歴史のかけら
44勝頼は逃げる途中で、重荷になる武田家重代の旗や兜まで捨ててしまった。それほど織 田-徳川連合軍の追撃が凄まじかったということでもあるのだが、このことは、勝頼の評判 を著しく落とすことになった。 ちなみに、この武田家の旗を拾ったのは、全軍の真っ先に立って敵を追撃していた平八郎 隊である。 「武田四郎! 命を惜しんで相伝の旗を敵に取られるか!」 平八郎隊の梶金平という者が、大声であざ笑ったという。
結局、武田勢は、戦死者が約9千人。そのまま国を捨てて逃散したり、逃走途中で野垂れ
死んだり野武士に討たれるなどして行方不明になった者が約3千人。1万5千人いた武田の
将兵で、甲斐まで無事辿りつく事ができた者は、わずか3千人ほどでしかなかった。 堅固な要塞に篭り、飛び道具を主体にして終始防戦していたはずの織田-徳川連合 軍でさえ、戦死者が実に6千人にものぼっていた。この数字を見るだけで、武田勢がいかに 勇猛で精強な戦闘集団であったかということが理解できるであろう。
両軍合わせて1万5千もの人間が、わずか半日の決戦で戦死してしまったという例は、
我が国の近代以前のいかなる戦争においても類がない。東西合わせて16万近い軍勢が戦
った後の「関ヶ原」でさえ、戦死者は(諸説あってはっきりしないが)1万人程度に過ぎな
いと言われているのである。 信長にとって、勝頼にとって、そして、むろん家康にとっても、この「長篠の合戦」が 1つのターニングポイントになったと言っても、おそらく言い過ぎではない。
平八郎は思った。 事実、どうにか拮抗していた織田と武田の戦力バランスは、この一戦をもって織田方が圧倒 的に有利になり、もはや勝頼は、信長にとって強敵でさえなくなってしまっていた。 「この際、どこまでも勝頼を追撃し、一挙に武田家を屠るべし!」
織田家では、こういう議論が沸騰した。 「それがしが先鋒になって骨を砕きまする。甲州までも攻め入りましょうぞ!」
家康も、信長に嘆願した。 しかし、信長は動かない。 「放っておけば、武田は滅ぶ」 当初の方針を変えようとしなかった。
信長のこの考えには、それなりの理由がある。
信長は、長篠城で論功行賞と戦後の処置を済ませると、5月25日、岐阜へと帰っていった。
同時に、長男 信忠に命じて大軍を東美濃へ回し、秋山信友に奪われた岩村城を包囲させて
いる。
ちなみに信長は、この秋山信友との約束を反故にし、岩村城を受け取るや武田の将兵を騙
し討ちで皆殺しにし、信友とその妻――信長の叔母である――お艶を捕らえ、長良川河畔
で「逆さ磔」という軍陣の作法としては考えられない極刑に処し、その首を曝した。 この岩村城陥落 以後、武田の勢力が織田家を脅かすことはなくなった。
勝頼は、まだ甲府へ帰り着いたばかりであり、為すすべがない。遠江の武田方の城に警戒
を呼びかけ、重要軍事拠点である諏訪原城、高天神城に多少の軍勢を増強するくらいしか手
の打ちようがなかった。
二俣城は、かつての「信玄西上」のとき、信玄によって攻め陥とされた城である。信玄は、
天然の要害であるこの二俣城を修築増強させ、軍勢を込めて浜松への橋頭堡にした。
この遠江奪回戦での平八郎隊の活躍というのは、まさに鬼神のようであった。
大久保忠世によって封鎖された二俣城は、半年にわたって持ちこたえた。 天正3年(1575)12月の末、奮戦も虚しく、ついに兵糧が尽きてしまった二俣城では城 将 依田信蕃(よりた のぶしげ)が決断し、将士の命の保証を条件に開城することになった。
城の受け渡しの日、たまたま雨であった。 「一城の主ともあろうものが、蓑笠をつけて城を落ちるなどは見苦しい。城の受け渡しを 晴天の日まで待ってもらいたい」
と家康に言い送ってきた。
余談だが、この6年後、依田信蕃は、駿河の田中城を守って家康と再び対峙する。 「主家滅亡のときに、敵国に寝返るは、臣たる者の義にあらず」
と言って、この好意を蹴った。 「侍は、己を知る者のために死ぬ」という言葉があるが、この挿話は、家康という男の人 徳だと言っても、おそらく言い過ぎにはならないであろう。家康は、この依田信蕃という骨 太い男がよほどに気に入っていたらしく、信蕃が戦死すると、 「惜しい男を死なせたものだ。信蕃の子を、粗略にはできまい」 と言って、子の竹福丸に「康」の一字を与えて康国と名乗らせ、「松平」の姓を使う名誉 を与え、3万石の大名にしてやっている。 同じ武田家に属し、同じように半年もの篭城戦を耐え抜いて奮迅しているにも関わらず、 岩村城の秋山信友は「逆さ磔」で殺された上に首を曝され、二俣城の依田信蕃は家康に愛さ れ、その子が大名になった。 以上、余談が少々長すぎたかもしれない。
家康と勝頼の一進一退の攻防は、これから6年にわたって続いてゆくことになる。
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