歴史のかけら


合戦師

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 総崩れになった武田軍は、織田-徳川連合軍の執拗な追撃によって全軍にわたって完膚な きまでに叩きのめされた。勝頼が30kmにわたって逃走し、安全地帯である信濃国境の武節 城(北設楽郡稲武町)に逃げ込んだとき、従う武者がわずか十数騎だったというから、いか にこの退却戦が酷い状況であったかが解るであろう。
 勝頼は逃げる途中で、重荷になる武田家重代の旗や兜まで捨ててしまった。それほど織 田-徳川連合軍の追撃が凄まじかったということでもあるのだが、このことは、勝頼の評判 を著しく落とすことになった。
 ちなみに、この武田家の旗を拾ったのは、全軍の真っ先に立って敵を追撃していた平八郎 隊である。

「武田四郎! 命を惜しんで相伝の旗を敵に取られるか!」

 平八郎隊の梶金平という者が、大声であざ笑ったという。

 結局、武田勢は、戦死者が約9千人。そのまま国を捨てて逃散したり、逃走途中で野垂れ 死んだり野武士に討たれるなどして行方不明になった者が約3千人。1万5千人いた武田の 将兵で、甲斐まで無事辿りつく事ができた者は、わずか3千人ほどでしかなかった。
 これは、つまり遠征軍の8割が消滅したということである。

 堅固な要塞に篭り、飛び道具を主体にして終始防戦していたはずの織田-徳川連合 軍でさえ、戦死者が実に6千人にものぼっていた。この数字を見るだけで、武田勢がいかに 勇猛で精強な戦闘集団であったかということが理解できるであろう。

 両軍合わせて1万5千もの人間が、わずか半日の決戦で戦死してしまったという例は、 我が国の近代以前のいかなる戦争においても類がない。東西合わせて16万近い軍勢が戦 った後の「関ヶ原」でさえ、戦死者は(諸説あってはっきりしないが)1万人程度に過ぎな いと言われているのである。
 「長篠の合戦」は、その意味でも我が国の戦史に残る大会戦であった。

 信長にとって、勝頼にとって、そして、むろん家康にとっても、この「長篠の合戦」が 1つのターニングポイントになったと言っても、おそらく言い過ぎではない。


(これで、武田は終わった・・・)

 平八郎は思った。
 武田四名臣と呼ばれて他国にまで響いた名将を3人まで死なせ、信玄以来の勇将、知将、 猛将をこれだけ多く討ち死にさせ、9千人以上の戦死者を出すような無理無謀な戦をしてしま った勝頼には、武田家の内部から批判と怨嗟の声が霰のように浴びせられるであろう。勝頼 が連勝を重ねているあいだは表面に現れてこなかった不平や不満が、あちこちから一気に噴出 し、武田家の鉄のようだった団結がズタズタになり、士卒の心が離れ、やがては内部崩壊を 起すに違いない。

 事実、どうにか拮抗していた織田と武田の戦力バランスは、この一戦をもって織田方が圧倒 的に有利になり、もはや勝頼は、信長にとって強敵でさえなくなってしまっていた。

「この際、どこまでも勝頼を追撃し、一挙に武田家を屠るべし!」

 織田家では、こういう議論が沸騰した。
 それも当然であったろう。ひとたび勝ちを得れば、その機に乗じて戦果をできる限り拡 大し、相手に回復の暇を与えず、二度と再び起き上がれなくなるまで徹底的に叩いて おくのが戦争の常識である。

「それがしが先鋒になって骨を砕きまする。甲州までも攻め入りましょうぞ!」

 家康も、信長に嘆願した。
 大きな傷を負ったとはいえ武田勢はまだ生きており、時間を与えれば、再び起き上がって くることは間違いがない。武田の騎馬軍団の恐怖を、5年にわたって耐えてきた家康である。 この機会に、どうしても武田家を滅ぼしておきたかった。

 しかし、信長は動かない。

「放っておけば、武田は滅ぶ」

 当初の方針を変えようとしなかった。

 信長のこの考えには、それなりの理由がある。
 たしかに武田家は巨大な傷を負った。しかし、いま調子に乗って敵国に乗り込むのは、手負 いの虎が篭る穴に入って行くことにも等しい。勝頼が命じるまでもなく、武田の将士はそれ こそ死に物狂いで抵抗するであろうし、それではこちらがどれだけ怪我をするか解ったもの ではない。
 それよりも、放っておく方が賢い。
 放っておきさえすれば、あの猛虎が負った傷は必ず化膿し、その毒がやがて全身に廻り、 戦うどころか動くことさえできなくなるであろう。
 信長の目下の関心はあくまで西日本であり、勝頼を滅ぼすのは、武田家が自壊してしまった ときで十分なのである。

 信長は、長篠城で論功行賞と戦後の処置を済ませると、5月25日、岐阜へと帰っていった。 同時に、長男 信忠に命じて大軍を東美濃へ回し、秋山信友に奪われた岩村城を包囲させて いる。
 秋山信友は半年にわたって孤軍で篭城戦を続け、兵糧が尽きるまで戦ったが勝頼からの援 軍はついになく、城兵の助命を条件に城を明け渡した。

 ちなみに信長は、この秋山信友との約束を反故にし、岩村城を受け取るや武田の将兵を騙 し討ちで皆殺しにし、信友とその妻――信長の叔母である――お艶を捕らえ、長良川河畔 で「逆さ磔」という軍陣の作法としては考えられない極刑に処し、その首を曝した。
 このあたりが、信長の信長たる所以であるかもしれない。

 この岩村城陥落 以後、武田の勢力が織田家を脅かすことはなくなった。


 家康は、武田軍の大壊走のどさくさに、信長の助力を得て奥三河に残っている武田方の城 を残らず攻め潰し、「山家三方衆」の菅沼氏を国外に追い、再び三河の完全統一を果たし た。
 さらにその数日後、高天神城、諏訪原城を素通りして一気に駿河へ攻め込み、清見潟(清 水市)あたりで村々を放火して回り、武田方を挑発するとともに、その出方を窺がった。

 勝頼は、まだ甲府へ帰り着いたばかりであり、為すすべがない。遠江の武田方の城に警戒 を呼びかけ、重要軍事拠点である諏訪原城、高天神城に多少の軍勢を増強するくらいしか手 の打ちようがなかった。
 家康は、この機を逃さない。
 「長篠の合戦」から1月を待たずに、まず二俣城(天竜市)を包囲した。

 二俣城は、かつての「信玄西上」のとき、信玄によって攻め陥とされた城である。信玄は、 天然の要害であるこの二俣城を修築増強させ、軍勢を込めて浜松への橋頭堡にした。
 家康は、大久保忠世を城攻めの大将にして二俣城の周囲に7つの砦を築かせ、これを厳重 に包囲して兵糧攻めにするとともに敵勢の動きを封じた。
 さらに北遠江の拠点である光明山城(天竜市)を奪い取り、7月には大井川まで出て小山城 (吉田町)を、8月には諏訪原城(金谷町)を続けざまに抜き、二俣城と高天神城を孤立させて、 遠江の大部分の支配権を奪い返したのである。

 この遠江奪回戦での平八郎隊の活躍というのは、まさに鬼神のようであった。
 常に全軍に先駆けて敵城に突撃し、光明山城攻め、小山城攻めでは見事に一番乗りを果た している。攻城戦であり、武田勢相手の戦であるため味方の損害も大きく、多数の士卒を失う ことになったが、平八郎隊の苛烈なばかりの働きぶりは、榊原康政隊と共に、他の部隊から 抜きん出ていた。

 大久保忠世によって封鎖された二俣城は、半年にわたって持ちこたえた。
 勝頼は、歯噛みしながら悔しがったであろう。美濃の岩村城と同様、大敗を喫した武田勢 には救援に赴くほどの余力がまだなかったのである。

 天正3年(1575)12月の末、奮戦も虚しく、ついに兵糧が尽きてしまった二俣城では城 将 依田信蕃(よりた のぶしげ)が決断し、将士の命の保証を条件に開城することになった。

 城の受け渡しの日、たまたま雨であった。
 依田信蕃は、

「一城の主ともあろうものが、蓑笠をつけて城を落ちるなどは見苦しい。城の受け渡しを 晴天の日まで待ってもらいたい」

 と家康に言い送ってきた。
 家康は、この依田信蕃の武士としての心意気を愛した。その願いを叶えてやり、数日分の 食料と酒を二俣城へ差し入れてやった。
 この3日後、徳川勢に十重二十重に包囲された二俣城から、武田勢は粛然と、そして堂々 と退去し、北へ向けて去っていった。

 余談だが、この6年後、依田信蕃は、駿河の田中城を守って家康と再び対峙する。
 圧倒的な大軍の徳川勢相手に奮戦するが、家康から武田家の滅亡を説かれると、同じよう にまた城を開き、粛々と退去した。
 家康はこのとき徳川家への帰服を勧めたが、信蕃は、

「主家滅亡のときに、敵国に寝返るは、臣たる者の義にあらず」

 と言って、この好意を蹴った。
 家康は、信蕃の武士としての矜持と節度に感心し、殺すことはせず、故郷の信濃へ帰して やった。
 「本能寺の変」で信長が死んだ後、家康が信濃を手に入れようとしたとき、依田信蕃は 近辺の在所から3千の兵を集め、信州芦田を拠点として近郷を制圧し、これをそのまま家康 に献じた。以後は徳川家の被官となり、家康の信州経略の強力なブレーンになり、徳川家と 北条家の和睦を実現するなど、天正11年に戦死するまで多くの活躍を見せた。

 「侍は、己を知る者のために死ぬ」という言葉があるが、この挿話は、家康という男の人 徳だと言っても、おそらく言い過ぎにはならないであろう。家康は、この依田信蕃という骨 太い男がよほどに気に入っていたらしく、信蕃が戦死すると、

「惜しい男を死なせたものだ。信蕃の子を、粗略にはできまい」

 と言って、子の竹福丸に「康」の一字を与えて康国と名乗らせ、「松平」の姓を使う名誉 を与え、3万石の大名にしてやっている。

 同じ武田家に属し、同じように半年もの篭城戦を耐え抜いて奮迅しているにも関わらず、 岩村城の秋山信友は「逆さ磔」で殺された上に首を曝され、二俣城の依田信蕃は家康に愛さ れ、その子が大名になった。

 以上、余談が少々長すぎたかもしれない。


 ともあれ、二俣城の陥落によって、家康は遠江をほぼ取り戻したといっていい。
 高天神城は、陸の孤島のように徳川領の中で敵中孤立してしまっており、家康はここに 厳重な封鎖体勢を敷き、武田勢の動きを封じ込めた。

 家康と勝頼の一進一退の攻防は、これから6年にわたって続いてゆくことになる。




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