がらざるを得なかった。
このこととは別に、光秀は家康の接待から外されることになった。というのも、ちょうど
この頃、備中(岡山県西部)の高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉が、毛利本軍を誘き出すこ
とに成功していたのである。 手元から重臣が出払ってしまうことになった信長は、その日から自らが接待役になり、 家康とその重臣たちを安土城に招き、酒宴を設けて直々に持て成した。 「三河殿、よう参ってくだされた」 信長は上々の機嫌で、家康ばかりかその重臣たちの分まで右大臣である自らが立って膳を 運び、膳を据えながら一人一人に声を掛け、家康たちを大恐縮させた。 「思えば、夢のようでござりまするな」 上座で信長の隣に席を与えられた家康は、信長が呼んでくれた太夫の舞いを眺めながら、 柄にもなくほんの少しだけ酔った。 「織田殿が、まだ吉法師殿であった昔、戯れに、織田殿とそれがしとで、日の本の隅々まで を切り平らげようと言うてくだされたことがありましたなぁ・・・」 まだ家康が竹千代であり、織田家の人質であった遠い昔、奇矯な餓鬼大将だった信長は、 物静かな子供だった家康を変に気に入り、石合戦を間近で見せたり、弓の引き方を教えたり、 肩に担いでやったことさえあった。ほんの2年程度の短い付き合いではあったが、竹千代だ った家康は、この乱暴粗暴な少年を妙に慕い、誘われればどこまでもころころとついて行っ たものであった。 「三河殿は、古いことをよう覚えておる」 信長は笑った。 「もう35年になるか・・・」 「それがしは結局、たいした力にはなりませなんだが、織田殿はもはや、天下をお獲りなさ るところまで来てござりまする」 家康は、半ばは本気でそう思っている。自分が居ても居なくとも、信長が天下を目指して まっしぐらに走り続けたであろうことは間違いがない。そして、この天才であれば、 家康がいなければいないでそれなりの絵を描き、必ずやり遂げたであろう。 「いやいや・・今日のわしがあるは、徳川殿があってこそぞ」
信長は、くどい言葉を使わない。自分の背後を家康が固めてくれたからこそ、信長はそれ
を足場に飛躍することができ、京を押さえることができ、今日の地位を築くことができたの
だという意味を、それだけの言葉に込めた。そして、それはそのまま家康にも伝わっていた。
家康という男は、生まれてこの方「天下獲り」などということは考えたこともなく、それ
を現実として考えられるような想像力もなく、ただ自らの持てるすべての能力を、自分の領
国を守るというこの一点に集約して注ぎ尽くしてきた。それが、このときまでの家康の限界
であり、家康は、その自分の限界を過不足なく正確に見抜いていた。 「明日は、ご上洛なされよ。以後のことは、すべて申し付けてある」 信長は、ひどく穏やかな顔で言った。 「筑前(秀吉)が泣きついてきおったゆえ、わしは中国征伐に出ねばならぬことになった。 今年中には片付けるつもりでおるが、徳川殿には、しばらく逢えぬやもしれぬでな」 家康にとって――そして無論 平八郎にとっても――この夜の酒宴が、この世で信長を見 た最後になった。
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