歴史のかけら
合戦師
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一方、設楽ヶ原の戦場を北へと迂回した馬場信春隊はほぼ1千。佐久間信盛率いる3千の
織田勢が陣取る丸山へ向けて、凄まじい勢いで攻めかかった。
「ここが切所ぞ! 甲州武者の意地を見せろや!」
頭上から撃ち下ろされる矢弾をものともせず、馬場信春は自ら先頭に立って手勢を叱咤した。
白い陣羽織で軍装を統一した武者たちが、槍を揃えて面も上げずに敵に突きかかってゆく。
「なんとしても丸山を取れ!」
武田勝頼は予備隊の半分を投入し、馬場隊に続かせた。
「なにがなんでも引くな!」
佐久間信盛は、鉄砲と矢でさんざんに敵を撃ちすくませ、自ら槍をとって斜面を駆け下り、
武田家で最強と呼ばれる馬場隊と正面から激闘を演じた。
丸山の争奪をめぐって、両軍入り乱れた激烈な死闘は1時間以上にもわたって続く。
なかでも猛将 馬場信春の働きは無類のものであった。信春に心酔する馬場隊の勇猛さも
古今に比類がなく、防戦する織田勢を背筋を震え上がらせた。突き崩されても突き崩されても
そのたびに軍勢を建て直し、寄せては返す波のように頭上の敵に向かって波状攻撃を繰り返
し、高所に陣取る倍以上の敵を相手に押しまくり、半数以上の将士を失いながらも、つい
に佐久間隊を壊走させてのけたのである。
馬場信春は、白地に黒の“山道”の旗を、敵味方に見えるように山頂に押し立てた。
(勝てる・・・!)
勝頼は思ったであろう。
この丸山に軍勢を集結させ、信長の防衛ラインの北端を迂回して織田勢の陣の中になだれ込
ませれば、前後から敵に攻撃を受けることになる前線が全域にわたって崩壊をはじめ、防御
柵が次々に破れ、ついには敵を圧倒できるであろう。
勝頼は、ただちに残る予備兵力を全力で丸山に投入した。
この時点で、武田勢の兵力は底をついた。
武田勢は、全戦線にわたって悲壮な突撃をし続けていた。
押しかけては大被害を出して退却し、また繰り変わって新手が愚直に突撃をする。やがて
迂回部隊が敵を背後から突き崩し、前後から敵を殲滅できるものと信じ、迂回部隊を援護す
るためにも敵の軍勢を1人でも多く柵に釘付けにすべく、彼らは自殺的な突撃を繰り返して
いた。
中でも、馬場信春を援護するために要塞の北部に突撃を仕掛けた真田隊、土屋隊の奮戦は
凄まじく、丹羽長秀、羽柴秀吉らが篭る3段構えの柵の2段目までを突破した。
「鉄砲衆! 左翼じゃ、ゆけ!」
信長はすぐさま前田利家、佐々成政ら5人の鉄砲隊長に命じ、1千挺の鉄砲部隊を出
して救援に向かわせたため、最期の柵が破られることはついになかった。
柵に取り付くということは、敵の攻撃を無防備で受けるということであり、戦国最強と
呼ばれた一騎当千の武田の武者たちが、名も無い鉄砲足軽が放つ銃弾の餌食になってばたば
たと討たれていった。このときの武田勢がどれだけ勇敢であり、その突撃がいかに凄まじ
かったかというのは、正午前から行われたわずか2時間ほどの突撃で、名のある人物がどれ
ほど討たれたかということで、歴然と解るであろう。
馬場信春を援護するために、信長の要塞の北部に突撃を仕掛けた真田信綱、昌輝の兄弟と、
全軍でただ1人 三段目の柵まで辿りついた土屋昌次。
山県昌景を援護するために、要塞南部に攻めかかった者では原昌胤。
中央戦線では、西上野(群馬県西部)の騎馬武者を引き連れ、坂東武者の誇りにかけて騎馬
で突撃した小幡憲重。
『信長公記』では、この他にも13人の名が挙げられており、『長篠日記』を見ると、さ
らに19名が列挙されている。
これほど多くの指揮官たちが討ち死にしてしまった武田勢というのは、全線にわたって文
字通り崩壊寸前だった。まとまった戦闘力を保持していたのは、丸山を占拠した馬場信春隊
と、そこに投入された勝頼の予備隊だけだといっていい。
(今しばらくだけ支えてくれ・・・!)
勝頼は、ほとんど祈るような気持ちでそれを思った。
この丸山の部隊が、敵陣の後方に回って敵を突き崩すまで前線が保てば、大逆転の目がな
いではない。勝頼としてはもう、そこに望みを賭けるしかなかった。
平八郎隊、榊原康政隊、石川数正隊らをびっしりと配した要塞の中央から南部は、武田勢
の攻勢によく耐えていた。
この方面の武田勢は、迂回部隊を指揮していた山県昌景が討ち死にしてしまったためにど
うしても士気が奮わず、原昌胤という侍大将級の人物が討ち死にするほどに猛攻を仕掛けて
いるのだが、頑強に抵抗する徳川勢の柵を破ることはできなかった。
(そろそろ好機(しお)じゃ・・・)
平八郎は思った。
早朝から行われた小競り合いと2時間近い猛攻の末に前面の武田勢は疲労しきっており、
手負いや討ち死にした者は千人をはるかに越え、指揮系統も崩壊しかけている。今、この柵
を打って出て突撃すれば、敵を決定的に打ち崩すことが間違いなくできるだろう。
戦にとってもっとも重要なものは、「戦機」であると平八郎は思っている。今がまさに、
その「戦機」であると確信した。
「使番!」
平八郎は伝令将校を呼びつけた。
「殿さまに伝えよ! 『柵を打って出るは今をおいて無し! すぐ総攻めの下知をお出しなさ
れるべし!』」
これを聞いた家康は、すぐさま決断した。
「全軍突撃せよ!」
たちまち押し太鼓が乱打され、法螺貝がびょうびょうと吹き鳴らされた。徳川勢が木戸を
開いて柵から踊りだし、目前の敵に向かって突撃する。
武田勢に、抵抗するだけの余力はすでに残ってない。瞬く間に崩れ立った。
(いかん!)
山県昌景亡き後、武田勢の左翼をどうにか統率していた内藤昌豊は戦慄した。ここで左翼
が崩れてしまえば、全軍が連鎖崩壊することは間違いない。
内藤昌豊は、このとき54歳。知勇ともに抜群の人物で、軍事から政務まで故 信玄をよく
補佐し、「武田の副将軍」とあだ名されたほどの器量人であった。武田四名臣にも数えら
れ、多くの合戦で優れた軍功を挙げたが、信玄は「修理(内藤昌豊)ほどの男なら、人より活
躍するのが当然」と笑って一枚の感状も与えず、昌豊もそれを当然としていたという。
これほど信玄と深い信頼関係で繋がっていた人物である。武田家を救うために、とっさに
自らの命を捨てる決意をした。
内藤昌豊はほとんど指揮を失って散り散りになっていた辺りの軍勢を集結させ、一手で奔
流のような徳川勢を支えようとした。
この内藤隊に、全軍の先頭に立ってまっしぐらに突き込んだのが平八郎隊である。
「敵の首は打ち捨てよ! 一刻も早く突き破れ!」
平八郎は真っ先に立って駆け、“蜻蛉切”を振り回して群がる武田勢の真ん中に飛び込み、
敵を無茶苦茶に突き倒しながら駆けに駆けた。
すでに戦闘力をほとんど失っていた武田勢は瞬く間に突き破られ、踏み止まって奮戦して
いた内藤昌豊も雲霞のような徳川勢に飲み込まれ、激闘の末に討ち死にした。
内藤昌豊隊の壊滅で、武田勢の左翼は総崩れになった。この徳川勢の大攻勢に組織だって
抵抗できるほどの軍勢は、全軍の中央を任された武田信廉隊を残してもはやない。
(終わりじゃ・・・)
武田信廉の諦めは早かった。
元々最期まで勝頼の決戦に反対していた信廉である。この場で死ぬほどの奮戦をする
気持ちは最初から持っていない。内藤隊の壊滅を見るや、すぐさま手勢を総退却させた。
これで、勝敗が付いた。
徳川勢の突撃と敵の中央部隊の退却を見た信長は、全軍に大攻勢を命じた。
すぐさま織田勢が柵から飛び出し、一斉に敵に突撃する。
(・・馬鹿な!)
勝頼は、生まれて初めての敗戦を味わおうとしていた。目の前で起こっていることが、ほ
とんど信じられなかった。
あとほんの1時間も保ちこたえることができれば、丸山を占拠した馬場信春隊の大攻勢に
よって織田勢を蹴散らすことができたであろう。勝頼の感覚では、柵さえなければ、織田勢
など武田勢の敵ではないのである。しかし目の前の現実は、もはや自軍は中央から崩壊し、
自分の本陣さえ敵の奔流に飲まれようとしている。
「馬引けぇぃ!」
勝頼は槍を掴み、自ら打って出て敵を蹴散らそうとさえした。しかし、近習たちは身体を
張って制止した。彼らは、ともかくも総大将である勝頼を戦場から離脱させなければなら
なかった。
(終わったわ・・・・)
丸山の山頂からこの武田勢の大崩壊を遠望した馬場信春は、自分の生涯をかけて積み上げ
て来たものが、まさに崩れてゆこうとする、その音を聞いているような気分であった。
戦国最強と呼ばれた武田の軍勢が、中央を突き崩されて完全崩壊することなど、この20年
あったためしはない。あの上杉謙信でさえ、信玄に率いられた武田勢を破ることはできなか
ったのである。馬場信春は、その信玄の先鋒として常に先頭に立って戦い、抜群の武功を挙
げ、勝利に多大な貢献をしてきた。不敗の武田軍団というのは、いわば馬場信春の人生その
ものであり、その人生が崩壊する劇的な瞬間を、今まさに、眼下に見下ろしているので
ある。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。武田家の武将として、彼にはまだやることが残
っている。
馬場信春は、全軍を山から駆け下らせ、突撃を始めた織田勢の横腹へ向けて飛び込んだ。
勝頼の本陣の目前で、たちまち凄まじい乱戦が始まる。
「皆みな、ここが死に場所ぞ! わしに死に遅れて恥を残すな!」
馬場信春の仕事は、全軍の殿(しんがり)になって奮戦し、追撃しようとする織田勢の足を
止め、勝頼を戦場から離脱させることであった。
馬場信春は、わずかになった手勢と勝頼の旗本を率いて戦っては逃げ、逃げてはまた突
撃し、自ら槍を振るって阿修羅のように奮戦した。純白であった陣羽織は返り血でどす黒く
染まり、手勢は削り取られるようにして死んでいったが、この猛将は最期まで屈せず、怒涛
のように進撃してくる織田勢を相手に死に物狂いで戦った。その勇戦は、後に織田方からも
賞賛されたほどで、『信長公記』でさえ敵である馬場信春の名をとくに挙げ、「その働きは
比類ないものであった」と褒めている。
馬場信春は、この困難極まる退却戦を4kmにわたって継続し、勝頼が寒狭川を無事に渡河
したことを見届けると、踵を返し、生き残った二十数人の部下と共に追撃してくる織田勢に
突っ込み、闘死した。
「不死身の鬼」と呼ばれ、かつて戦場でいかなる傷も負ったことのない馬場信春だったが、
生きて武田家の滅亡の日を迎えるということに、耐えられなかったのに違いない。
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