歴史のかけら
合戦師
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「風林火山」の旗の下、“疾きこと 風のごとく”を目指した武田信玄の軍勢というのは、
その部隊運動の巧緻さ、正確さ、迅速さにおいて、間違いなく戦国一であっただろう。
信玄の意を受けた彼の揮下の武将たちは、この「三方ヶ原」においても、それぞれが十全
の能力を発揮し、見事に振られた各々の役割を全うしてみせた。
たとえば“囮”として三方ヶ原に残った押さえ部隊の小山田信茂、山県昌景、内藤昌豊ら
の軍勢は、家康を戦に引きずり込み、それを釘付けにし、信玄本隊が駆け戻るための
時間を十分に稼いだ。
第2陣に配されていた武田勝頼、馬場信春らの軍勢は、全軍の最後尾で坂を降りながら、
信玄の合図があるやすぐさま反転し、風のように坂を駆け登り、前線の戦場まで信玄が驚く
ほどの速度で疾駆した。
これに続く信玄の本隊も、統制され尽くした動きで無駄なく台地の上まで駆け戻り、無言
のまま縦隊から戦闘陣形へと展開し、しかもそのすべての転換作業を戦場へと駆けながらや
り終えた。
戦闘力のない荷駄隊などの部隊は、これからゆるゆると坂を登り、信玄本隊が戦闘を終
える頃、戦場の後方に待機する手はずになっている。これは、あらためて言うまでもないで
あろう。
とにかく、この「三方ヶ原」では、信玄の戦術はものの見事にツボに嵌った。
家康の左翼――平八郎たちの軍勢に、押されに押されていた山県昌景は、後方から駆け
戻ってくる武田勝頼隊に誰よりも早く気がついていた。
(やれやれ・・・これでお味方のご勝利は間違いなしか・・・)
貯めに貯めていた力を一度に開放するように全軍に突撃を命じ、いったん三河勢を押
し返すと、いち早く引き鐘を打たせ、全軍を後方に下げながら武田勝頼隊と交代した。
「手ぬるくも苦戦いたしておったらしいな、山県め・・・」
嘲笑するように吐き捨てた武田勝頼は、自ら騎馬武者たちの先頭に立って、平八郎たちが
息を整える隙間もなく左翼に突撃してきた。
武田勝頼――信玄の命で信濃の名族 諏訪家を継ぎ、本名を諏訪 四郎 勝頼。このとき26歳。信玄自身の四男で、偉大な父の後継者と目されているこの男は、良将を揃える武田軍団の中で
も無類の猛将であった。その馬術は家中一と言われ、勝頼個人の戦闘力と勇気は絶倫といって
いい。とにかく勇猛を絵に描いたような男で、遮二無二突きかかる勝頼隊の攻撃
力というのはずば抜けたものがあった。
(これはいかぬ・・・!)
最左翼に陣を据える石川数正は、真っ赤になって突撃してくる新手を見て、とっさに覚悟
を決めた。
石川数正は三河武士の西方の旗頭として酒井忠次と共に家康の軍団長を務める男で、この
とき42歳。軍事、外交共に練達で、織田家との「清洲同盟」を成功させた立役者でもある。
以来、徳川家の西の外相として織田家との外交を受け持ち、影に日向に家康を支え続ける信
頼厚い腹心であった。
(この猛烈な突撃を止めねば、突き崩される!)
数正は、驚くべきことに、この状況で手勢のすべての騎馬武者に下馬を命じた。騎馬武者
を馬から地上に下ろし、手勢を槍隊に変え、槍ぶすまを作ったのである。
「おのおの、もはやここより一歩も引くな!」
迫り来る無数の騎馬武者を前にして、全員を折敷かせた数正も、この指示に愚直に従う三
河武士たちも、尋常の勇気ではないであろう。
数正隊は、騎馬武者の突撃に合わせて槍の穂先を揃えて下から突きかかり、馬の腹を突き、
その足を払い、次々に突撃してくる勝頼の部隊を相手にさんざんに戦った。
しかし、それにしたところで限界がある。
平八郎隊にしても、限界というのは同様であった。
平八郎は手勢を巧みに操り、隣の榊原康政隊と交互に敵に突撃を繰り返し、戦っては引いて
休み、休んではまた突撃して無類の強さを見せていたのだが、次々に繰り出される新手には
圧倒されざるを得ない。手勢は削り取られるようにして減ってゆき、戦っていられるのは、
いつしか元の半分ほどの人数になっていた。
もともと山県隊相手に押しまくるほど奮戦した左翼部隊であった。誰の顔も疲労ですでに
蒼白になっており、二度、三度と突撃してくる勝頼隊を支え切れるものではない。ついに崩
れたち、全線に渡って崩壊し始めた。
右翼は、さらに酷い。
酒井忠次隊の奮戦でなんとか戦線を維持していた右翼部隊は、新手の馬場信春隊の猛攻の
前に、織田の援軍が完全に崩壊し、ずたずたに切り裂かれてしまっていた。真っ赤な波の中
で徳川方の小部隊がばらばらに戦っているような状態で、すでに絶望的な乱戦になってし
まっている。
やがて、入れ替わって部隊を後方に下げた小山田、山県、内藤らの軍勢が、休息と再編成を
済ませて戦場に続々と復帰し始めた。徳川方のどの部隊もすでに限界を通り越し、上がらぬ腕
で狂ったように目の前の敵に向かって槍を突き出してはいるのだが、もはや敵の突撃を支えら
れるだけの余力は残っているはずもなかった。
家康の本隊も状況はすでにいっぱいいっぱいで、家康も馬を駆けさせて懸命に味方を鼓舞す
るのだが、劣勢は覆うべくもない。
「わしも死ぬぞ! わしも死ぬぞ! みなだけを死なせはせんぞ!」
壊走し始める味方の中で、家康はいつしか絶叫していた。
そして、夕暮れの残光の中から圧倒的な重圧がやってきた。
必死で戦う三河武者たちが戦場を見渡したとき、遥か前方に、いつの間にか信玄率いる
本軍が、山のような迫力で立ちふさがっていたのである。
この絶望感が、敗勢を決定的にした。
もっとも退却が早かったのは織田勢である。
織田の援軍の大将格である佐久間信盛が、信玄の本隊の到着すら待たずに真っ先に逃げ、
続いて鉄砲隊を指揮してどうにか堪えていた滝川一益が、馬場信春隊に突きかかられて後ろ
も見ずに逃げた。織田勢は見る間に総崩れとなり、そのあまりの不甲斐なさに激怒した
平手汎秀が、
「弾正忠(信長)が家中にも男はおるぞ! 尾張者の心意気を見ろや!」
と絶叫して踏み止まり、奔流のような武田勢の中で討ち死にした。
戦況をその目で確認した信玄は、ただちに予備隊の武田信豊、穴山信君(梅雪)らに
徳川勢の横撃を命じ、さらに本軍の半分を正面から突撃させた。
もはや徳川勢に為すすべはない。津波に飲み込まれるように全軍が圧倒され、全戦線が
崩れ、踏み止まれる者などなかった。
平八郎たちも、状況は同じであった。
「死ねや! 本多の男の死に様を見せろや!」
叫びまわって戦うものの、手勢の周りはすでにどこを見渡しても敵だらけである。全滅覚
悟で、最初から被害を無視してもっとも苛烈に戦い続けた平八郎隊は、名のある物頭がすで
に何人も討ち死にし、さすがの平八郎も疲労しきっていた。
「平八郎! もはや潮時じゃ! お味方は総崩れじゃ!」
傍らで戦い続けていた忠真が、肩で息をしながら叫んだ。
「今はともかく、殿さまを浜松までお落とし申さねばならぬ!」
「だが、叔父御! この乱戦では、殿さまの居場所なぞ解らぬ!」
平八郎といえど、これほどの敗軍は初めての経験だった。家康の旗本さえ、いつの間にか
壊走を始めてしまっており、家康の“金扇”の馬標(うまじるし)がすでに戦場から消えてい
るのである。最悪の想像を働かせれば、家康が死んでしまったことさえも考えられた。
「馬鹿め! 敵が駆ける先に、わしらの大将はおるものじゃ!」
百戦錬磨のこの叔父は、平八郎に再び希望を与え、本多隊を奮い立たせた。
「まだ負けと決まったわけではないぞ! 浜松で戦の立て直しじゃ! 皆みな、走れ!」
平八郎たちは、絶望的な殿戦(しんがりいくさ)を開始した。
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