歴史のかけら
合戦師
45
浜松に、去年より少しだけ平穏な正月が訪れていた。
武田の重圧を撥ね退けて三河を再び統一し、遠江をほぼ奪回した天正4(1576)年の年始と
いうのは、家康にとって晴れがましいものであったであろう。
年賀の挨拶をするために、徳川家の家臣が続々と浜松城へ集まってくる。
本多一族は、徳川家の譜代中の譜代である。平八郎は、元旦に城へ登った。
城の大広間には譜代の諸将が居並び、一段上がった上座には、家康が上機嫌で座ってい
た。
徳川家のただ2人の家老である酒井忠次、石川数正がまず年頭の挨拶をし、大久保忠世、
鳥居元忠、本多重次などの老巧の武者が次々と家康の前に進み出、盃を受けた。
家康は、終始笑顔を浮かべ、家臣たちに屠蘇を注いでやりながら、
「今年も励んでくれよ」
「そちの長篠での働きは比類ないものであった」
などと、一言二言声を掛ける。
「新年、明けましておめでとうござりまする!」
平八郎が家康の前に進み出ると、
「おぉ、鍋か!」
家康は嬉しそうに、平八郎が頭上にささげる盃を屠蘇で満たした。
「・・・早いものだ。駿府でわしが人質であったころ、鷹狩りをするたびにモズを追うて
走り回っておったあの鍋之助にも、いよいよ世継ぎができたかよ」
広間にいた者たちが、みな柔らかな笑顔になった。
「長篠の合戦」の直前、平八郎には長男が生まれていたのである。この赤子が、後に播州
(兵庫県)姫路15万石の太守になる本多忠政である。
「お前も、もう29か。そろそろ鍋と呼ぶのも止めねばならんな」
平八郎は盃を一息に干した。
「わしは、いつまでも鍋で結構でござりまする」
「いやいや、そうもいくまい。お前の息子が、本多の鍋之助ではないか」
家康は笑った。もう一度酒器を取り上げ、屠蘇を注いでくれた。
「今日よりは、平八郎と呼ぶことにいたそう。平八郎、また一層に励んでくれよ」
「必ず、殿さまのご期待に副いまする!」
再び一息で盃を干すと、平八郎は深々と家康を拝跪したのだった。
平八郎は、永禄12年(1569)――「姉川の合戦」の前年に、家康の媒酌により正妻を迎え
た。家中の阿知 和右衛門という男の娘で、名を久(ひさ)という。
久は、柔和で物静かな女性であった。姑の小夜、側室の乙女らと共に、平八郎が留守が
ちな屋敷を守って浜松で暮らしている。
本多家は、賑々しい。
生後半年の鍋之助と、3歳になる いね――後の小松姫。そして、いねの妹で1歳の ゆう
がいる。平八郎は、この正月いっぱい、久々に家族との緩やかな時間を楽しんだ。
小春日和のある日、小庭に面した縁側で、平八郎は木切れに小柄を入れていた。
平八郎は、彫り物が上手い。元来が無趣味な男で、平素から「芸」というものを卑しみ、
とりたてて剣術に凝ったり槍術に熱中したりはしなかったが、ときどき思い出したように、
仏像を彫ったり観音像を彫ったりする。
「また、彫り物でございますか」
久が微笑を湛えながら、茶を運んで来てくれた。
「一心に刃の先を見つめておると、心気が澄んでくるのだ・・・」
物事に集中しているときの平八郎というのは「我」が宙に溶けたように消え、そのたたず
まいは、どこか神韻に似たものを帯びてくる。久は、そんな平八郎の姿が大好きであっ
た。
「こうしておりますと、乱世が嘘のようでございますねぇ・・・」
柔らかな日差しの中、時間だけがゆったりと流れてゆく。
聞こえるのは、風の音と小鳥のさえずる声だけであった。
「あぁ・・・・・。だが、それも長くは続くまい・・・」
あの武田勝頼が、いつまでもおとなしく領国に引っ込んでいるはずがない。遠江での勢力
を挽回するために、必ず近いうちに押し寄せてくるであろうことが、平八郎には解っていた。
勝頼は、天正4年(1576)の2月には駿河から遠江に侵攻し、大井川河口の小山城(吉田町)
を猛攻で陥とし、再び高天神城への通路を作った。
敵中に孤立し、兵站が切れてしまえば、いかに高天神城が要害堅固な城でも陥落せざるを
得ない。高天神城を維持することは、織田-徳川勢力の領国への侵攻を防ぐという意味で、
勝頼にとって重要な課題であった。
しかし勝頼は、これほど勇猛な男であるにも関わらず、「長篠の合戦」以降、目立って軍
事活動が衰えた。「信玄西上」から数えて4年間、毎年何度も長駆の遠征をしたために、信
玄が貯めに貯めておいた軍資金がいよいよ目減りし、また悪いことにこの時期、掘り尽くさ
れた金山からの収入が減少し、武田家はかなりの財政難に陥っていたのである。
勝頼はそれでも屈せず、領民から税を絞り上げては遠征軍を組織し、毎年のように遠江へ
繰り出し、兵糧を高天神城に運び入れ、隙あらば家康に決戦を挑もうとした。
しかし、家康は応じない。
家康の武田家対策というのは、彼の性格をよく表していておもしろい。
家康は、実に粘り強く、根気強く、敵からすればいやらしいことこの上ない戦略をとり続
けた。勝頼が出てくるたびに全力で出陣するのだが、対陣こそするものの決して決戦には応
じず、武田勢が引き上げるまで睨み合いを続け、敵がいなくなった後、勝頼に取り戻された
地域を奪い返すのである。さらに収穫の時期になると、高天神城や小山城の周辺で刈り田
を行い、これ見よがしに敵の収穫を略奪した。
城の守備兵は、たまったものではないであろう。
家康は、城から出てくる敵とのみ応戦し、小競り合いだけを繰り返し、決して無理な城攻
めをしようとしなかった。
天正4年から天正9年までの5年間、家康は、執拗にこの消耗作戦を展開した。ときには
大井川を越えて駿河に侵入し、田中城(藤枝市)の周辺で田を刈り、村を焼き、敵と小競り合
いをしては引き上げる。
高天神城が枯れてくるたびに、勝頼としては出陣して救援せざるを得ないのだが、敵地の
ど真ん中にある高天神城に兵糧を運び込むためには、どうしても敵と決戦し得る兵力を投入
しなければならない。寡少な兵力で兵糧を運ぼうとすれば、すかざす家康が大部隊でもって
これを殲滅し、兵糧を奪い取ってしまうことが目に見えているからである。
「家康め・・・!」
勝頼としては、歯噛みするしか仕方がない。
勝頼は、さすがに単独で織田-徳川勢力に対抗することを諦めた。
「西上作戦」を始めるとき、信玄が関東の覇王 北条氏と同盟したことは先にも触れた。
勝頼はこの同盟を強化し、できれば上杉謙信をも巻き込んで、織田-徳川勢力に対抗するた
めの大勢力を築こうとした。
「北条から嫁をもらう」
勝頼は宣言し、家臣を使ってその工作をさせた。
天正5年正月、勝頼は北条氏政の妹を正室に迎えた。後に天目山で勝頼と共に自刃するこ
とになる桂林院である。
北条氏との同盟を強化した勝頼は、遠江の平定と徳川家の討伐に本腰を入れたかったのだが、
かさむ一方の戦費の調達が困難なことと、家康の執拗な消耗戦略の前に、捗々しい戦果を挙
げることができないでいた。
この間、戦費を搾り取られる武田の領民のあいだには、勝頼を呪詛する声が潮のように満
ちていった。
天正6(1578)年3月、越後(新潟県)の上杉謙信が卒然と逝った。
信長は、信玄のときに続き、またも天運から愛されたことになる。「長篠の合戦」の前年、
10万とも言われた伊勢長島の一向一揆勢力を根絶やしに殺し尽くした信長は、「長篠の合戦」の
直後、今度は越前(福井県)の門徒衆を滅ぼし、まさに上杉謙信との戦いを始めたばかりだっ
たのである。
謙信の死後、上杉家は相続者争いから内乱を起こし、信長を脅かす存在ではなくなった。
今や信長の敵は、摂津(大阪府)石山の本願寺勢力と、それを後援する山陰山陽10ヶ国の覇
者 毛利氏のみになったといっていい。
戦国乱世が、徐々に煮詰まり始めていた。
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