歴史のかけら


合戦師

28

 元亀3年(1572)12月22日の陽が、いつのまにか暮れようとしていた。
 現代の時間で言えば午後の4時ごろ、家康は全軍を『鶴翼』に開かせ、じわりじわりと武 田勢6千に近づいていた。


「鍋、お前に忠真の本多隊も付ける。奮迅せい!」

 家康は部署決めに際し、平八郎の部隊を増強し、家康本隊 左側の一翼を担わせた。

「必ずご期待に副いまする!」

 平八郎の手勢は、本多隊2百を含めた5百になったのだが、これを悦んだのは、むしろ 叔父の本多忠真であった。

「久々に、我ら本多党に“平八郎”が戻ったわ!」

 忠真は自分の指揮権が失われたことよりも、平八郎と共に戦えることが嬉しくてたまらない ようであった。

 家康は左から、石川数正、平八郎、榊原康政、小笠原長忠と軍勢を並べ、家康の本隊を 置き、右翼は織田の援軍3千を配置し、最右翼に酒井忠次という布陣である。
 これに対して武田勢の6千は、一塊になって密集し、わずかずつ後退しなから徳川勢の 接近を待っているようであった。
 両軍の間隔が、どんどんと狭まっていく。

 辺りが夕闇の黄昏に染まり始めるころ、両軍の間隔はついに300mほどにまで接近していた。 すでに、一触即発の距離である。
 このとき、武田勢から一部の部隊が飛び出し、家康の右翼に向けて駆け出した。この一隊 は大胆にも織田軍の50mほど手前まで駆け寄り、持っていた拳大の石を取り出し、一斉に投石 を始めたのである。
 武田の“投石部隊”であった。
 武田軍には、こういう特殊な訓練を受けた部隊がある。膂力に優れた者たちが敵に向かっ て一斉に石を投じ、相手の顔を上げられなくさせてしまうのである。投石自体に殺傷力はそれ ほどないのだが、石から身を守ろうとすれば槍を捨てねばならず、石を避けようとすれば 隊伍を乱さざるを得ず、たかが石と侮れないほど非常に始末が悪い。しかも、ひるんで隊伍 を乱した相手に向け、怒涛のように突撃するのが信玄の常套手段で、北条氏をは じめ信玄と戦った相手はこの戦法をひどく嫌った。天下に武田の“投石隊”の攻撃をよく耐 え切って平静としていられたのは、上杉謙信に統率された越後勢だけであったろう。

 武田勢が家康の右翼を狙ったのは、援軍の織田勢が、見るからに戦意が乏しかったからで あった。戦う前から隊列が乱れ、旗も振るわず、どうにもまったくやる気が感じられない。 それも当然といえば当然で、織田勢は信長から戦そのものを止められていたのである。

(こんなところで無駄な戦をし、無駄死にしてなんになる)

 と、織田の客将たちは思っていた。なりゆきと家康に引きずられた格好で戦に参加させら れはしたものの、誰も彼も、足軽の端々にまで戦う気がはじめからなかった。
 これを、百戦錬磨の武田の武将たちが見逃すはずはない。まず一斉に石を投げつけ、いわ ば脅したのである。その効果は、仕掛けた武田方が驚くほどであった。
 武田の投石が始まると、信玄の戦法を聞き知っている織田勢は、

「すわ! 武田勢が突撃してくるぞ!」

 と、哀れなほどに動揺し、それだけで逃げ出そうとした者さえあった。

(・・これは、お屋形さまを待たずとも、我らだけで勝てるぞ!)

 押さえ部隊の先鋒である小山田信茂は、勢いも凄まじく織田の援軍部隊に向けて突撃を 開始し、瞬く間に織田勢を突き崩した。

(馬鹿な!? 脆すぎる!!)

 いきいなり右翼の半ばをもぎ取られた家康は、止むを得ず全軍に突撃を命じ、これを合図 に両軍が一斉に戦端を切った。

 最右翼にいた酒井忠次こそ哀れであった。ほとんど何の抵抗も示さず織田勢が崩れてし まったため、他にどうしようもなく、そのまま目の前の小山田隊に突撃せざるを得ない。

「掛かれやぁっ!」

 号令一下、一斉に鉄砲が斉射され、真っ黒になって三河武士たちが突撃した。する と――驚くべきことだが――最強と自負する武田勢が押しまくられ、たちまち数百mも押し 返されてしまったのである。

「押せ! 押せ! 武田勢とて鬼神ではないぞ!」

 右翼はほとんど、この酒井忠次一人で支えていたと言っていい。

 左翼は最初から善戦した。
 平八郎をはじめ、榊原康政、小笠原長忠、石川数正らは、家康が誇る最強の武将たちであ った。これが前面の山県昌景隊に突撃し、見事に武田の騎馬武者たちを押しまくっていた。

(三河者はやる・・・!)

 山県昌景は手勢を巧みに操りながら、大被害が出ないよう徐々に全軍を後退させ、敵の勢い に任せた。山県にしてみれば、信玄率いる本隊が戦場に帰ってくるまで、ほんの1時間ばかり この場を支えて時間を稼げばいいわけで、ここで押されても痛痒もない。

(・・おかしい・・・・弱すぎる・・・)

 すでに何度も武田勢と槍を合わせている平八郎は、敵の勢いが意外に鈍いことに当然気付 き、嫌な予感に襲われていた。しかし、ともかくも一刻も早くこの正面の敵を突き崩し、信玄 の本隊に備えねばならなかった。

 もっとも焦っていたのは、本隊にいる家康であったろう。
 家康は最初から馬に乗り、本隊をまっしぐらに敵に突撃させた。真っ赤な武田の騎馬隊を 間近に見ながら、彼は旗本の後ろから大声で味方を叱咤し、全軍を押し上げた。

 いきなり織田勢が醜態をさらしはしたが、全体として戦況は家康に良かった。1万1千対 6千の戦いであり、それは当然といえば当然なのだが、三河武士たちは天下最強の武田勢 相手に臆することもなく、家康の死を決した気迫が乗り移ったように、遮二無二挑みかかっ て下がらなかった。武田の小山田、山県、内藤と言えば、甲州なら子供でも知ってるよう な信玄自慢の猛将たちなのだが、これを相手に一歩も譲らないなどは、なかなかできること ではない。
 ここまでの戦況で言えば、武田勢は徳川勢の3倍以上の被害を出していただろう。武田方 の死傷者はすでに3百を越え、徳川方は織田勢以外は被害らしい被害は出ていなかった。

「押せや、押せや!」

 家康は盛んに押し太鼓を乱打させ、全軍を押し上げた。徳川勢は平八郎たちの左翼が特に 良く、徐々に武田方を圧倒し始めた。織田勢のもろさは意外だったが、少なくともここまで は、家康の想像通りに事態は進行していたのである。

 このとき、物見が駆け戻って家康に異変を知らせた。

「敵に後詰め(援軍)がおりまする! 武田勝頼、馬場信春らが、凄まじき勢いにてこちら に向かって参りまする!」

「馬鹿な!? 早すぎる・・・!!」

 家康は愕然とした。真っ先に坂を下ったはずの馬場信春や武田勝頼が、三方ヶ原の台地の 上にいるはずがないのである。

(・・・・謀られたか!)

 家康は、このときになって初めて、武田信玄という戦国が生んだ稀代の戦術家の恐ろしさ を肌身をもって味わうことになった。
 『鶴翼』に展開してしまった徳川勢に、その数倍の武田勢が一丸となって突っ込んでく れば、家康の本隊など紙のように簡単に突き破られてしまうだろう。しかし、すでに戦が始 まってしまっている以上、全軍を配置転換することはもはや不可能であった。
 家康は、全身の血が下がっていくような感覚に襲われた。

 家康にはもう、策がない。




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