歴史のかけら
28現代の時間で言えば午後の4時ごろ、家康は全軍を『鶴翼』に開かせ、じわりじわりと武 田勢6千に近づいていた。
家康は部署決めに際し、平八郎の部隊を増強し、家康本隊 左側の一翼を担わせた。 「必ずご期待に副いまする!」 平八郎の手勢は、本多隊2百を含めた5百になったのだが、これを悦んだのは、むしろ 叔父の本多忠真であった。 「久々に、我ら本多党に“平八郎”が戻ったわ!」 忠真は自分の指揮権が失われたことよりも、平八郎と共に戦えることが嬉しくてたまらない ようであった。
家康は左から、石川数正、平八郎、榊原康政、小笠原長忠と軍勢を並べ、家康の本隊を
置き、右翼は織田の援軍3千を配置し、最右翼に酒井忠次という布陣である。
辺りが夕闇の黄昏に染まり始めるころ、両軍の間隔はついに300mほどにまで接近していた。
すでに、一触即発の距離である。 武田勢が家康の右翼を狙ったのは、援軍の織田勢が、見るからに戦意が乏しかったからで あった。戦う前から隊列が乱れ、旗も振るわず、どうにもまったくやる気が感じられない。 それも当然といえば当然で、織田勢は信長から戦そのものを止められていたのである。 (こんなところで無駄な戦をし、無駄死にしてなんになる)
と、織田の客将たちは思っていた。なりゆきと家康に引きずられた格好で戦に参加させら
れはしたものの、誰も彼も、足軽の端々にまで戦う気がはじめからなかった。 「すわ! 武田勢が突撃してくるぞ!」 と、哀れなほどに動揺し、それだけで逃げ出そうとした者さえあった。 (・・これは、お屋形さまを待たずとも、我らだけで勝てるぞ!) 押さえ部隊の先鋒である小山田信茂は、勢いも凄まじく織田の援軍部隊に向けて突撃を 開始し、瞬く間に織田勢を突き崩した。 (馬鹿な!? 脆すぎる!!) いきいなり右翼の半ばをもぎ取られた家康は、止むを得ず全軍に突撃を命じ、これを合図 に両軍が一斉に戦端を切った。 最右翼にいた酒井忠次こそ哀れであった。ほとんど何の抵抗も示さず織田勢が崩れてし まったため、他にどうしようもなく、そのまま目の前の小山田隊に突撃せざるを得ない。 「掛かれやぁっ!」 号令一下、一斉に鉄砲が斉射され、真っ黒になって三河武士たちが突撃した。する と――驚くべきことだが――最強と自負する武田勢が押しまくられ、たちまち数百mも押し 返されてしまったのである。 「押せ! 押せ! 武田勢とて鬼神ではないぞ!」 右翼はほとんど、この酒井忠次一人で支えていたと言っていい。
左翼は最初から善戦した。 (三河者はやる・・・!) 山県昌景は手勢を巧みに操りながら、大被害が出ないよう徐々に全軍を後退させ、敵の勢い に任せた。山県にしてみれば、信玄率いる本隊が戦場に帰ってくるまで、ほんの1時間ばかり この場を支えて時間を稼げばいいわけで、ここで押されても痛痒もない。 (・・おかしい・・・・弱すぎる・・・) すでに何度も武田勢と槍を合わせている平八郎は、敵の勢いが意外に鈍いことに当然気付 き、嫌な予感に襲われていた。しかし、ともかくも一刻も早くこの正面の敵を突き崩し、信玄 の本隊に備えねばならなかった。
もっとも焦っていたのは、本隊にいる家康であったろう。
いきなり織田勢が醜態をさらしはしたが、全体として戦況は家康に良かった。1万1千対
6千の戦いであり、それは当然といえば当然なのだが、三河武士たちは天下最強の武田勢
相手に臆することもなく、家康の死を決した気迫が乗り移ったように、遮二無二挑みかかっ
て下がらなかった。武田の小山田、山県、内藤と言えば、甲州なら子供でも知ってるよう
な信玄自慢の猛将たちなのだが、これを相手に一歩も譲らないなどは、なかなかできること
ではない。 「押せや、押せや!」 家康は盛んに押し太鼓を乱打させ、全軍を押し上げた。徳川勢は平八郎たちの左翼が特に 良く、徐々に武田方を圧倒し始めた。織田勢のもろさは意外だったが、少なくともここまで は、家康の想像通りに事態は進行していたのである。 このとき、物見が駆け戻って家康に異変を知らせた。 「敵に後詰め(援軍)がおりまする! 武田勝頼、馬場信春らが、凄まじき勢いにてこちら に向かって参りまする!」 「馬鹿な!? 早すぎる・・・!!」 家康は愕然とした。真っ先に坂を下ったはずの馬場信春や武田勝頼が、三方ヶ原の台地の 上にいるはずがないのである。 (・・・・謀られたか!)
家康は、このときになって初めて、武田信玄という戦国が生んだ稀代の戦術家の恐ろしさ
を肌身をもって味わうことになった。 家康にはもう、策がない。
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