歴史のかけら


合戦師

 駿河という国は、鍋之助にとって、驚きの連続であった。

 まず、北東の天に富士がある。山頂に万年の雪を頂き、神韻を漂わせて佇む富士を眺めた とき、鍋之助は、

「これは神じゃ・・・」

 と呆然としたものであった。
 また町が違う。
 駿河の国府である駿府には戦がない。強大な今川家の武力に守られたこの駿府は、もう 何十年も戦が起こったためしがなく、建ち並ぶ家屋敷も、庭木などがよく手入れされ、 どことなく落ち着いた雅さを醸している。そこに住む人々は、たとえば小さな農家でさえ 名子(農奴)などを抱えているほどに暮らしぶりが良く、海沿いの集落などでは、浜を掘れば 蛤が採れ、海に入れば海草や魚が獲れ、この乱世にも関わらず飢えるということがない。
 町を往く武士の服装など、見るだにみな煌びやかで、三河のような殺伐とした暗さが微塵 もないのである。

「これが、同じ人間の住む国か・・・」

 貧しい三河の暮らししか知らない10歳の少年は、途方もないカルチャーショックを受け ざるを得なかった。


 今川義元が住む駿府館は、都の内裏もかくや、というほどに贅を凝らし、雅致に富んでい る。
 義元は、代々の今川家当主がそうであったように、京文化――なかでも公家の文化を溺愛し、 今川家の富強にまかせて京の文物を輸入し、文化人を呼んでは遊興に熱中していた。自らも 薄化粧をし、天上眉を描き、歯を黒く染めるほどの熱の入れようである。

 竹千代は、このとき15歳。
 6人の側小姓と、新婚早々の新妻、そしてその付き人らと共に、駿府館にほど近い若宮町に ある人質屋敷で寝起きをしていた。数ヶ月前に成人し、名も松平 次郎三郎 元康と改めている のだが、この物語では、ここからは読者に馴染み深い「徳川 家康」という名で通したい。

「本多の鍋か」

 初めて伺候した鍋之助に、家康は静かな微笑をたたえて言った。

「そちは、ゆくゆく本多の“平八郎”になる男である。文武に励み、父祖に劣らぬ よき侍になれ」

 と言葉を掛けてくれた。
 「平八郎」という通称は、鍋之助の本多家の、宗家の当主が代々世襲している名前であった。 ずっと三河を留守にして人質生活を続けていた家康が、そんなことまで知ってくれているとい うことに、幼い鍋之助はひどく感激した。

(わしはこの殿さまのために死ぬのじゃ!)

 母である小夜の言葉を思い出し、少年は身の内が震えるような興奮を覚えた。


 それからの鍋之助は、懸命に駿府での日々を過ごした。
 もともとが生真面目過ぎるほどに真面目な少年なのである。わずかなことにも気を配り、 ことに主である家康の心には神経質なほどに気を使った。その意味では、養父 忠真の教え を、忠実に守ったといえるだろう。
 たとえば、家康は鷹狩を好む。
 家康の鷹狩好きというのは、生涯の趣味といえるほどのものなのだが、鍋之助が駿府に来て からというもの、その鷹狩の成果が著しく良くなったのである。
 野山に連れてゆくと、鍋之助は恐るべき正確さで鳥の居場所を言い当てた。鍋之助自らが 勢子になり、見事に小鳥を追い上げ、いつも家康を喜ばせる。

(鍋は使える・・・)

 家康ほどの男である。鍋之助の尋常ならざる観察眼をすぐに見抜いた。

「鍋、武勇を磨け。そちが一人前になれば、わしが必ず物頭(将校)にしてやる」

 家康は、この犬ころのように主人に忠実な少年に、ひどく好意を持った。しかもこの犬こ ろが尋常でないところは、溌剌として涼やかな英気に満ち、頑固が身上の三河者の中では誰 よりも機転が利く上、人の数倍は目端が利くことであった。


 それから2年後、永禄2年(1559)の早春、鍋之助は12歳という若さで元服する ことになった。
 普通武士の元服といえば15歳前後に行うのが一般的なのだが、鍋之助はすでに上背もあ り、膂力においては側小姓の中でももっとも優れ、たとえば相撲をとらせれば、人質屋敷の 誰もが鍋之助に敵わないのである。
 加冠役は、主君である家康自らが務めた。

「鍋、そちは今より本多 平八郎ぞ。諱(いみな)は、本多家の代々の『忠』に『勝つ』と 付けよう。『ただ、勝つ、のみ』。本多 平八郎 忠勝と名乗るがよい」

 駿府の人質屋敷で、本多 平八郎 忠勝が生まれた瞬間であった。




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