歴史のかけら


合戦師

46

 天正7年(1579)9月、家康は、北条氏と軍事同盟を結んだ。
 ここは、少し解説があってもいいだろう。

 上杉謙信が死んだ後、上杉家で家督相続の争いから家中を真っ二つに割った内乱が起 きたということは先にも述べた。
 これを「御館の乱」という。

 軍神への祈願のために生涯不犯を通したと言われる上杉謙信には、当然だが妻も子も なかった。謙信は、景勝と景虎という2人の養子を迎えていたのだが、後継者を指名するこ となく死んだ。
 乱世の常だが、景勝と景虎は家臣を巻き込んで、上杉家の相続争いを始めた。

 世継ぎ候補の1人である景虎は、謙信が以前 北条氏と同盟した際に北条氏からもらった養 子で、北条氏の当主 氏政の弟であった。北条方では景虎の上杉家相続を応援し、同盟している 勝頼に、景虎を軍事的に支援してくれるよう要請した。
 この要請を受けて出陣したはずの勝頼は、なぜか景勝の方と交渉を持ち、その人柄を大い に気に入り、自分の妹を嫁にやる約束までし、景勝を応援して景虎を追い詰め、ついに自刃 させてしまったのである。

 当然だが、弟を殺された北条氏政は激怒した。

「武田との誼(よしみ)もこれまでじゃ!」

 氏政は勝頼と断交し、上野(群馬県)あたりで武田と戦争を始めた。


(勝頼は何を考えておるのじゃ・・・・)

 家康は、敵のことながら呆れる思いであった。
 勝頼がこれまで駿河から遠江へ軽々と出てこられたのは、北条氏と同盟し、背後の安全 が確保されていたからこそであった。上杉家の相続争いという、いわばまったく無用な外交 遊びによって、勝頼は数年来の北条氏との友誼を失い、それどころか、これをかえって敵に 回してしまったのである。

 武田家には、信玄の時代、重臣の合議によって多くのことを決めてゆくという家風があっ た。信玄は、中世的な君主という存在が、ある意味で豪族たちの「利害の調整機関」であると いう側面をよく知っており、重臣たちの意見というものをよく聞き、それを尊重し、良いと ころは積極的に取り入れることで家中に不満が蓄積していかないように常に心を配ってい た。
 しかし勝頼は、信玄時代の重臣の意見を要れず、常に君主である自分のトップダウンで物 事を処理しようとした。
 武田家の多くの豪族たちは、勝頼の自分本位のやり方に常に不満を持っていたのだが、 北条氏を敵に回したこの外交にはほとんど呆れ果てた。

 家康の反応は素早かった。ただちに北条氏政に密使を送り、共に勝頼を東西から挟み討ち にしようと持ちかけたのである。
 氏政は、快諾した。

「これで、ようやくわしも枕を高うして眠れるわい」

 家康は、笑み崩れたであろう。
 背後に関東250万石の大勢力を敵として背負ってしまった勝頼には、もはや自分から遠江へ 侵攻してくるような余裕はない。しかも北条氏は東海道随一の水軍勢力を持っており、これ を敵に回してしまった勝頼は、遠州灘の制海権さえも奪われ、主に海路を使って行っていた 高天神城への兵糧の運搬さえできなくなってしまったのである。

「機は、いよいよ熟したぞ!」

 天正8年(1580)10月、家康は、全軍を持って高天神城を包囲した。

 家康は天正6年に、高天神城に対する軍事拠点として城から南西5kmの小高い丘に横須賀 城(大須賀町)を築いていた。今回はさらに、周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに6つの 砦を築き、それを基点に柵を植え、空堀を掘り、土塁をめぐらせて城をぐるりと囲い込み、 軍勢を常に哨戒させて武田勢の兵糧の搬入を完全に遮断したのである。

 高天神城には、城将 岡部真幸、軍監 横田尹松 以下9百名の城兵が篭っていた。
 徳川勢に包囲される寸前、岡部真幸は勝頼に援軍要請の使者を送ったのだが、軍監 横田 尹松も同時に密使を送っていた。
 横田尹松は、勝頼への手紙で、

「いま高天神城を救援に来れば、織田の援軍が現れて『長篠』の二の舞になりましょう。そ うなれば、武田家は滅亡でござる。我らがここで死ねば、それで済むこと。 後詰め(救援)は無用にされよ」

 と説いた。

(・・それもそうか・・)

 勝頼は思った。
 考えてみれば、高天神城が陥ちてしまったとしても、遠江を家康に返してやるというだけ のことで、武田領が減るわけではない。駿河を侵されたとなれば、これは全力を挙げて救援 せねばならないが、高天神城は敵地の城であるに過ぎず、これを家康にやってしまったとこ ろで大して懐は痛まないのである。それどころか、高天神城があるおかげで毎年莫大な戦費 を投じて兵糧の運搬を行わねばならず、勝頼はこれが頭痛の種にさえなっていた。

(どうせ家康には、単独で駿河に攻め込んでくるだけの実力はない)

 勝頼とすれば、決戦を避けて逃げ回っている家康が駿河にのこのこ出てきてくれるなら、こ れをすかさず決戦に引きずり込み、撃破してしまえばいい。精強な武田勢をもって徳川勢を蹴 散らすことは、勝頼の感覚で言えば別に難しいことではないのである。この際、高天神城を 捨て、家康を放置し、しばらくは北条氏との戦いに全力を挙げるべきだと思った。
 そして、その通り行動した。
 勝頼は、遠江とはまったく逆方向の上野に出陣し、辺りの小城を次々に攻め潰し、関東方 面での武田の勢力を伸ばしたのである。
 高天神城の9百の将兵は、健気にも5ヶ月にわたって頑強に篭城戦を続けるのだが、勝頼 はこれを古草履でも捨てるようにうち捨て、一顧だにしなかった。このことは、織田-徳川 勢力に間近に接する駿河や信濃の豪族たちの心理に、決定的な悪影響を与えてしまうことに なった。

 もともとこの時代の武士団というのは、織田家を除けば例外なく相互扶助の関係によって 出来上がっている。主君が自分たちの危機を救ってくれると思うからこそ、豪族たちは主君に 忠誠を誓い、その命令に従って戦場に赴き、命を預けて戦うのである。この契約を主君の側が 履行しないならば、家臣が主君を見限るのは不忠でもなんでもない。武士とはその本質に おいて、「自分たちの土地を守るために武器を持った大地主」という存在であり、「武士の 棟梁」とは、その武士たちの権益を保証してくれる者を指すのである。

 繰り返して言うが、高天神城の場合は、「長篠の合戦」の痛手から救援そのものが不可能 であった岩村城や二俣城のときとは違う。
 勝頼は、武田武士団の棟梁として、たとえ城将が何と言おうが、どれほどの危険を冒そう が、決然と遠江へ兵を出し、高天神城を救うべきであった。高天神城を維持することが困難 であるならば、せめて健気に戦っている城兵たちの命だけでも救援しようとすべきであった。 それでこそ「人の主」であり、それでこその「武士の棟梁」なのである。
 しかし勝頼は、そのことがもたらすであろう家中への心理的な影響というものをまったく 顧慮せず、純軍事的な損得勘定から忠義の家臣を捨て殺しにした。
 この瞬間、勝頼は、相互扶助の契約で出来上がっているはずの自分の武士団から浮き上が ってしまったといっていい。

 勝頼は、誰よりも勇猛な男ではあったが、自分の家臣団の心理を読み取るという能力は母 親の腹の中に置き忘れてきたように欠けていた。生まれたその瞬間から偉大な信玄の直系の 貴族であり、戦国最強を誇る武田軍団の軍団長であり、勇猛果敢な指揮官であった勝頼は、 信玄がその家臣団の統制にどれほど腐心したかを知らず、君主の権力を搗き固めることに どれだけ気を配り、努力してきたかということも知らなかった。彼にあるのは、「自分は神 聖権力を天から授けられたのだ」という愚かな誤解の上に構築された帝王学と、戦争という ものに対する強烈な自負心と自尊心だけだったのである。

 勝頼に、人の主としての資質がなかったといえば言い過ぎであろう。彼には絶倫と言って いいほどの勇気があり、人並み以上の知力もあり、個人の戦闘力においては家中を見渡して も彼ほどの者はいなかったかもしれない。
 勝頼に足りなかったもの――家康にあって勝頼になかったものというのは、人の主―― 「武士の棟梁」というものに課せられた役割に対する「認識」であり、自分の家臣を家族の ように感じる「思いやり」であったに違いない。ついでに言うなら、この家康と勝頼の差と いうのは、もしかしたら能力の差ですらなく、両者の生まれた育った環境の違いから生じた 「考え方の違い」というだけであったかもしれない。

 「貴人は情けを知らない」という言葉があるが、名門に生まれた人間がときにそうである ように、勝頼には、「武士の棟梁」としてもっとも必要であるべきものが致命的に欠けて いた。


 高天神城は、天正9年(1581)3月22日に陥ちる。
 食料が尽きるまで勝頼を待ち続け、家康からの降伏勧告を拒否し続けた城将 岡部真幸は、 餓死するよりは全軍で打って出て敵に突撃し、玉砕覚悟で血路を開き、退却することを決意 したのだった。

 この前日、高天神城から、まだ幼さの残る小姓が使者に来た。

「我らは、明日の早暁をもって城から突撃し、雌雄を決する所存でござる」

 時田鶴千代という名のその小姓は、家康に城将 岡部真幸の言葉を伝えた。

「そこで、三河殿に、ひとつ無心がござりまする。三河殿の御陣には、幸若舞の当代の名 人 与三太夫がおられると耳にいたしました。この世の名残りに、是非この与三太夫の舞いを ひとさし、所望したい」

 家康は、この包囲陣に、舞いの名手や連歌師や猿楽師などを招き、兵たちの長陣の無聊を慰 めさせていた。これを見た城兵たちが、家康に最期の無心をしたものであろう。

 城兵たちは、勝頼に切り捨てられた時点で、すでに死の覚悟を決めていた。この期に及ん でも家康に降ろうとしないのは、最期まで「武士の美しさ」に殉じようとしているのであろ う。
 武士には、自らの「死」によって「生」を美しく飾る権利がある。この権利だけは、 たとえ敵将の家康といえど侵すべきものではなかった。

 もはや説得が不可能であると悟った家康は、敵のこの願いを叶えてやった。城の大手門の 前に大篝火をいくつも据えさせ、舞台をしつらえるよう家臣に命じ、さらに城へ酒を差し入 れさせ、与三太夫には源義経の最期の場面を語る謡曲――「高館」を舞うよう言いつけた。

 21日の夜、城兵たちは、幽玄の闇の中で篝火に浮かび上がった与三太夫の舞いを食い入 るように見つめ、涙を流しながら末期の酒を交わした。
 そして翌朝、日が昇ると同時に城門を開き、雲霞のような徳川勢の中に突撃し、血路を開 くために猛然と戦った。
 徳川勢は、この尊敬すべき敵に対して誇りをもって全力で応戦し、相応の損害を受け、 7百近い首を挙げた。

 家康は、武士の遇し方というものを知っていたと言うべきだろう。




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