歴史のかけら


合戦師

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 家康は、武田勢が去った一ヶ月後――天正元年(1573)5月、信玄に取られた遠江の中央部 に出陣し、村々を放火して回った。

(本当に甲斐の入道(信玄)殿は死んだのか・・・?)

 という疑惑が、家康にはある。
 信玄が、単に上洛を先延ばしにしただけなら、公然と徳川勢が暴れ始めれば、必ずなん らかの報復に出てくるであろう。家康らしい慎重さと臆病さの表れであった。しかし、武 田方にはなんの動きもない。
 これを確認して、ようやく胸を撫で下ろした家康は、本格的に三河東北部と遠江の奪回に 向けて行動し始めた。

 徳川方の勢力は、武田信玄の侵攻によって信濃に近い山間部が根こそぎ持っていかれ、 海際へと大いに後退していた。特に遠江では高天神城、掛川城、浜松城の周辺地域以外は、 ほとんどが武田色に塗り替えられてしまっているといっていい。
 家康は、さしあたって奥三河の奪回から始めることにした。

 奥三河は、古くは今川、武田、織田、徳川が取り合いをしていた地域で、そこに棲む小 豪族たちは、そのときそのときの勢いの盛んな大名家に人質を送り、それに属することで 命脈を保ってきていた。
 奥三河に「山家三方衆」という豪族たちがいることは、今までも何度か触れた。
 田峯城(北設楽郡)の菅沼氏、長篠城(南設楽郡)の菅沼氏、作手城(南設楽郡)の奥平氏の三 氏を総称してそう呼んだのだが、この「山家三方衆」は、「信玄の死」という新たな政治状 況に驚き、武田の大軍勢が甲府へ引き返してしまったことにうろたえ、急激に勢力を盛り返 してくるであろう家康を怖れた。
 家康は、この「山家三方衆」のうち、もっとも岡崎に近い奥平氏にまず調略の手を伸ばし、 奥平一族の奥平貞能・信昌親子を武田方から寝返らせることに成功した。

(次は長篠城じゃ・・・)

 長篠城は、武田方にとって三河方面最大の橋頭堡だった。これを陥すことさえできれば、 奥三河から井伊谷(浜名湖北部)あたりの豪族たちが再び家康の方に雪崩を打って寝返り始め、 三河-遠江の国境付近の勢力地図を一変できるだろう。
 手始めに野田城を取り戻した家康は、7月、全軍を持って長篠城を囲み、一ヶ月を掛けて これを攻め陥し、菅沼氏を国外に追い払った。


 ちなみにこの期間の信長の働きぶりというのは、まったく悪鬼のようであった。

 信長は足利義昭を二条城で蹴散らすと、これを追放し、足利幕府を事実上滅ぼした。返す 刀で8月には越前に攻め込み、朝倉家の本拠である一乗谷を一気に抜き、朝倉義景を自刃に 追い込んで朝倉家を滅亡させた。さらにその10日後には浅井長政が篭る小谷城を攻め陥し、 連年に渡って苦しめられた浅井氏までもをこの世から消し去っていたのである。


 この状況に焦りを感じたのが、武田勝頼だった。

 信玄の死後、半年の間は静かにしていた勝頼だったが、信玄の遺言に従い内政に専念して 軍事力を国内に留めれば、せっかく家康から奪い取った三河と遠江の大部分を次々 と取り戻され、それだけ家康を太らせることになる。
 まして、信長の成長速度というのは恐るべきものがあった。
 織田家の勢力は、近江、若狭、越前を手に入れたことでますます大きくなり、その最大動 員力は8万を軽く超えるほどにまでなってしまっている。勝頼が信長をこのまま放置すれば、 信長は、まだ南近江で頑強に抵抗を続けている六角氏の残党や、伊勢長島の一向一揆勢力な どをことごとく各個撃破し、ついには勝頼が遠く及ばないほどの実力を身につけてしまうだ ろう。
 そうなってしまってからでは、なにもかもが手遅れになる。

「もはや我慢ならんぞ!」

 信玄の死のわずか7ヶ月後、勝頼は全軍を率いて遠江へ侵入し、遠江東部の武田の地盤を 強化し、さらに高天神城を牽制するために、馬場信春をして諏訪原城(金谷町)を築かせ、 そこに軍勢の一部を駐屯させた。
 「高天神を制するものは、遠江を制する」とまで言われ、信玄さえも陥せなかった難攻不 落の高天神城を奪い取り、遠江東部を完全に武田領にすることで家康を圧迫しながら、機を 見て美濃から織田領に雪崩れ込み、信長に決戦を挑む、というのが勝頼の戦略構想だった。

 翌天正2年(1574)正月、勝頼は自ら1万5千の大軍を率いて電撃的に美濃に侵攻し、明智 城(恵那郡明智町)を囲んだ。
 明智城は、もともと明智光秀の一族が住んでいた城で、今は織田家の属領となり、遠山一行 以下6百余名の兵が篭っていた。
 すでに岩村城を失っている信長は、「これ以上の美濃侵攻を許すことはできぬ」と自ら 3万の軍勢を率い、武田勢を迎撃に出たが、武田勢の軍容を見て考えを変えた。

(信玄が死んだといえど、まだ武田は強い・・・・)

 天下最強の甲州勢を率い、信玄が育てた名将を多く抱える武田軍団というのは、まだまだ 信長にとって脅威だった。

(いま武田に当たるは損じゃ・・・放っておけば、そのうち枯れる・・・)

 山県昌景に退路を断たれそうになった信長は、敵に倍する兵力を持ちながら明智城を見 捨て、さっさと岐阜へ逃げ帰ってしまった。信長に見捨てられた明智城の城兵は、5百人も の死者を出して懸命に奮戦したがついに力尽き、生き残った兵たちは夜陰に紛れ、家康の元 へと逃れている。


 武田勢が美濃へと侵攻したのを見た家康は、すぐさま遠江へ軍を発した。
 武田勢がいなくなった遠江の中央部で暴れ廻り、武田に降った小城を次々と攻め落とし、 あるいは調略で味方に寝返らせ、3月には天方城(周智郡森町)を攻略し、遠江での勢力を大 いに回復した。

 これに怒った勝頼は軍勢を旋回させ、5月には再び遠江へ雪崩れ込み、高天神城を包囲し、 一ヶ月に渡って火の出るように攻め立てた。
 家康はすぐさま信長に急使を発し、織田の援軍を求めた。家康一手で武田に当たるのは、 まだまだ到底不可能なのである。
 高天神城を陥されれば、武田勢が駿河方面から自由に遠江に出入りできるようになってし まう。事態を重く見た信長は、自ら援軍を率い、吉田城(豊橋)まで出馬したものの、ついに 間に合わず、6月、城将の小笠原長忠は降伏し、高天神城は勝頼のものになってしまった。

 このとき、武田家の勢力範囲は信玄時代を凌ぎ、過去最大のものになった。
 家康は、この高天神城を取り戻すのに、実に7年もの月日を要することになる。


 休むことなく台風のように荒れ回る武田勢を見て、平八郎は首を捻らざるを得ない。

(あれで、武田は保つのか・・・・?)

 と、素朴に思うのである。

 確かに、勝頼率いる武田勢というのは猛烈なまでに強い。ひとたび戦になれば負けたこと がなく、攻められた城は必ず陥されてしまっている。しかし、こう連年に渡って長大な外征 を繰り返せば、当然ながら領国の民力は疲弊し、士卒は困憊し、人々の間に不平が鬱積して ゆくであろう。
 徳川勢も、同じように戦ってはいる。しかし、これはすべて国内戦であり、地元の豪族をは じめ、領民のすべてが自分たちの利益と命を守るために死に物狂いで侵略者と戦っているわけ で、ここで生まれる不平や不満は領主の方へ向くことはなく、かえって敵への強烈な憎悪へと 変わり、結果として領国内の団結心や君臣の一体感というのはむしろ高まる。しかも徳川家 には信長という経済上のパトロンがおり、徳川家が枯れてくれば、信長は米にせよ銭にせよ 惜しげもなく援助してくれるから、さしあたって経済面のことに気を使う必要性がない。
 しかし、勝頼が立て続けにやっているのは領国から出た外征であり、その費用だけでも莫大 なものにならざるを得ないのである。

 信長の織田家なら、まだしもそれができる。織田家は経済上うまみの多い尾張、京、堺な どを押さえ、巨大な経済収入源を常に確保しながら戦っており、しかも織田家の兵というの は兵・農を分離した専業兵で、どれだけ戦っても農業の収穫に影響が出ないから農民に不満が 溜まらない。
 しかし武田家は、経済的なうまみの少ない甲斐や信濃といった山国を本拠としており、 金山などの収入はあるにせよ、その経済力は織田家とは比較にならないほどに小さいのであ る。しかも、織田家以外の大名の軍勢というのはそのほとんどが農兵で、これを季節を考え ずに酷使すると、当然ながら農作業が滞り、収穫が激減し、しかも働き手を取られた農村に 不平が充満する。勝頼が外征を発動するということは、これら疲弊した農村からさらに税を 搾り取るということであり、武田の領国内では人々が悲鳴を上げているはずであった。

(勝頼の狂い働きは、何年も保つものではあるまい・・・)

 という観測は、家康にせよ、信長にせよ、変わらない。
 家康は、もともとが田舎の大庄屋のような小大名の出であるため商業経済には暗かった が、農村に基盤を置いた米の経済感覚と民衆心理といったものには鋭い観察眼を持っていた。 「性格」ということでもあるのだろうが、百姓の暮らしには常に気を配るようなところがあ り、たとえば年貢などを見ても、徳川領は多少なりと他領より軽い。

「自分の生活ぶりは倹約して、余りがあれば、それを軍用に回そうと思う。百姓、領民だけ をせっせと働かせ、わしだけが豊かな生活をするようなことはしたくない」

 という家康の言葉が、『正武将感状記』にある。
 家康は、質素倹約を常に心がけ、たとえば普段から玄米を食べ、決して白米を食べなかっ た。また下帯ひとつとっても、汚れても長持ちするからという理由で浅黄色に染めたものを 用い、白木綿のものを使おうとしなかった。
 こういうことから、吝嗇、ケチなどと言われるようになるのだが、それほどの家康である。 武田家の戦争経済的な無理が、解りすぎるほどに解っていた。

(これは、長丁場じゃ。我慢をしておれば、いずれ勝頼は転ぶ・・・)

 勝頼が、信玄の築き上げた遺産を食い潰したとき、武田家が滅びの坂を凄まじい勢いで 転がり落ちるであろうことが、家康のような苦労人には手に取るように見えるのである。
 今さらながら、できるだけ無駄な戦争をすることなく、政略を積み上げて地道に地力を蓄 えてきた信玄という男の偉大さが、家康には痛感できた。

 敵の家康が信玄に学び、その子の勝頼が信玄に思い至らなかったというのが、歴史の皮肉 というものであったかもしれない。




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