歴史のかけら


合戦師

33

 浜松を去り、西に向かった武田信玄の話をしたい。

 信玄は、「三方ヶ原」の翌日から行軍を開始し、浜名湖の北、刑部(現 細江町)というとこ ろまで来て軍を止めた。
 刑部には刑部城という小城があり、安方 越中守という在地領主がこれを守っていたのだ が、安方は信玄の大軍勢を見ただけで防戦の無駄を悟り、その日のうちに城を捨て、退去し てしまっていた。信玄は刑部城を接収し、そこで年を越すことにした。

 この間、東美濃では秋山信友が岩村城を奪回に来た織田勢を再び破っている。
 信玄は、「三方ヶ原」での大勝を浅井・朝倉両氏をはじめ、本願寺勢力、六角氏の残党ら に伝え、彼らを大いに力づけたりしている。このとき、信長に臣従しているはずの松永久秀 にも書状を遣わし、戦勝報告をした。後に彼を調略するときのための布石である。
 信長は、この時点で八方塞がりになりかけていたのだが、この頃、何を思ったか朝倉氏が 北近江から兵を引いて越前に帰ってしまったため、これには大いに救われた。信玄は、共に 信長打倒を約しているにも関わらず勝手に撤兵してしまった朝倉氏に激怒し、当主 朝倉義 景に非難の手紙を送りつけている。

 明けて天正元年(1573)正月、信玄は全軍を井伊谷(現 引左町)へと進め、そこで三河、遠江 の豪族の参集を待った。家康が危惧した通り、三方ヶ原での徳川勢の大敗を知った豪族たちが 次々と家康を見限り、信玄に臣下の礼をとるために集まってきた。
 奥三河の「山家三方衆」を筆頭に、井伊谷周辺の豪族たちは、もともと家康が三河と遠江を 統一する際に臣従した連中で、この時代の習慣として家康に人質を預けていた。徳川家から 寝返るということは、この人質を殺されるということなのだが、彼らもそれが苦痛の種だっ たらしく、

「ご存知とは思いますが、我々は先年来、三河(家康)殿に従っておりましたため、浜松に 人質を差し出しております」

 と、一同を代表して「山家三方衆」の一人、長篠城主 菅沼正貞が信玄に申し出た。

「我らが信玄公の御手に属せば、きっと三河殿は腹立ち紛れに我らの人質を殺すでありま しょう。そこで、是非お願いがございます」

 菅沼正貞の願いとは、こうである。
 長篠城から10kmほど南東に野田城(新城市)という堅固な城がある。これを守備する菅沼 新 八郎という者は自分と同族なのだが、一族に従わず、古くから家康に臣従していて家康にた いそう気に入られている。そこで、これをなんとか生け捕りにして、家康に人質交換を持ち かけ、自分たちの人質を取り返したい。自分たちが先鋒となって奮戦するので、この野田城 攻めに信玄公の力を貸していただけないか、と。

「その菅沼 新八郎とやら申す者を捕らえても、三河の小僧は人質交換には応じまい」

 信玄は、乗り気でなかった。
 野田城は、吉田城(豊橋)へ向かうにも岡崎へ向かうにも通らねばならない城であり、もと もと攻めるつもりではいたのだが、攻めるならば一気に力攻めで攻めて時間を掛けずに陥し てしまいたい。城主を生け捕りにするということは、これを殺さず降伏させねばならないと いうことであり、そんなことに時間を費やすよりも、信玄としては先を急ぎたかった。
 しかし、新しく自分に従おうとしている豪族たちに、人質を見捨てよとは言えない。たとえ できないにしても、可能性がある限りは、その人質たちを救おうとしてみせるのが、人の主た る者の務めなのである。

「新八郎は武勇の誉れ高く、また智仁勇を兼ね備えたる侍なれば、三河殿の覚えもことのほ かめでたく、これを捕らえることさえできますれば、必ず人質交換に応じるよう思われま す」

(面倒なことじゃ・・・)

 菅沼正貞をはじめ、豪族たちが食い下がるので、信玄はその希望を叶えてやらねばならな くなった。

 武田勢はすぐさま野田城を囲んだ。
 野田城は小城ではあるものの、城の東北と西南が断崖になっている上に、本丸、二の丸、 三の丸と連鎖して繋がる構造を持った山城で、攻めるに難く守るに易い。これに武勇知略 共に抜群と言われた菅沼 新八郎 定盈率いる5百人と、家康の一族である松平忠正が率いる 援軍4百人が篭って頑強に抵抗したため、さしもの武田勢も攻めあぐね、いたずらに時間ば かりを浪費してしまった。

 この時間は、家康にはありがたかった。
 家康は壊滅的な打撃を受けてしまった軍勢の再編成に忙殺されていたのだが、なんとか 4千の兵をかき集め、浜名湖の南側経由で全軍を吉田城(豊橋)まで移動させることができた。 この上は、吉田城で支え、岡崎城で支え、とにかく信玄に時間を使わせて、信長や上杉謙信 による事態の好転を待つよりほか家康に策はない。
 平八郎も当然、家康と共に吉田城に赴いていた。

 野田城を攻め始めたころ、信玄は、それまでにない身体の異常を感じ始めていた。本陣に 床几を据え、座っているだけでも、ときに刺すように下腹が痛み、全身に冷や汗が流れた。

(・・・・急がねばならん・・・)

 思いはするのだが、正面からまともに攻めざるを得ない武田勢は被害ばかりが大きく、なか なか捗々しい戦果を挙げることはできなかった。

 この野田城攻めのときに、逸話がある。
 野田城の篭城兵の中に、村松芳林という笛の名手がいた。
 毎日のように早朝から行われる城攻めの日々の中、芳林は夜になるたびに野田城の櫓に登 り、この世の名残を惜しむかのようにして月に向かって笛を吹き鳴らした。闇夜に流れるそ の見事な調べは、明日をも知れぬ命の城兵たちはもちろん、寄せ手の武田勢の心さえもいつ しか惹きつけ、夜ごとに城に慕い寄る者が増えていった。
 ある夜、信玄がその噂を聞き、自ら敵城近くまで足を運んでその調べを聴いた。

(・・・・聞きしに優る笛の音よ・・)

 闇の中から微かに流れてくる哀しい旋律は、殺し合いに明け暮れる男たちの心の琴線を 静かに震わせていた。
 瞑目し、うっとりと聴き入る信玄の耳に、突如、轟然と銃声が飛び込んだ。

(無粋なことをいたしおる・・・)

 笛の音は止んでいた。信玄は、苦笑するほかない。

「お屋形さま! 城方がこちらを狙い撃っております! 早うお下がりくだされ!」

 近習に囲まれながら、信玄はその場から去らざるを得なかった。
 この狙撃は、野田城に篭っていた城兵一の鉄砲名人 鳥居三左衛門という者がやったものだ という。
 信玄には、「このとき受けた鉄砲傷が元で命を落とした」という伝承さえできた。


 結局、野田城は1ヶ月以上に渡って武田勢の攻撃に耐え、天正元年(1573)2月15日に開城 することになる。
 信玄は、引き連れて来ていた「金掘り衆」を使って城を西の谷から掘り崩し、二の丸、三 の丸を分断し、水の手を切って城兵を干上がらせたのである。これには剛勇で鳴った菅沼 新 八郎も為すすべがなく、降伏し、投降した。

 信玄はただちに家康に人質交換を打診し、家康はこれに応じた。信玄に寝返った豪族たち は、大いに安堵したことであろう。

 しかし、この頃もう、信玄の身体は限界にきていた。すでに馬に乗ることさえ不自由に なっており、輿を使わねば移動することさえ満足にできない。
 信玄は苦痛を堪えつつ全軍を長篠城まで戻し、そこでしばらく身体の回復に努めること にした。

 この間も信玄は、休むことはしない。自身は長篠城から動けぬものの、軍勢の一部を割いて 尾張国境の東方を脅かし、海上(かいしょ)の森(瀬戸市)あたりにまで武田の勢力を拡大し、 信長の包囲環をいよいよせばめた。
 これに呼応するように将軍 足利義昭が、阿波の三好氏、大和の松永久秀らと通じて信長に 対して宣戦布告し、天下の諸侯に「信長包囲網」を呼びかけた。武田信玄がいよいよ尾張に まで出たことで、摂津石山の本願寺、北近江の浅井氏、伊勢で信長に屈服させられている北 畠氏、南近江の六角氏の残党、長島の一向一揆衆などは狂喜したであろう。
 京周辺の情勢は、もはや信玄を上洛を待つのみ、といった観さえあった。

(あと3年・・・いや2年で良い・・・天よ、わしを生かしめよ・・・!)

 信玄の願いも虚しく、一ヶ月が経過しても身体はいっこうに良くなる気配を見せ ない。信玄の側近たちは、ここでようやく信玄の尋常でない身体の異変に気付き、信玄を鳳 来寺へと移して静養に専念させると共に、病気の平癒を神仏に祈願した。
 だが、それも虚しかった。

「お屋形さま、無念ではございましょうが、ここは一度 甲府へ戻り、この病を癒しまして後、 再び上洛をお果たしなされましては如何か?」

 山県昌景が、重臣の総意として信玄に意見を具申した。

「・・・・・・・・・それも・・致し方なしか・・」

 信玄は、すでに自分の死期が近いということから目を背けることはできなかった。無理に 軍を進め、敵地の真っ只中で武田勢を路頭に迷わせるようなことだけは、なんとしても避け なければならない。

「・・三州街道を取り、奥三河から信濃へと抜けよ・・・」

 力ない声でそれだけ言うと、信玄は重い目蓋を閉じた。


 天正元年(1573)4月12日、武田勢が信州伊那の駒場まで軍を返したとき、信玄の体力はつ いに尽きた。戦国が生んだ不世出の巨星が、静かに天に召されたのである。

 53年の、修羅のような生涯であった。




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