歴史のかけら


合戦師

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 高天神城を奪われたことは、家康にとって非常な痛手であった。家康は、遠江の中央部は なんとか取り戻したものの、今度は東側をごっそり武田にもっていかれてしまったわけであ る。
 勝頼は、諏訪原城と高天神城に軍勢を篭め、遠江方面の最前線基地にした。

(これがわしの武略じゃ!)

 勝頼は、声に出して叫びたかったであろう。父である信玄さえも攻めあぐんだ高天神城を 自ら陥し、信玄亡き後の武田軍団の武威を、勝頼の名と共に天下に示したのである。

 勝頼が軍を進めるところあたわざるということなく、戦えば必ず勝ち、たとえば天下に響 いた信長でさえ自分の軍勢を見ただけで倍の兵力を持ちながら戦わずに逃げた。これで有頂 天にならない若者など、この世になかったに違いない。

(信長、怖るるに足らず!)

 もともと尾張勢の弱さというのは天下に定評があったが、それを指揮する信長が、自分と 武田軍団を怖れていると、勝頼は思った。武田勢は20年に渡って上杉謙信率いる越後勢と戦 ってきたという無類の戦歴を持っており、その強さと怖ろしさというものを肌身を持って知 っていた。これと比べたとき、信長の尾張勢に脅威を感じられないのは、むしろ当然の心の 動きであったかもしれない。

(厄介なのは、むしろ三河者たちじゃ・・・)

 「三方ヶ原」を戦い、高天神城を攻め陥した勝頼は、三河者たちの朴強さと主への忠誠心 というものをよく知っていた。これをいち早く叩き、滅ぼすか隷属させるかすることが、信長 退治の近道になるであろう。

「次は、長篠城を取り戻し、吉田(豊橋)と岡崎を攻め潰す!」

 勝頼は高らかに、次の攻撃目標を家中に示した。


 豊橋平野から奥三河に突き出した長篠城は、家康にとって武田勢を防ぐ三河での最前線 基地であった。家康は、武田から寝返った「山家三方衆」の奥平信昌に3百の鉄砲と5百の 兵を預け、「何があっても死守せよ」と命じて城に篭めた。武田方に人質として送った 弟を殺されてしまっている奥平信昌は、死に物狂いで防戦するであろう。

 天正3年(1575)3月、1万5千の軍勢を自ら率いた武田勝頼は、信濃から奥三河に入ると、 まず足助を経て西進し、尾張の東部を脅かした。信長の指示で、信長の長男 信忠が率いる 迎撃軍が出てきたが、これを手もなく打ち破り、鼻息も荒く今度は三州街道を南下し、5月 8日、長篠城に到着した。
 勝頼は、城のすぐ北――医王寺山に本陣を据え、全軍を使って長篠城を水ももらさぬ勢いで 包囲した。
 家康は、すぐさま信長に援軍を要請した。


(これは、武田が兵を引かねば、決戦になるぞ・・・・)

 平八郎は思った。
 長篠城は、徳川方にとっては死命を制するといっていいほど重要な城であった。信玄が死ん で武田勢が去った後、家康がまっさきにこの長篠城を全力を挙げて取り戻したのは当然で、 ここを武田方に押さえられたままでは、家康は喉首に刃物でも突きつけられたようなものであ り、岡崎から吉田(豊橋)への移動の安全さえ確保できなくなってしまう。
 逆にいえば、勝頼にとって是非にも欲しい城ということであった。
 家康は、命を賭けてでも長篠城を救援するであろうし、武田勝頼も、こちらが徳川勢だけな らば兵を引くことは絶対にしないであろう。

(すべては織田殿に懸かっている・・・)

 「三方ヶ原」の傷が癒えたとはいえない徳川勢は、長篠に集められる決戦兵力は7千が精 一杯である。1万5千の武田勢に対抗するには、織田の強力な援軍が絶対に必要であった。

(しかし・・・あの織田殿が、本当に来るか・・・?)

 という疑問が、平八郎だけでなくすべての三河者たちにある。
 徳川家における信長の評判というのは、この頃が最悪であった。徳川勢が越前で、姉川で、 死に働きに働いてきたにも関わらず、信長は、「三方ヶ原」ではまったく戦意がない部隊を わずか3千だけ援軍として送り、しかもこの部隊は合戦が始まるや真っ先に逃げた。高天神 城が攻められたときは、援軍の到着があまりに遅く、そのために肝心の高天神城が陥ちてし まっていた。
 三河者たちには、もともと功利的な尾張者という人間たちに対して悪感情がある。それが、 この数年の信長の仕打ちでいよいよ高じてきてしまっていた。

「弾正忠(信長)殿は、銭は出しても兵は出さぬのじゃ」

 というのが、三河者の中での信長の評価にさえなっているのである。

(しかし今回ばかりは、織田の援軍が来ねばどうにもならぬ・・・)

 平八郎には、信長が援軍を出さなかった場合の未来がありありと見えた。
 武田勝頼は、長篠城を陥せば、そこを基点にして吉田城を攻め、岡崎と浜松を完全に分断 してしまうだろう。家康としては本城の浜松に篭らざるを得ず、岡崎城を攻められても救援 に行くことさえできなくなる。この時点で家康の三河での実権は完全に消失するであろうし、 浜松城は敵地のど真ん中に孤立してしまうということになり、もはや降伏するか、全滅する まで戦うかしか選択肢がなくなる。
 長篠城を維持できるかどうかが、徳川家の存亡の鍵を握っていると言っても、決して大袈 裟ではないのである。

 三河者の中には、この際 信長を見限り、武田に寝返ってしまえと声高に話す者さえあった。 家康はそのような家中の声を封じてはいるが、そこまで三河者たちの感情が追い詰められてい ることも事実であった。

(こればかりは、祈るほかないか・・・)

 多くの三河者たち同様、平八郎も家康も、祈るような気持ちで信長の援軍を待った。

 信長の軍勢の最大の特徴は、長距離の移動速度が他家に比べて格段に速いことであった。 信長は早くから領国内の街道の幅を広げ、道を整え、関所を取り払い、大軍の運用が素早く 行えるよう心を配っていた。また近江を手に入れてからは、琵琶湖に大船を多数建造し、水 上を移動することで、岐阜と京をそれまでの常識を覆すようなスピードで往来できるよう にしている。
 それほどの信長と織田軍団なのである。その気があれば、岐阜から岡崎までなら2日と掛 からず駆けつけられるはずであった。

 しかし、5日待ってもやはり、信長は来ない。


 家康からの援軍要請を受けたとき、信長は折りよく岐阜にいた。

(武田と決戦か・・・・)

 信長は、乗り気ではなかった。

(時期が悪い・・・)

 と思うのである。
 天下最強といわれる武田軍団を向こうに回しての織田勢の強みは、ただひとつ、鉄砲を大 量に持っているという点であった。信長は鉄砲という最新兵器の有用性に誰よりも早く着目 し、若い頃からそれを熱心に買い集め、この頃すでに群雄に抜きん出て3千挺もの数を揃え ている。この織田勢の圧倒的な火力装備だけが、最強と呼ばれる武田の騎馬軍団に対して唯一 優位に立っている部分であろう。
 しかし、この強みを最大限利用するためには、「今」は、時期が最悪であった。
 梅雨なのである。

(・・・せめて梅雨が明けるまで、時を稼げぬか・・)

 この頃の鉄砲はいわゆる「火縄銃」で、火縄や火薬が濡れてしまうだけで発射することが できなかった。どれだけ気を使って運用しても、雨の野外で効果的に使用できるものではな い。

(・・・・しかし、後詰め(救援)をせぬわけにもいかぬ・・)

 信長は、間者からの報告で、三河者たちのあいだに流れ始めている不穏な空気を敏感に察 していた。確かに信長のこれまでの態度は、共通の大敵にあたる同盟国としては、酷く冷たい 仕打ちであると言われても反論ができないし、家康が信長にしてくれたことを考えたとき、 信長が家康に対して返したものが少なすぎることも間違いがなかった。

 信長のためにあえて弁護するなら、これまでの信長はあまりに多忙でありすぎた。
 多数の敵に囲まれて東奔西走しながら悪戦苦闘を重ねていたし、さらに加えるなら、信長 の関心は西日本であり、東へ大きく膨張してゆくほどの気持ちは今のところ持ってはいなかっ た。

(東の大国には、家康を当てておけばよい)

 というのが、信長のこれまでの一貫した態度であったし、少なくとも西日本の情勢が片付 くまでは、その考えを変えるつもりはない。
 しかし、家康の三河軍団が独力で武田勢を抑えきれない以上、これはなんとしても救援せね ばならない。家康がいかに篤実で律儀な男であるとは言っても、自家の滅亡という極限状態 に追い込まれれば武田に寝返らないとは言い切れないし、徳川と武田が槍を揃えて信長に 向かってくれば、負けることはないにせよ、これは大いに面倒なことになる。

(ともかくも、行かねばなるまい・・・)

 信長は、この段階で、武田家に決定的な打撃を与えてしまおうというほどの戦意はなかっ た。絶対に負けぬ戦をし、とりあえず武田勢を追い返すことさえできればそれで十分なので ある。
 農兵を中心にしている武田勢の最大の弱点は、何ヶ月も敵地に滞在し続けることができない ということであった。農民が国を空けるということは、農作業ができないということであり、 農業生産が激減するということになるからである。これはそのまま領民の不満になり、豪族 たちの不満に直結するから、いかに勝頼が猛将であっても戦争を継続し続けることができな いということを、信長は知り尽くしていた。
 つまり、たとえ長篠城が落ちてしまったとしても、遠からず武田の本隊は領国に引き返さ ざるを得ないわけであり、武田の本隊が帰ってしまった後であれば、長篠城を取り返すこと は、大軍を擁する信長にとって難しくない。
 現在の信長にとって重要だったのは、武田家の勢力をこれ以上西に広げない、という この一点なのである。
 武田勝頼が台風のように暴れまわり続ける以上、時間を稼げば稼ぐほど武田家は疲弊して ゆかざるを得ないが、逆に織田家は、時間を掛ければ掛けるだけ大きくなってゆくということ を信長は知っていた。武田家がまだ元気なこの時点で、リスクを犯してまで決戦を急がなけ ればならない理由はどこにもないのである。

(策はある・・)

 信長は主立つ武将たちを集め、3万本の木材と6万把の縄をすぐさま用意するように命 じると、5月13日、自ら3万の軍勢を率いて岐阜を出陣し、同15日、三河の岡崎城へ入城 した。

「さてこそ!」

 3万もの大軍を率い、信長自ら出馬して来てくれたのを見て、三河者たちは胸を撫で下ろ したであろう。
 家康は全軍を率いて岡崎へ急行し、自ら手を取って信長とその軍勢を出迎えた。


 こうして、武田家の命運を決めることになる「長篠の合戦」の準備が整った。
 織田-徳川連合軍が3万7千。武田勝頼率いる武田軍が1万5千。
 この数日後、長篠城の南東――設楽ヶ原において、両軍が相まみえることになる。




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