歴史のかけら


合戦師

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 三方ヶ原の敗戦というのは、平八郎にとって、たくさんのかけがえないものを一度に失っ た痛恨の出来事であった。
 しかしこの敗戦は、後の家康の人生にとって、無形にして最大の財産になった。
 後に家康は、関東で250万石の覇者となり、天下の諸侯を味方につけて「関ヶ原」を戦い、 秀吉なき豊臣家を大阪城に滅ぼし、天下を統べることになるのだが、たとえば秀吉と戦わな ければならなくなった「小牧・長久手の合戦」前後、またたとえば秀吉が死んだ後の「関 ヶ原」の前後、さらにいえば豊臣家の後を受けて天下を獲る段階において、この「三方ヶ原」 の敗戦ほど家康の「価値」を高らしめることになったものは、おそらくない。
 武田信玄は、伝説的な戦上手として、上杉謙信と共にその死の後も不朽の名声を得た。そ の信玄に対してさえ屈することなく、これに敢然と立ち向かった家康像というのは、家康を、 実際の家康以上に巨大にしたのである。
 家康は、天下を手中に収めかけた織田信長の唯一の同盟者であり、この世でただ1人、信長 と「同格」の資格を有する人間であった。後に天下を獲った豊臣秀吉などは、元をただせば 信長の草履取りに過ぎず、織田家の奴隷といっていい身分である。その秀吉の子飼いの連中 などは「信長の奴隷の子分」であり、家康とはそもそも「格」が隔絶していた。生き馬の目 を抜くような戦国乱世の中で、かの武田信玄の圧迫にさえ耐え抜き、信長との同盟を20年に 渡って守り続けた家康の律儀さ、誠実さ、そして執念深さといったものは、その後の家康と いう男を飾る底知れぬ“凄み”になっていった。
 そういう意味において、この「三方ヶ原」がもしなければ、後の家康の「征夷大将軍」 就任も、やはりなかったに違いない。


 「三方ヶ原」の直後のことを、少し書いておきたい。

 家康に従って浜松城に駆け込んだ三河者の中に、鳥居 彦右衛門 元忠という男がいた。

 鳥居元忠は、家康とはいわば「竹馬の友」で、今川家の人質時代から遊び相手として常に 家康の側にあり、長じてからは家康が戦ったすべての合戦に従軍し、家康の旗本の先手 となって数えきれぬほどの武功を積み上げ、後に徳川16神将にも数えられた。武田家滅亡の ときに馬場信春の娘を捕らえてこれを妻にするなど逸話の多い男で、その最期は「関ヶ原」 のとき、死が間違いない伏見城での囮を家康のために自ら進んで務め、たった2千人の手勢 で石田三成率いる西軍4万の大軍勢を相手にさんざんに奮戦し、そのまま壮絶な闘死をする 人物である。家康より2歳年上で、このとき33歳。

 この鳥居元忠が、家康と共に命からがら浜松城へ辿りついたとき、家康の腰にぶら下がっ ていた兵糧の「焼き味噌」が折からの雨で溶けてしまい、馬の鞍にべったりと付着していた。
 それを目ざとく見つけた元忠は、

「殿! 糞をもらしておりまするぞ!」

 と大声で言って豪快に笑った。
 元忠は、先刻の戦闘で馬場信春隊の猛攻を受けたとき、矢を足に浴びて大怪我までしてい たのだが、大敗北でどん底まで沈んでしまった味方の雰囲気をなんとか救うため、とっさに このくだらない芝居を思いついたのである。
 これがたちまち三河者たちの間に知れ渡った。こういうことを笑い話として語れるという この一事でも、家康と彼の家臣である三河者たちとの距離が、いかに近かったかということ が解るであろう。
 この話はやがて伝説になり、「家康が信玄の怖ろしさに逃げながら糞を漏らした」という 伝承になった。


 家康は浜松へ帰り着くと、

「城の門はすべて八の字に開け放て! 篝火を燃やし、城を昼のごとく明るくせよ!」

 と大声で命じた。

「それでは敵が付け入りましょう!」

 側近は止めたが、

「もはやわしが浜松に帰ったのだ! 何を怖れることがあるか!」

 と一喝し、湯漬けを用意させ、これを三杯 立て続けに食った。
 家康にとっては精一杯の虚勢だったのだが、家康のこの豪胆ぶりに三河者たちは大いに気持 ちが安らいだ。
 それに、多少の計算がなくもない。
 三河勢を追って浜松城まで来た武田勢は、城の門が開け放たれ、篝火が燃え盛っている城の 姿を見れば、当然「敵にはまだ相当の予備兵力が残っており、こちらを城の中に引き込んで 殲滅する策を持っているのかもしれない」と疑うに違いない。この疑心暗鬼が武田勢の城攻め の勢いを挫くかもしれず、同じ城攻めをするにしても、全軍を集結させ、翌朝まで待つという 選択をするかもしれない。また城の篝火を盛んに焚くことで、逃げてくる味方の目印にもなり、 最悪にまで落ち切っている味方の士気を少しでも奮い立たせることができるかもしれない。
 もちろん、家康は怖ろしかった。攻め込んでくるかもしれない敵に向かって城の門を開く というのは通常では考えられない自殺行為であり、それが為に今夜中に城が陥ちてしまう可 能性も十分にあった。しかし、そこは賭けである。

(武田勢が城攻めを始めたならば、遅かれ早かれ死ぬだけだ)

 という半ば捨て鉢の心が、家康にはある。

(しかし、門を開けておけば、今夜は武田勢は来ないだろう)

 という冷静な計算も、家康にはあった。家康という男のこういう冷徹な“読み”が、そ れを見る者からは、「とてつもない豪胆さ」と映ったであろう。
 家康は、湯漬けをかき込むと、

(後は運を天に任すのみじゃ・・・)

 ごろりと横になり、大鼾をかいて寝てしまった。

 浜松城間近まで追撃してきた山県昌景、馬場信春などの武田の武将たちは、この浜松城の 様子を見て驚き、「なにか謀略を隠しているのではないか」と疑い、突撃を見合わせ、信玄 までどうするべきか伺いを立てた。

(明日には西へ向かうのだ。怪我をしてもつまらぬ・・・)

 そう思った信玄は、それ以上の攻撃を諦め、全軍を三方ヶ原の南端――犀ヶ崖で集結させ、 そこで野営をすることにしたのである。
 ここでの家康の“読み”は、見事に当たった。

 大将である家康の肝があまりに据わっているので、これに従う三河者たちも大いに安堵し、 ずいぶんと士気が戻った。
 たとえばこのとき、酒井忠次は櫓に登り、闇夜に向けてとうとうと太鼓を乱打し、味方の 士気を奮い立たせ、同時に敵を威圧した。

「武田勢に夜襲を掛け、肝を冷やしてやろう」

 と言い出したのは、大久保忠世だといい、天野康景だともいう。
 家康は、これを許した。大久保忠世たちは百人程度の鉄砲隊を組織し、勝ち戦に酔いしれ、 疲れ切って眠っている武田勢の寝息が聞こえる距離にまで忍び寄り、闇の中からさんざんに 鉄砲を撃ちかけた。
 三河者たちにすれば、ちょっと脅してやろうというくらいのつもりだったのだが、 突然の鉄砲による攻撃に仰天し、前後を忘れて駆け出した武田勢――武田の重臣 穴山信君 (梅雪)の部隊だった――が、数百人も犀ヶ崖から転げ落ちて死んだ。

(三河者のしおらしさよ・・・)

 家康のために、こうまでして自分に楯突こうとする三河者という人間たちに、信玄は敵味 方を越えた好意を持ち、この徳川勢の夜襲を褒めたという。

 この話には、後日談まである。
 数年後、この犀ヶ崖のあたりでは、通りかかった地元民から「うめき声が聞こえる」とか、 「カマイタチに襲われる」などの悪い噂が立ち、また蝗などの虫害が発生し,多くの百姓が 苦しんだ。これを聞いた家康は、犀ヶ崖の上に祠を建てて七日七晩の念仏供養をし、死んだ 武田の武者たちの霊魂を弔ったという。
 家康は、毎年7月の13〜15日に大念仏を行うよう地元の人々に布告し、これが「遠州大 念仏」と呼ばれるようになり、静岡県の無形民族文化財となって現在まで続いている。


 この「三方ヶ原」では、徳川勢は名のある物頭(部隊長)が多数討ち取られ、1200名を越え る戦死者と、その数倍の重軽傷者を出したが、武田勢は――犀ヶ崖に落ちた者も含め――死 者が400人程度と言われ、物頭級の人物には一人の討ち死にも出なかった。

(三河の小僧は命を拾ったようだが、どちらにせよ、しばらくは起き上がれまい)

 と、信玄は思った。
 全軍の一割以上もの死者を出し、五割に上る負傷者を出すというのは、この時代の野戦の 常識では、ちょっと考えられないような大敗北だった。この後、西上を続ける信玄が信長と 決戦することになったとしても、これだけの傷を負ってしまった徳川勢は、ろくな働きがで きないであろう。信玄にとって、西上作戦における最大の不確定要因だった家康の動きを封 じたこの「三方ヶ原」は、十分に満足できる戦果を挙げたと言うべきだった。

 信玄は、翌日――元亀3年(1572)12月23日――三方ヶ原で論功行賞を終えると、2万5千 の全軍を率い、整然と西へ去っていった。

 家康はこうして、とりあえずの命を保ったのである。




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