歴史のかけら


合戦師

48

 武田家の滅亡直前、信長はゆるゆると安土城を発ち、3月19日、信州諏訪に着陣し、そこで 勝頼らの首を確かめ、戦後の処理と論功行賞を行った。

「信玄の息の掛かった者を根絶やしにせよ!」

 信長は、降参してきた武田の将兵を許さず、甲信全土を焼くような勢いでこれを根こそぎ殺 しつくした。山野に隠れた者を草の根を分けるようにして探し出すことはもちろん、織田勢 力に寝返った豪族たちまでもことごとく首を刎ね、あるいは自刃させ、信玄縁の寺社仏閣は これを焼き払い、地上から武田の臭いを消滅させたのである。
 名のある武将で許された者といえば、最初に内応を願い出た木曾義昌と、家康に取り成し てもらった穴山梅雪だけであったと言っていい。

 信長の苛烈さを知った信濃、甲斐の豪族たちは、みな争って家康を頼った。
 信長の同盟者である家康は、信長がこの世で唯一「一目置く」存在であった。織田家の家臣 からの取り成しなどは聞く耳を持つ信長ではないが、家康からの懇請であれば、多少は考慮 するところがないでもない。

 それに、家康には奇妙な履歴がある。
 家康は、かつて三河一向一揆が起こった際、敵に回った家臣たちをすべて許し、元のように 抱えなおし、以前と変わらずにこれを重用した。また「信玄西上」のときに武田方に寝返っ た豪族たちでも、再び徳川家への帰参を願い出る者にはこれを許し、過去の行きがかりを一 切責めず、そういう過去に対して「そ知らぬ振り」という奇妙としか言いようがない政治態度 をとり続けた。
 奥三河が武田領であったこともあり、武田方の豪族たちは、みなこの家康の懐の深さと敵 を許す寛容さを知っていたのである。

(三河殿なら、あるいは我らの命を拾うてくださるかもしれぬ)

 という気分が多くの武田の将兵にあり、またそうして自分を頼ってくる人間たちの期待を、 家康は裏切らなかった。
 無論、信長からは武田家の人間を許さぬよう指令が来ている。
 しかし家康は、やんわりとその指令を黙殺し、自らの懐に逃げ込んでくる武田方の武者た ちを実に9百人近くも受け入れ、冷却期間を置いた後に信長に懇請し、これをことごとく自 分の家臣団に組み込んだ。
 家康は、このことによって、信玄が訓練した最強の武田の兵卒を手に入れ、信玄が独自に 工夫した軍法や戦術の多くを自分のものにするのだが、それにしても家康という男には、戦 国武将が多分に持っている無用な血生臭さといったものがない。


 信長は、旧武田領のうち、信濃と甲斐と上野の一部を諸将に分けたり安堵したりしたが、 多年にわたる武田方の圧力を防ぎ続けた徳川勢の働きをとくに褒め、家康には駿河一国をま るまる裂いて分け与えた。信長にしては、大盤振る舞いであったと言っていいかもしれな い。
 家康は――驚くべきことだが――いったんこの駿河拝領を辞退した。
 家康は信長が欲深い男を何よりも憎むということをよく知っており、信長からの恩賞を二 つ返事で受け取ることを怖れた。家康としては、自分の骨折りが欲得のためではなく、純粋 に信長への友誼からであるということを、多少あくが強くとも演技しておく必要があったの である。
 結局家康は駿河をありがたく頂戴するのだが、自分が信長にとって有益無害な存在 であると主張し続けることを、忘れることは決してなかった。


「富士を見てみたい」

 と、信長が洩らしていると聞き込んだのは、石川数正だった。

「これは、聞き捨てになさることはできませぬぞ」

 数正は、織田家との外交を取り持っている関係上、信長という気難しい男の動静には特に 注意を払っていた。

「富士と申さば、なんと言っても駿河からの眺めでござろう。駿河を織田殿から頂いた礼の 意味からも、ここは我らが織田殿をご接待申し上げ、駿河路を通って安土にお帰りなされる よう乞うべきでござりましょう」

 信長の意向を聞いてしまった以上、家康としても異存はない。どころか、家康は、国を潰 すほどの財を傾け、一世一代の大供応をする覚悟を固めていた。あの信長を接待するのであ る。生半可な合戦より、よほどに神経を使うことは間違いがないであろう。
 家康は自ら信長の元に出向き、甲府からの帰路に、駿河、遠江、三河を通過するルート ――東海道を取ってくれるよう懇請した。

「徳川殿が、わしを接待してくださるか」

 信長は、思いのほかこの家康の提案を喜んだ。
 それも、当然であったかもしれない。
 信長は、この天正10年、長年の重圧であった武田氏をついに滅ぼした。天下を広く見渡して みても、もはや信長の勢力に単独で対抗し得るものはないと言ってよく、強敵と言えるよう な相手は、辛うじて中国の毛利氏が残っているのみであろう。
 「天下布武」の大目標を掲げて走り続けた信長の人生というのは、大げさに言えば、この ときまで一日の休息もなかった。織田家を掌握するために弟を謀殺し、尾張を統一するため に同族を攻め滅ぼし、家康と同盟してからは美濃を攻め、伊勢を攻め、ついには京に旗を立 て、四方の敵と飛び回るような忙しさの中で戦い続けてきたのである。
 10年掛かりで武田家を滅ぼした今日、織田-徳川勢力というのは実に6百万石以上の実力 を持つまでになった。遠からず中国を平定し、四国を切り平らげ、その勢いで九州の隅々ま でが信長の版図になるであろう。天下統一の第一期はすでに完成したと言ってよく、ここで、 ほんの数日を自分の骨休めのために使ったとしても、誰からも責められることはないはずで あった。
 信長は、家康の厚意を受けることにした。


 4月10日に甲府を発った信長は、4月19日に尾張の清洲に入るまでの9日間、その生涯で ただ一度の遊覧旅行をした。普段吝嗇で通った家康が、国庫を空にするほどの勢いで銭を使 い、のべ10万を越える人夫を動員し、街道の隅から隅まで赤絨毯でも敷くようにして信長と その家臣団を接待した。

 家康は、信長の休息所として要所要所に茶亭を建て、泊まりの土地には信長の宿館と家来 のための長屋――千5百軒を急造し、さらに馬屋までも造り、これらを出発のたびに解体し て次の宿泊地に運ばせ、また組み立てさせた。
 一行の食事には山海の珍味を並べ、弁当などもすべて徳川家で用意し、街道の警備や宿営 地の護衛なども受け持ち、細い道は整備してわざわざ道幅を広げ、通り道にある川という川に あらかじめ橋を架けた。

(徳川殿は吝嗇と評判であるのに、いったいどれほどの銭と人夫を使うておるのか・・・)

 その行き届いた歓迎振りは、織田家の家臣たちを唖然とさせた。

 信長が天竜川を渡るときなどは、驚くべきことだが、この轟くような大河に浮橋をさえ架 けた。浮橋というのは、川に船を浮かべ、その上に板を渡した仮橋なのだが、天竜川ほどの 急流に浮橋など架けられたものではなく、現に上古以来、そんな馬鹿げたことをした記録は ないという。
 しかし、家康はやった。川の両岸にそれぞれ数千人の人数を配置し、百本を越える大綱を もって連結した船を引っ張り、橋を支えさせたのである。信長たち一行は、乗馬の者は馬に跨 ったままで、足軽小者に至るまでゆうゆうと濡れることなく天竜川を渡った。

 沿道、宿舎の警備には、平八郎ら三河譜代の武士たちが当てられた。
 家康もそうだが、平八郎たちも、この9日の間ろくに眠ることさえできなかった。昼は宿 舎の資材の運搬と設営を指揮し、街道の警備をし、夜は宿営地の周りで野営をして今や天下 人とも言うべき信長の警護をする。
 家康は、徳川家臣団総がかりで人数を部署し、担当を割り振り、人間たちを有機的に動か し続けた。考えてみれば、人間の大集団を機能的に動かすというこの作業は、合戦も接待も 変わりがないであろう。家康は、その意味でも一流の指揮者であった。

「いや奇特、奇特」

 信長は終始上機嫌であった。

「古来、これほどのもてなしを受けた者はこの日本におるまい。徳川殿には、どのように 返礼をすればよいか、これはそうそう考えつかぬ」

 平素口数の少ない気難しいこの男が、家康のあまりの歓待ぶりに、最初はただ驚き、目を 見張り、やがては唖然とし、家康の居城である浜松まで来るころにはほとんど呆れ果て、感 謝の言葉さえ言い尽くしてしまっていた。家康がいかに自分を尊崇し、敬愛してくれてい るかということを、これ以上ない形で身をもって知ることができたという意味でも、信長は 極めて満足していた。

 家康のこの骨折りは、そういう意味合いでも大成功であった。

 実はこの3年前、徳川家にはある事件が起きた。家康の妻 瀬名と長男 信康が、武田勝頼に 内通し、家康を害して徳川家を勝頼に売ろうとしている、という疑惑が持ち上がったのである。 この事件は、妻に関しては一部事実ではあったのだが、家康は信長の命令によって、二人を 殺さなければならなくなってしまった。
 家康は泣く泣くその命に従い、糟糠の妻を殺し、最愛の長男を自刃させたのだが、そのこ とで恨みを持っていると信長に疑われることを怖れた。そういう暗いイメージを 払拭するためにも、信長への変わらぬ誠意を示しておく必要があったのである。
 幼少から思春期までを人質として過ごし、大勢力の狭間で生き抜いてきた家康という男は、 こういった強者に対する処世術をごく自然な形で会得していた。癇が強く、他 人に対する好悪が激しく、人を見抜くことに鋭く、猜疑心が誰よりも深い信長という男と、弱 小勢力の立場で付き合ってゆくには、過剰なまでの誠実さを見せ続けることが絶対に不可欠 だということを、家康は知り尽くしていた。

 家康は、同盟者という意味では対等であるはずの信長に対して、信長の親族以上に献身的 であり、織田家の家臣以上に誠実であり続けた。どれだけ恩を売っても決して狎れようとせ ず、功労を誇ろうともせず、つねに慇懃にへりくだり、信長の下風に立ち続けた。
 信長は、そういう家康を20年にわたって見続けている。家康の気苦労と誠実さというもの を――多少の演技を込めたものまでも含めて――信長は誰よりもよく見抜き、理解していた。 だからこそ、天下に怖いものを知らない信長ほどの男が、家康に対してだけは少 なからず敬意を払い、兄貴分ではあっても、主君として振舞うようなことはしなかったので あろう。

「ぜひ此度の接待の礼をせねばならぬ。近々のうちに、必ず安土に参られよ。今度はわしが、 徳川殿のこれまでの労をねぎらいたい」

 信長は、家康への返礼を約束した。織田-徳川の紐帯はいよいよ強まり、家康と信長の信 頼関係も揺るぎないものとなった。

 しかし信長は、このわずか40日後に死ぬ。

 家康は、あるいは骨折り損をしたというべきだったかもしれない。




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