歴史のかけら
42中休みに入っていた武田方の陣城で、突然 押し太鼓が乱打され、法螺貝の音が響き渡り、 武田勢の南端から山県昌景隊が、北端から馬場信春隊が、敵陣に向けて一斉に飛び出した。 両隊は連子川の目前まで突出し、前面の防御柵に篭る敵に向かってつるべ打ちに矢を放 ち、散発ながら鉄砲も撃ちかけ、これまで通りの飛び道具での攻撃を行った。 「また来たぞ! 追い返せ!」 織田-徳川連合軍の将士は、土塁から半身だけを出し、慣れた調子で矢を放ち、鉄砲を浴 びせかけ、これに応戦した。早朝から何度も繰り返された小競り合いであり、敵がそれ以上 接近して来ないことを男たちは知っていたから、このときはまだ、軽口をきく余裕さえあっ た。 「こんな楽な戦もないわ!」 「まったくじゃ!」 「お屋形さまの偉さよ! 天下の武田勢が、近づいても来られぬわ!」 やがて潮が引くように敵勢が下がり始め、男たちは安堵の息をついた。 すべて、武田勢にとって、予定の軍事行動であった。
(・・・今度は、来る!)
平八郎は直感した。 「鉄砲組、備えよ!」 装填を終えた鉄砲隊を土塁に折敷かせ、平八郎は敵の猛進を直視していた。
「よう狙え! 一発で撃って取れ!」
土塁の上の足軽たちにとって、これほど簡単な殺人もなかったであろう。ほんの10数m先
にいる抵抗のできない相手に向かって矢と鉄砲を浴びせかけるだけで、最強といわれる
武田の武者どもがばたばたと死んでいくのである。矢も鉛玉も、面白いように敵に命中し、
柵の外はたちまち阿鼻叫喚の地獄絵となった。
こういう形の消耗戦になれば、柵と土塁で守られ、敵の三倍以上の兵力を誇る織田方が、や
はり圧倒的に有利であった。織田勢も徳川勢も、土塁の上から味方の頭越しに敵を至近距離
から狙撃できるため、狙いが正確で外れがほとんどない。しかし攻める武田勢は、味方が
邪魔になるために思うように飛び道具さえ使えないのである。 (・・・・・強い!)
平八郎は思った。
「三河殿、どう見る?」 信長が武田勢の猛進を凝視しながら言った。 「鳶の巣山の陥落を、敵が知ったのでありましょう。本気で総攻めを始めたようでござりま すな。しかし・・・敵ながら怖ろしいほどの勇猛さと言わねばなりませぬ」 「・・・うむ。さすがは信玄の武者どもじゃ」 「しかし、織田殿のこの陣城の堅さには、さしもの武田の武者どもも難儀致しておるようで ござりまするな」 「それよ。・・・いつまでも、阿呆のように正面から攻めてはくるまい」
信長の言葉の通りであった。 「掛かれ掛かれ!」
囮となる武田の侍大将たちは、全戦線にわたって、命を捨てて柵へと猛進してきた。
そのころ山県昌景は、戦場を大きく南にそれ、街道を使って軍勢を猛進させていた。 「それ、来おったぞ!」 徳川勢の最右翼――野戦要塞の南端に配置されていたのは、大久保忠世、忠佐兄弟が率い る三河岡崎衆であった。いち早くこの新手に対応して要塞から南進し、橋を封鎖するよ うに展開して山県昌景隊を迎え撃った。 「放てぇぇっ!」 大久保忠世は鉄砲隊を斉射させ、繰り変わった弓隊に矢を射掛けさせ、隊伍を乱した敵に 向けて槍を揃えて突きかかった。 「止まるな! 突き抜けよ! 駆け抜けよ!」
山県昌景は自ら馬を駆り、大久保隊に波状攻撃を掛けつつ、一隊をさらに迂回させ、これ
に連子川を渡河させ、大久保隊の側面から突きかからせた。 「あの大久保という者、武勇抜群であるな。良き武者は、膏薬のように敵にべったりと張り付 いて離れぬものじゃ。我が家中には、あれほどの者はおらぬ」
その奮戦振りは、戦場を遠望している信長をさえ驚嘆させるほどであった。
大乱戦になった。 「大将を討ち取れ! 狙い撃て!」
大久保忠世は鉄砲隊に命じ、馬上で阿修羅のように奮戦する山県昌景に向け、筒先を揃え
て一斉射撃させた。山県昌景は銃弾を身体中に浴び、馬上から数mも跳ね飛ばされ、その
まま絶命した。
ようやく敵を壊走させた後、大久保忠世が見たものは、すでに味方によって首を持ち去られ
ている山県昌景の遺体と、その周りで折り重なるようにして死んでいる何十人もの侍のたち
の骸であった。
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