歴史のかけら
合戦師
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高天神城の陥落は、武田方の豪族たちに大きな衝撃を与えた。
信濃の豪族で、最初に勝頼を見限ったのは、木曾氏であった。
当主を、木曾義昌という。信玄の娘婿であり、勝頼とは義理の兄弟という男である。
木曾氏は、信玄の信濃併呑のときに武田家に隷属したのだが、その本拠は、信濃でもっと
も信長の美濃に近かった。武田家の武威が盛んであれば動かなかったであろうが、信長の
勢力を間近に見、その脅威を肌で感じている上、勝頼が高天神城を見捨てたことを知り、
とても頼むべき大将とは思えなくなった。
生き残るためには、もはや織田家に鞍替えするしかない。
木曾義昌は、美濃東部の遠山氏に使者を送って仲を取り持ってもらい、織田家に属したいと
信長に懇願した。
(そろそろ機は熟したか・・・)
信長は思った。
武田に属している豪族が、自ら他の勢力に内応を願い出るというこの政治現象は、信玄時
代以来、武田家においてあったためしがない。武田家の内部崩壊は、よほど進んだと見るべ
きであろう。
信長は、天正8年に本願寺勢力を摂津(大阪)石山から退去させることに成功していた。す
でに中国方面の司令官として羽柴秀吉を派遣して毛利氏との戦いを始めており、また来年か
らは、新たに四国征伐の作戦を発動すべく準備中であった。忙しくはあるが、上杉謙信の死
によって北陸方面が落ち着きをみせているし、長年にわたって信長を苦しめ続けた本願寺勢
力との抗争を終わらせたということもあって、時期としては悪くない。
「いよいよ勝頼に死を与うべし!」
天正10年2月12日、武田家討伐作戦を発動した信長は、長男 信忠に5万近い大軍を授けて
信州伊那口から進撃するよう命じ、同時に金森長近に別働隊を率いさせて飛騨地方へ攻め込
ませた。
「三河殿は、駿河から甲府を目指されよ」
信長は家康に指示し、北条氏へも連絡をして関東方面から武田領に攻め込むよう要請した。
武田家は、驚くべき速度で崩壊した。
織田の軍勢は無人の野を往くように信濃を進軍し、周辺の武田の被官たちは、木曾義昌を
通じてことごとく内応したり降参したりした。抵抗らしい抵抗をしたのは、信州高遠城に篭
る勝頼の弟 仁科盛信だけだったと言っていい。勝頼は、兵を集結させることさえできず、こ
れだけ勇猛な男であるにも関わらず、織田軍に一度も決戦を挑むことができなかった。
勝頼が高天神城を見捨てたとき、時代が勝頼を見捨てたと言うべきであろう。
家康は、信長の要請に従って2月20日、駿河へ侵攻した。
駿河は、信玄の娘婿にして勝頼の従兄弟である武田の一門衆筆頭 穴山信君(梅雪)が探題と
して国を任されている。
(梅雪入道なら、調略で落とせるかもしれぬ)
家康は思った。
武田家の最有力貴族ともいえる梅雪は、信玄にその器量を愛され、特に信頼されて駿河を
任されたほどの男であった。しかし、梅雪の勝頼嫌いというのは家康の耳にさえ入るほどで、
信玄亡き後、勝頼とはことごとく意見が対立し、「長篠の合戦」のときは勝頼の撤退を援護
することさえせずいち早く逃げた。
もともと勝頼に心を寄せていない人物である。上手く誘えば転んでくるであろうし、信玄
以来の武田家の重鎮であり駿河の国主ともいうべき梅雪が寝返れば、武田方の豪族たちは、
(あの梅雪殿でさえ武田家を見限ったならば・・・)
と、雪崩をうったように織田-徳川勢力に寝返り始めるに違いなく、駿河平定は瞬く間に
済むであろう。
家康は梅雪に密使を送り、
「織田家に属する気があれば自分が責任を持って仲介し、現在の領地が安堵されるよう計ら
う。もし、本領安堵を織田殿が承知しないときは、自分が必ず扶持する」
という条件をもって誘いを掛けた。
梅雪は、一も二もなくこの家康の提案に飛びついた。
梅雪にしてみれば、事がここまで進んでしまった以上、もはや寝返りの条件どころの騒ぎ
ではない。ここで逡巡していては、勝頼の巻き添えになって滅びざるを得ないのである。
家康は、駿河平定にこれ以上ない協力者を得た。
2月21日、家康はまず田中城(藤枝市)を囲み、激しく戦闘した後、城将 依田信蕃に使者
を立てて説得し、これを開城させた。この数日後には江尻城(清水市)まで進み、梅雪を味方に
引き込んだ。
この間、驚くべきことだが、駿河の他の武田方の豪族たちは、抵抗らしい抵抗をまったく
行っていない。すでにほとんどの将たちが勝頼に見切りをつけ、自家の保存の道を選び始め
ていたということであろう。
家康は、自軍に乱暴狼藉、略奪、人攫いなどを厳しく禁じ、駿河の人心の安定に気を配っ
た。同時に在所在所の大百姓たちに朱印状を出し、これを安堵させ、徳川勢の軍事活動を妨
げないよう諭した。このあたりは、堅実でいかにも家康らしい。
平八郎は、この「武田崩れ」を、観客にでもなったような醒めた目で見つめていた。
予期していたこととはいえ、あれほどの精強さと団結力を見せていた武田家がこれほど呆
気なく滅びてしまうということに、現実感が伴わないのである。落ち目になった勢力がいか
に惨めなものか――これほど鮮烈な教材もないであろう。
もし家康が、かつての「信玄西上」のときに舵取りを一つでも誤っていれば、今この駿河
で起こっている現実が、三河にも訪れていたであろうことは間違いがない。そのことを
考えると、平八郎は、武士という稼業の壮絶さを思わずにはいられなかった。
こういう実感は、大なり小なりすべての三河者たちが持っていた。今川家の圧政を逃れて
以来、三河武士たちが惨めな思いをせずに済んでいるのは、ひとえに家康という傑出した
棟梁を戴いていたからであり、この家康をどこまでも押し立てて進んでゆくところに三河
武士たちの誇りと将来があるのだと、目の前の現実が雄弁に物語っていた。
余談だが、家康は、自らと共に戦い続けてきた三河武士団の労に報いるということに関し
て、「恩賞」という面では非常に薄かった。
「関ヶ原」が済み、実質的に天下の主になってからでさえ、家康は譜代の郎党たちには決
して大封を与えていない。その禄高は、筆頭家老の酒井忠次でさえ23万石足らずに過ぎず、
名のある譜代家臣のほとんどが5万石以下という薄給さであり、50万石、100万石といった
強大な大名を一つとして創らなかったのである。
このことは、後に徳川家の傘下に入った大名たちからも不思議がられたほどなのだが、三
河者たちは、家康の存命中はこれについて一切の不満を漏らさなかった。
生き馬の目を抜く戦国乱世を見事に泳ぎ抜き、ついに徳川家を潰さなかった家康という男
の事跡は、それだけで十分に郎党たちの奉公に報いていると言えたし、そのことがどれだけ
難事業であったかということを、家康と共に歩んできた三河者たちは、五感をもって実感と
して知っていたのである。
三河者たちにとって、家康は、信長のように怖ろしい大将ではなく、また勝頼のように勇
猛なだけで頼るに足りない大将でもなかった。常に安心して仕えることができる大将
であり、その意味で、この乱世に安心して命と一族を預けられる唯一の「棟梁」であったと
言っていい。
彼らは家康を「吝嗇」であるとは思っていたが、その家康個人から受けた恩を、小さなも
のだと思うことは決してなかった。
家康は、まったく良き家臣団を持っていたと言うほかない。
梅雪を道案内にした徳川勢は、やすやすと駿河を進み、霊峰富士を間近に見ながら富士川
に沿って武田の本国である甲斐(山梨県)へと侵入した。
家臣団に造反者が続出して進退窮まった勝頼は、3月3日――信長が武田家討伐に着手し
てから1月を待たずして――その本拠である新府城に火を放って逃亡した。武田家瓦解の速
度の凄まじさというのは、推して知るべきであろう。
勝頼は、甲斐の豪族であり信玄以来の重臣である小山田信茂の助言を容れて岩殿城で再起
を計ろうとした。しかし、小山田信茂はすでに信長に内応してしまっており、この手ひどい
裏切りによってついに陣容を立て直すことさえ叶わなくなった。織田の滝川一益隊の猛攻に
曝されながら逃避行を続けるものの、ついにわずか50人ばかりの従者と共に天目山に追い詰
められた。
勝頼は、その妻 桂林院、嫡男 信勝と共に、3月11日に自刃する。
最期まで勝頼に付き従っていた土屋昌恒、小宮山友晴、小原忠継らの武将たちは、主君の
自刃を見届け、共に逃げてきた女子供を刺し殺した後、迫り来る滝川勢に突撃して死んだと
いう。戦国最強を誇った武田家の最期としては、寂しいと言うほかない。
ともあれ、こうして新羅三郎義光以来の甲斐の名門 武田氏は滅亡し、歴史の波間に消え
ていったのだった。
また余談になるが、家康は忠臣を好む。
敵に寝返る者が多かった中で、最期まで勝頼と運命を共にした土屋昌恒の遺児が生きてい
ると知った家康は、
「忠臣の子というのものは、必ず忠臣である」
と言って、その子供を探し出し、二代将軍になる秀忠の小姓に加えている。
この土屋昌恒の子孫は次第に累進し、三代将軍 家光にもよく仕え、9万5千石とい
う大封を守って幕末まで続いてゆくことになった。
余談のついでに、勝頼とその妻、嫡子 信勝の辞世と言われるものが今日まで伝わって
いるので、ここに掲げておくことにしよう。
朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくゑ)の 西の山の端 (勝頼)
黒髪の 乱れたる世ぞ 果しなき 思いに消える 露の玉緒 (桂林院)
あだに見よ たれも嵐の 桜花 咲き散るほどは 春の夜の夢 (信勝)
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