歴史のかけら
合戦師
34
平八郎は、長篠城に留まったまま動きがなくなった武田勢に困惑していた。
(なぜ信玄は動きを止めておるのか・・・?)
いかに平八郎といえども、信玄の病までは見抜けるものではない。
それは、家康にしても同じであった。吉田城(豊橋)、岡崎城と抜いて、伊勢に渡るものと
ばかり思っていた信玄が、軍を返して尾張東部を侵し始めたと聞いた家康は、判断に迷った。
(上洛の前に、直接 織田殿と雌雄を決する腹か・・・?)
そうとなれば、軍を吉田から岡崎へと移し、信長と連携して武田勢に当たらなければなら
ない。
家康は諜報活動をできる限り活発にさせ、ひたすら信玄の出方をうかがっていた。
ほぼ二ヶ月長篠城に留まっていた武田の本軍が、長篠城に一部の軍勢を残したまま信濃に
向けて引き上げ始めたのは、天正元年(1573)の4月であった。
(・・・武田の内部で、何ごとか起きたな)
平八郎は確信していた。ここまで出てきたにも関わらず、信玄が理由もなく引き上げると
いうのは考えられない。武田家内部で、何かしら上洛戦の継続を断念せざるを得ないような
事態が起こったことは明白であった。
信長の反応は迅速だった。
信長は信玄の動きが止まった3月下旬には京へ兵を発し、4月にまず上京を焼き、公然と
反旗を翻した足利義昭を二条城で蹴散らした。武田勢の動きが止まったことを見ての、いわ
ば賭けだったのだが、信長が京へ大軍勢を向けても、武田勢が美濃や尾張に雪崩れ込むよう
なことはなかった。
(信玄めに、なんぞあったな・・・)
信長は、小踊りするほどに嬉しかったであろう。
信長自身が岐阜を留守にするというこの好機を、信玄ほどの男が逃すはずはない。武田勢
が動かないということが、信玄に何事かが起こったという動かぬ証拠であった。信長は自身
の幸運を、このときほど天に感謝したことはなかった。
「信玄が死んだ」という情報を最も早く探知したのは、意外にも、日本の反対側の越後にい
る上杉謙信だった。謙信は4月の下旬にはその確報を得ており、
「なんとも惜しい大将を死なせたものだ。英雄、人傑とは、あの信玄のような男のことを言
うのだ」
と、食べていた湯漬けの箸を投げ捨て、落涙したという。
謙信はすぐさま、同盟している家康と信長にこの訃報を伝えた。
「なんと、信玄入道が死んだと申すか!」
この瞬間の家康の心境は、複雑だったであろう。
信玄と敵対した天下の大名で、家康ほど信玄を慕っていた男はいなかった。家康は信玄を
心から尊敬し、その強大な軍団を畏怖し、信玄の人の使いかた、統治の方法、軍勢の進退の仕
方などを知ろうとし、学ぼうとさえし、これまで積極的に徳川家に取り入れてきた。信玄と
は、恐るべき敵であると同時に、家康にとっていわば偉大な師だったのである。
家康は、後にこんな言葉を残している。
「隣国に強敵があるのは幸いである。なぜなら、そのとき為政者は、常に油断ができず、怠
けることなく励まざるをえず、ちょっとした政策にも心を配るようになるから、かえって
政治が正しくなり、国が整う」
説教臭い家康らしい言葉だが、これは案外、武田家という強大な敵を隣国に持って苦しみぬ
き、その逆境をバネに自分を高め続けてきた家康の本音であったかもしれない。
ともあれ家康は、この信玄の死によって、生涯最大の重圧から開放されたといっていい。
偉大な信玄の後を受けたのは、武田勝頼であった。
しかし信玄は、その死にあたり、稀代の政略家である彼らしくもない失敗をしてしまって
いた。勝頼に武田家の相続を認めず、わずか6歳の幼童に過ぎない勝頼の子 信勝に跡目を
譲ったのである。信玄は勝頼に、信勝が成人するまでの陣代(代理)になるよう命じた。
これまでも何度か述べてきたが、信玄は人材を愛し、人を使うことが巧みであった。
能力のある人間を積極的に登用することで作り上げられた信玄の家臣団――とりわけ信玄
に拾い上げられ、育てられた重臣たちというのは、信玄の死の瞬間まで、勝頼を「自分たち
の同僚」であると認識していた。勝頼は偉大な信玄の血を受けてはいるものの、生前の信玄
が後継者として指名したわけでもなく、まして信濃の諏訪家へ養子にやられたという経緯も
あって、武田の重臣たちは、勝頼を武田家の本流の人間とは見ていなかったのである。
家臣でさえそうなのだから、信玄の兄弟たち、親族や一門衆といった連中にはこの傾向が
顕著で、誰も年若い勝頼に心から信服しようとはしなかった。
勝頼が、信濃の名族である諏訪氏を継いでいたというのは先にも触れた。
武田家の本拠というのは甲斐であり、信玄の側で武田家を支えてきた重臣たちというのは、
すべて甲州の人間であった。しかし勝頼は、信玄が信濃を支配するために政略的に諏訪氏に
送り込まれたという経歴があり、その本拠は当然ながら信濃で、勝頼の側近たちもみな信州
人である。甲州人たちは信濃を属国だと思っており、信州人を格下に見る気分があるのだが、
その信州人たちを側近に従え、信州人の代表ともいえる勝頼が、武田家を率いていくという
のが不快でならなかった。
こういった様々な感情が根っことなって、ことあるごとに甲州人と信州人が対立を始め、
武田家の内部の亀裂が次第に深まっていったのである。
勝頼が、類稀な猛将であったということは紛れもない事実である。その器量は生前の信
玄にも愛されたほどで、勇気も武勇も、彼ほどの者は家中になかったかもしれない。しかし
勝頼の不幸は、彼を支えるべき信玄の重臣たちから浮き上がってしまったことであった。
信玄は、本心は勝頼自身に家督を譲りたかったのであろう。しかし、勝頼がすでに武田家
を出てしまっており、いきなり勝頼に家督を譲ったところで重臣たちが勝頼に従わないであ
ろうことを信玄は見越していた。まだ27歳に過ぎない勝頼に、その人生よりも長きにわたっ
て武田家に仕えてきたような連中を御しきれるわけがないのである。
信玄は、いっそすべての家臣に向けて勝頼への絶対服従を遺言すべきであった。しかし信
玄は、「武田家の相続者である信勝の父」という特殊な立場を勝頼のために作り出し、曖昧
な「陣代」という表現を使って勝頼に間接的な支配権を与えることで、勝頼に従わなければ
ならない重臣たちの気分を和らげようとした。
信玄は、自分の死後3年を内政の充実期間にあてるよう勝頼に命じた。その期間を使って、
連年の戦乱に疲弊した民力を回復させ、同時に勝頼の武田家支配を固めさせようとしたので
ある。
しかしこのことは、完全に裏目に出てしまうことになる。
勝頼は、「3年の間は国内を固めよ」という信玄の遺言を守らなかった。彼は生まれなが
らの武田家の貴族であり、信玄がその家臣団を統制してゆくことにどれだけ心を砕いたか、
などということは考えたこともなかった。勝頼はどこまでも猛将であり、猛将である自分を
誇りにさえ思っていたし、信玄の血を引く自分が武田家を率いることは天から与えられた
当然の権利と無邪気に信じて疑わなかったのである。
しかし、甲州人たちの信頼が自分にないということくらいは、勝頼も知っている。
勝頼は、信玄子飼いの重臣たちの不満をなだめ、この心をとってゆくよりも、国外に戦争
を仕掛け、それによって家中の感心を外に向け、甲州人たちの不満を逸らしてしまおうとし
た。共に矢玉をくぐり、血と汗を流して敵と戦うことで、将と士の新しい信頼関係を構築し、
“勝頼の武田軍団”を作り出そうと考えた。そして同時に、その対外戦の中で、自分の武勇
と将器を、信玄子飼いの重臣たちに実力で認めさせようとしたのである。
勝頼がこういう結論を導き出したということは、彼の勇猛すぎる性格というものを考えた
とき、止むを得ざるところと言うべきだったかもしれない。
武田家は、このときから徐々に歯車が狂ってゆくことになった。
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