歴史のかけら


合戦師

41

 天正3年(1575)5月21日というのは朝霧がとりわけ濃く、川辺の低湿地である設楽ヶ原は、 陽が昇ってもしばらくのあいだ深い靄の中に沈み込み、その狭い窪地に両軍合わせて5万も の大軍勢がひしめいているとはとても思えないほどに静謐としていた。

 午前5時――
 目を覚まし、すでに朝食も済ませた武田勝頼は、真紅の糸で威された愛用の最上胴を着込 み、本陣に諸将を集めた。

「今から敵を攻める」

 勝頼は宣言するように言った。

「先鋒は馬場、山県の両将。この軍勢を皮切りに、全軍が前面の敵陣に向かって攻めかけよ。 ただし、敵陣に接近しすぎてはならぬ。あくまで弓、鉄砲での小競り合いに終始し、時機を 見て退却し、敵を柵の中から誘い出すよう努めよ」

 勝頼は、敵陣への勝手な突撃を厳しく戒めた。

 勝頼に言われるまでもなく、この本陣に集められた歴戦の猛者たちは、信長が篭った野戦 要塞の厄介さと怖さというものを解りすぎるほどに理解していた。
 敵陣の前に流れる連子川を渡ればそこには空堀が穿たれ、空堀をよじ登れば2mを越えよ うかという高い柵が行く手を阻み、さらに柵の向こうに築かれた土塁の上からは、敵が矢と 鉛玉を豪雨の如く浴びせかけてくるだろう。その柵を1つ突破することにさえどれほどの犠 牲を払うか知れたものではないのに、信長の執拗さは、柵を3段に構え、空堀、土塁もそれ ぞれ3列用意したことだった。
 南北2kmにわたってこの大土木工事をし、長大な野戦要塞を構築してのけた信長の執念深 さというのは、それまでの日本の戦争史に類がなく、これを用心深いというならば、信長の 武田勢に対する用心深さというのは、臆病を通り越して偏執的であるとさえ言えたかもしれ ない。

 もっとも当人に言わせれば、信長は合戦をする気がそもそもなかった。

(勝頼が諦めて帰ってくれるなら、普請をする方が合戦をするより安い)

 という純粋な損得勘定からこの堅固な野戦要塞を築いており、要塞を堅固にすればするほ ど勝頼のやる気が殺がれ、武田勢の戦意が殺がれるであろうことを見越し、合戦そのものより もむしろ、この要塞が持つ戦争抑止力にこそ信長は期待を懸けていたのである。

 それほどの野戦要塞に、何の策もなく正面から力攻めをするというのでは、集団自殺をす るのとなんら変わりがないであろう。


 午前6時――
 あたりの丘陵に、陣太鼓の轟きと法螺貝の叫びが一斉にこだまし、男たちの雄叫びと地鳴り のような振動が大地を鳴動させた。
 5千人を越える武田の武者たちが、波のように織田-徳川連合軍が篭る野戦要塞へと駆け出 したのである。

「決して柵から出てはならぬ! 弓と鉄砲でのみ戦をし、柵にとりつこうとする敵は槍で 突き殺し、柵を死守することのみ考えよ! 抜け駆けの功名は一切認めぬ! 必ず我が下知に 従って進退せよ!」

 信長は、全軍にこの指示を徹底していた。


「撃てぇぇっ!」

 掛け声と共に、轟然と鉄砲が火を噴き、20本の火線が霧の設楽ヶ原に吸い込まれた。
 平八郎は、徳川勢の左翼――野戦陣地の中央付近に布陣し、第一の柵の内側の土塁の上に 立って手勢を指揮していた。

「二番組、前ぇっ!」

 発射を終えた組を後方へ下げ、ただちに新手の鉄砲足軽を土塁の上に折敷かせ、再び敵に 向かって斉射させる。

「次! 弓勢っ!」

 平八郎は、今度は隊列を弓隊と入れ替え、次々と矢継ぎ早に矢を放たせた。

 先込め式の火縄銃は、弾丸の装填動作にひどく手間がかかる。一発の射撃に必要な 時間で、早弓なら楽々と10本は放つことができてしまうだろう。火砲装備が充実している 織田勢でさえ、飛び道具の主力はあくまで弓でなのである。
 信長が持っている3千挺の鉄砲というのは、確かに他家には類が無いほどの圧倒的な火力 であった。しかし、その3千挺のうち千挺は予備兵力として信長の手元にあり、5百挺は奇 襲部隊に預けてしまったため、主戦場に配備されている鉄砲の数というのは実際には千5百 挺に過ぎず、これは割合でいえば、百人の部隊に10挺さえ配られていないということなので ある。しかも、この設楽ヶ原は主戦場が南北に2kmと桁外れに長く、自然、そこに配置され た各部隊の隊列も横に長く薄く伸びざるを得ず、分散配備されている程度の鉄砲の数では、 野戦陣地の全面で強力な銃陣を形成するまでにはとても至らなかった。

 防御陣の最前列に配備された織田勢も徳川勢も、土塁から半身だけを出し、迫り来る武田 勢に向かって轟然と鉄砲を放ち、次々に矢を撃ち込んだ。
 武田勢は、竹束の盾を用いて矢弾を避けながら、連子川の手前から投石し、矢を放ち、少 数ながら鉄砲も撃ちかけ、柵の中の敵に向かって攻撃した。
 しかし、この程度のことでは、両軍ともにたいした損害は出ない。
 兵の疲労と共に、波が引くように武田勢が引き始め、繰り変わった新手が野戦陣地の前に 再び押し寄せ、また飛び道具を使った攻防が始まる。

(やはり、信長は出て来ぬか・・・)

 開戦3時間、小競り合いにのみ終始する戦況を見て、勝頼は満足していた。数日は、こう して長篠城を陥落させるための時を稼ぎ、同時に信長が「武田勢は愚直に柵へ向けて攻撃し てくる」という意識を持つように仕向け、要塞に篭る敵の将士を油断させ、迂回攻撃の秘策 を悟らせないようにし続けねばならない。
 この頃、鳶ノ巣山に置かれた長篠城攻城部隊の本陣が、酒井忠次隊の奇襲によってすでに 壊滅しているのだが、そんなことは勝頼が知るよしもないことであった。

 酒井隊が長篠城に駆け込み、包囲部隊を壊走させ、その陣屋に火を放って焼き払ったの が午前10時ごろのことである。
 うかつにも、勝頼はこのときまで、自陣の4km後方で起こっている異変に気付かなかった。

「なんじゃあの煙は!?」

 最初は、長篠城が燃えているのかと思った。むしろ、常識的な判断であったであろう。し かし、壊走した攻城部隊の一部が勝頼の陣地に逃げ込んで来たために、事態が明瞭となっ た。

「では、すでに鳶ノ巣山が陥ち、長篠城を囲んでおった部隊が壊走し、敵の大部隊が城に 入ったと申すのか!?」

 勝頼は、このとき初めて蒼白な顔になった。

(・・・・一生の不覚!)

 悔いてもすでに遅すぎた。
 順番が、逆だったのである。

 勝頼は、なにがなんでも長篠城をまず陥とし、そこに足場を確保してから設楽ヶ原に出る べきであった。そうすれば、少なくとも別働隊を各個撃破されることはなく、後方を遮断さ れることもなく、堂々と織田-徳川連合軍と渡り合うことができたであろう。
 しかし、背後に大部隊を受けてしまったこの状況では、いつ敵に挟み撃ちにされるかもし れず、しかも補給線が切れてしまったために長期の対陣そのものが不可能になってしまって いた。
 勝頼に残された道は、全軍を反転させ、一丸となって後方の部隊を突破し、追撃してくる 織田-徳川連合軍を振り切って信濃まで逃げ帰るか、前面に広がる信長の野戦陣地を突き破 って信長の首を挙げ、一気に勝敗を決してしまうかのいずれかしかなかった。

(・・・・・・・・・・やってやろうではないか!)

 勝頼の目が据わっていた。
 反転退却には、勝利の要素は1かけらもない。間違いなく出るであろう大損害を覚悟し、 たとえ退却が成功したとしても、負けは負けなのである。
 不敗の猛将 武田勝頼の選択は、考えるまでもなかった。

(あの陣城を抜き、信長と家康の首を獲り、わしが勝つ!)

 勝頼はただちに使番を走らせ、諸将を本陣に集めた。

「鳶ノ巣山が陥ち、長篠城に敵の大部隊が入った!」

 勝頼は正直にすべてを話し、諸将に決死の覚悟を固めさせようとした。前面の信長の野戦 要塞を撃砕し、敵を叩きのめして大壊走させる以外、もはや武田勢が生き残る道はないと説 いた。

「これよりただちに総攻めを行い、信長と家康の首を引きちぎり、敵を突破して甲府へ凱旋 いたす!」

「馬鹿な!!」

 逍遙軒 武田信廉が怒鳴った。

「長篠城を陥とすことがことが叶わなかった以上、もはやこの三河討ち入りは目当て(目的) さえ失っておりまする! 事ここに至れば、殿(しんがり)にこの陣城を任せ、全軍をもって 後方の敵を突き破り、信濃へと退却するが上策!」

 勝頼は激怒した。 

「決戦致すは、この勝頼がすでに“楯無しの鎧”に誓いを立てたこと! 叔父上、臆された か!」

「このわしを、臆病者呼ばわり致すか!」

 勝頼の暴言に激昂した武田信廉が太刀に手を掛け、周りの重臣たちが慌ててその身体を押さ えつけた。

「勝頼! 兄 信玄が生涯を賭けて育てた武田家を、貴様の代で潰す気か!?」

 信廉は、凄まじい目つきで甥を睨みつけた。

「言葉に気をつけられよ、叔父上! 我が子 信勝が成人致すまでは、わしがこの武田の 大将ぞ! 我が父 信玄の言葉をお忘れか!」

 勝頼の決戦の決意は固く、もはや、議論することは何も残されていなかった。
 しかし、遺恨は残り、諸将の心にわだかまりは残されたままだった。


 こうして、天正3年5月21日は、正午を待たずに戦況が一変することになる。
 設楽ヶ原は、壮絶な屠殺場になった。




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