歴史のかけら


合戦師

27

 家康は、犀ヶ崖から三方ヶ原台地に上がり、武田勢をジリジリと追いかけながら、戦術眼 を備えた高級将校を多数物見として派遣した。天下最強の武田勢との戦である。細作(忍者) 程度の物見では心もとない。
 このあたり、逸話が多い。


 鳥居 四郎左衛門 信元という男がいる。
 剛勇として知られ、常に家康の旗本として奮戦してきた武将で、「姉川の合戦」ではその 働きを信長から絶賛された男である。
 家康はこの鳥居信元に武田勢を偵察させた。すると、物見を終えて家康の本陣に駆け戻っ た信元は、

「他の連中が何と申しておるかは存ぜぬが、今日の合戦はすべきではござらん! 敵は大 軍! しかもまったく隙は無し! 今すぐ先陣に使いをやり、引き返させたほうがよろしゅ うござる! もし、どうしても一戦に及ぶと申されるなら、敵が祝田の坂を下り終えるころ 背後より忍び寄り、逆落としにこれに攻めかかれば百に一つの勝機があるやもしれませぬ!」

 と大声で怒鳴った。

「四郎左っ!!」

 家康は激怒した。『常山紀談』の古格な表現を借りれば、

「汝は用にも立つべき者と思ひて、今日の物見に遣りたるに、何とて後れたるや!」

 と一喝した。意訳すれば、「お前は役に立つ男だと思ったからこそ今日の物見という重要 な役割で使っているのに、なぜ敵の大軍を見て臆したか!」ということである。

 家康の気持ちを考えてやるなら、物には言い方というものがある。
 これから最強の武田の大軍に向かって行かなければならないことは誰もが解っており、誰 もがこの敵を怖れ、この合戦を怖れている。こういうときに、わざわざ敵を見に行った者が 大声で「今日の合戦はすべきではない」などと言えば、そうでなくとも萎みがちな士気がさ らに萎縮してしまうのは目に見えている。
 祝田の坂で決戦すべきことは、わざわざ言われるまでもなく家康も考えている。だからこ ういう時は、嘘でも「敵は思った以上に行軍が乱れており、士気も低く、なかなか面白き戦 ができるように見えました。祝田の坂から逆落としに攻め懸ければ、ご勝利間違いなし!」 などと景気の良い報告をして、味方を鼓舞して欲しかったのである。
 そう思ってわざわざ鳥居信元ほどの者を物見に出しているのに、この頑固実直な三河者は、 家康のために親身になって見たままを報告してくる。家康は味方を鼓舞するためにも、激怒 して大将の気迫を自軍に浸透させる必要があった。
 しかし、それにしても武士に向かって「臆病」というのは絶対の禁句であり、いわばタブ ーであった。家康に、諸将の面前で「臆したか!」と面罵され、鳥居信元はその恥ず かしさと情けなさで額の青筋が切れるほどに激怒した。

「一軍の大将ほどの者なら、合戦の利害をよく見極められよ! 負けると解っている戦を仕 掛けるのは采を振る殿の勝手でござるが、言うにことかいて、この拙者に向かって臆病とは なにごとぞっ!!」

 礼もせずに立ち上がると、唾を吐き捨てて駆け去ってしまった。

 鳥居信元はこの日、合戦が始まり、やがて敵に圧倒されて全線が崩壊し、彼の予言通り徳 川勢が敗走し始めると、「わしが臆病者かどうか、とくと見よ!」と絶叫しながら津波のよ うな武田勢の中に突撃し、信玄の本隊まで突っ込み、そこで信玄を守っていた武田の若き侍 大将 土屋昌次と一騎打ちを演じ、槍が折れるまで戦ったが力尽き、首を獲られた。


 また渡辺 半蔵 守綱という男も物見に走っている。
 渡辺守綱は「槍の半蔵」と異名を取るほどの戦場巧者で、三河一向一揆のときには家康に 叛いて戦い、家康の慈悲によって命を救われた。以来、常に命を張って家康のために戦い続け て数々の武功を挙げ、後に徳川16神将にも数えられる男である。このとき30歳。

 いよいよ武田に打ち掛かる、というときに馳せ帰った渡辺守綱は、

「まともに戦ができるような生半可な相手ではありませぬ! これ以上敵に近付かず、先鋒 隊を呼び返しなされ!」

 と叫んだ。
 鳥居信元の一件で、家康の怒気と決死の覚悟を知ってしまっている家康の近習たちは、も はや誰も守綱の言葉を聴かず、勇み立ち、かえって守綱を面罵し、なおも「どうか戦をお止 めくだされ!」と懇願する守綱を臆病と罵った。

 渡辺守綱は深く覚悟を決め、戦場では武田の騎馬武者相手に一歩も引かないほどの奮迅を 見せ、全軍が崩壊したときも踏みとどまって戦い、逃げては戦い、戦っては逃げ、「槍の半 蔵」の名に恥じぬ見事な活躍をした。
 結局家康は、生涯で最大の大敗北を喫することになるのだが、この渡辺守綱は、徳川勢が 浜松へ逃げ帰ったときも、追撃してくる武田勢の一部隊に向かって浜松城から突撃し、これ を粉砕し、追い返すほどの男の意地を見せた。


 さて、信玄の罠である。
 信玄が、行軍する隊列を通常の反対に入れ替え、最強部隊を後方に配して進軍していたこ とはすでに述べた。
 祝田の坂を下るにあたって信玄は、小山田信茂、山県昌景、内藤昌豊という一流の武将 たちの部隊6千を、家康の押さえとして残すことにした。
 これが、いわば“餌”であった。
 徳川勢は、家康の率いる三河勢8千に織田の援軍が3千である。家康は、この状況を見れ ば、全力を挙げてこの6千の部隊を粉砕しに掛かるであろう。敵に倍する戦力になったことで、 一時的に優位に立つことができる徳川方は、できる限り短時間でこの6千を撃破し、大被害を 与え、慌てて戻ってくる信玄本隊を坂の上から迎え撃つことができれば、形としては最高であ る。

(家康は、陣形を『鶴翼』にするだろう・・・)

 そんなところまで、信玄には見えた。
 『鶴翼の陣』というのは、鶴が翼を広げたように全軍を薄く広く展開し、正面の敵を包み 込むように包囲し、これを殲滅するための陣形である。相手を四方から攻撃できるため非常 に強力な陣形なのだが、中央が薄いために正面突破をされる危険があり、自軍が敵軍を数で 圧倒しているとき以外は危なすぎてとても使えない。
 徳川軍は、信玄本隊が坂を下ったときに、一時的にではあるが圧倒的に数で敵に優る 局面を作れる。このチャンスを生かして、『鶴翼の陣』で一気に抑えの6千を粉砕しようと するだろう。さらに慌てて坂を駆け登ってくる信玄の部隊を半円に包み込んで各個撃破でき れば、家康にも大いに勝ち目がある。

(しかし、わしはすぐさま軍を返す・・・)

 信玄は、そのためにこそ、あらかじめ全軍の隊列順序を入れ替えたのである。
 これが、いわば「魔術のタネ」であった。
 狭い坂を下りつつある2万もの大軍勢が行軍順序を入れ替えようと思えば、どうしても一旦 坂の下まで全軍を下ろさねばならず、そこから陣形を組み替え、もう一度坂を登って戦場に 駆けつけるには、どう急いでも2時間や3時間は掛かってしまうだろう。家康とすれば、 その時間を利用して6千の押さえ部隊を粉砕できると踏むはずであった。
 しかし、信玄はその時間を与えない。
 信玄は、押さえの部隊に家康が食いつけば、すぐさま全軍に回れ右を命じ、そのまま坂を 駆け登らせるつもりなのである。おそらく、1時間以内には戦場に戻れるだろう。

 家康は、この信玄の策を知らない。信玄によって、巧妙に自分の選択肢が狭められている ことに気付かなかった。
 家康は物見の報告を受け、武田勢が兵の一部を押さえとして残したと聞き、天啓だと思っ た。これを一気に粉砕し、駆け戻ってくる武田勢を順番に各個撃破することができれば、い かに信玄が大軍を擁していようとも、その力を十分に発揮することができないのである。

(・・勝てるかもしれぬ!)

 家康は全軍に展開を命じ、陣を『鶴翼』に張り、武田勢の押さえ部隊に挑みかかろうとし た。

 こうして、後世にまで有名になる「三方ヶ原の合戦」が始まる。
 家康は、老獪な信玄の策に、まんまとハメられた。




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